【第17頁:読まれる日常の、傍らで】(火焔猫燐視点)
あたいは、廊下の奥から離れたその足音を、わざと響かせながら歩いていた。
気配を隠さないように。呼吸も整えすぎないように。
誰に向けた配慮というわけでもない。
否定しないという選択。それが、あたいなりの答えだった。
部屋に戻ると、無意識に鏡台の前に立ち、髪を解く。
鏡の奥に映る自分の目が、どこか遠くを見ていた。
脳裏に焼きついて離れない。
さとりの崩れた髪、息を詰めたような瞳、かすれる声。
ミオの背中の汗。腰の動き。抱くという行為に込められた、どうしようもない“本気”。
——全部、見てしまった。
そして、あたいは、全部覚えていた。
それをどう扱えばいいのか分からず、結局、いつものように茶化すことしかできなかった。
ベッドに突っ伏し、くたりとため息を吐く。
「……なに、あれ。ずるいなぁ……」
ぽつりと漏れた声に、誰も応えはしない。
まだ誰にも読まれていないはずの胸の内が、じんわりと疼く。
けれど、あたいはそれを振り払うように、自分に言い聞かせるように笑った。
「はいはい、地霊殿の女王様は今日も絶好調だにゃ」
翌朝。
キッチンに立つあたいの手は、いつも通り皿を拭いていた。
けれどその耳は、食卓の方へ自然と向けられている。
さとりとミオが、並んで朝食をとっていた。
特別なことは何ひとつしていない。けれど、その“距離”が、昨日までとはまるで違う。
パンをちぎるミオ。それを無言で受け取るさとり。
ナイフを手にしたさとりに、すっとバターを差し出すミオ。
会話はない。けれど、言葉以上に通じ合っているのが見て取れる。
「……やるじゃん、あんたら」
誰に向けるでもなく、ぽつりと呟いた。
布巾を持つ手が、泡立った皿の縁を、無意識に何度も何度もこすっていた。
——長いこと、さとり様は、心を閉ざしていた。
こいし様ほどじゃないとしても。
読む者としての誇り。さとり妖怪としての威厳。
何百年という孤独。
それら全部が、さとり様を“支配者”であらしめていた。
あたいにとっても、それは揺るぎない真実だった。
……それが、変わったんだ。
あの人間——ミオと出会ってから。
「……すごいなぁ」
言葉にしてみたら、なんだか照れくさくて、鼻を鳴らした。
そのとき、不意に視線を感じる。
ちらりと顔を上げると、さとりがこちらを見ていた。
第三の目じゃない。いつもの、あの瞳。
微笑んだ。柔らかく、何も言わずに。
あたいは思わず視線を逸らし、唇を引き結ぶ。
「……やれやれ。あんたがいちばん、読ませるじゃんか」
苦笑まじりに皿を拭き上げる。
もう一度だけ、ちらりとふたりを見る。
パンをちぎり、スープを飲み、何気ない仕草のすべてが、今はやけに眩しかった。
「……でもまあ、悪くないよ。こういうのも」
心の中でだけ、そう呟いて。
その瞬間だった。
ぴり、と背中を舐めるような感覚が走った。
それは風でも冷気でもなく、内側から湧き上がる微細な震えだった。
「……え?」
思わず、首をすくめる。
ぞわぞわと、背筋の奥に何かが這い登ってくるような感覚。
腰のあたりが、じん、と妙に重くなる。
足の指先が、床を掴むように力んでしまう。
「うそ……?」
喉の奥が乾く。
尻尾の付け根が、むずむずと疼く。
耳の先が熱い。額がじんわりと汗ばんでくる。
「ったく、なんてタイミング……」
元・猫としての本能。
妖怪化してからは長い間、理性で抑え込んできたもの。
——まぎれもない。
“発情期”だった。
誰にも聞かれたくないような独り言。
けれど、それを誰かさんに読まれてしまいそうで、口を噤む。
そのまま猫のように静かにキッチンを離れた。
足取りは落ち着かない。
身体の奥に、燻るような熱が広がっていた。
「……見ちゃったから、かな。あれ」
頬が自然に火照っている。
扉の前で、ふと足が止まる。
もう一度、後ろを振り返る。
食卓のふたり。
知らないふりで、お互いを“読み合って”いるふたり。
あたいは、小さく笑って、ぽつりと呟いた。
「……お願い。誰も……今のあたい、読まないでね」
その声が誰かに届く前に、彼女はそっと扉を閉じた。