本のページをめくるたびに、指先が紙の質感を思い出していく。
夕刻。
地霊殿の客室、いや、もはや“私の部屋”と呼んでいい空間には、静かな時間が流れていた。
天井近くの灯が妖力の揺らぎでふわりと明るさを変えるたびに、文字の影が微かに踊る。
さとりは今日は書斎に籠っていた。
だからこの時間は、久しぶりに“読まれない”——静謐なひととき。
私は、目の前の行の意味よりも、ただその流れに身を置いていた。
紙の匂い、寝台の温もり、自分の鼓動。
カチャ。
扉のノブが、音もなく回った。
ノックはなかった。
そちらに顔を向けるより早く、気配が部屋に入ってきているのがわかる。
お燐だった。
「……どうした?」
声をかけても返事はなかった。
彼女は部屋の入り口に立ったまま、じっとこちらを見ていた。
その顔は、いつものいたずらっぽさも、朗らかな笑みもなかった。
まっすぐに——それでいて、どこか熱を帯びた目。
いつも真紅だったはずの瞳が、暗い緑色に染まっていた。
その色に、心臓が一拍遅れて跳ねる。
「……お燐?」
ベッドの上から体を起こしかけた、その瞬間——
お燐の影が滑るように間合いを詰めてきた。
気づけば、肩が押されていた。
重くはない。けれど、拒めなかった。
背がベッドに沈み、身体が傾く。
本がぱさりと落ち、表紙を伏せた。
視界には、お燐の朱い髪と、見慣れない色の瞳だけが映っていた。
「お、おい……?」
その問いかけは、返ってこなかった。
彼女の瞳は、何かを探すように、あるいは——測るように、私を覗き込んでいた。
空気が、妙に熱い。
何かが始まる、という直感だけが、胸の奥をじりじりと焼いていた。
距離ではない——熱と、空気の密度。
それが、あまりに“異質”。
普段の軽やかさも、甘えた仕草も消えていた。
代わりにそこにあるのは、何か、強くて、痛いもの。
「……や、やめろ、お燐。何して——」
言い終える前に、唇が塞がれた。
柔らかく、けれど一方的で、舌が押し込まれてくる。
私は呆然としたまま、それを受け入れてしまった。
腰がずるりとずらされ、脚が開かされる。
「まって……本当に、どうしたんだ……?」
服の裾をまさぐる指先は、震えていなかった。
むしろ、熱に浮かされたように迷いがない。
上着のボタンが、はじける音を立てて外される。
素肌に触れた手は冷たくなかった。
火照っていた。私と同じ、いや、それ以上に。
「さとり様ばっかり……ずるい……」
その囁きは、まるで吐き捨てるように、私の胸元に零れ落ちた。
「読んで読まれて、抱かれて、あんなふうに……幸せそうな顔して……!」
お燐の声が震えた。
だが、その手は止まらなかった。
まるで、それ以外の方法をもう知らないかのように。
私は、手首を掴もうとした。
けれど、その前に腰を押さえられ、背中がマットに沈む。
「お燐、やめろ、ほんとに……っ」
「……やめたら、あたい、壊れちゃう……」
その言葉は、あまりにも正直すぎて、抵抗の力を失わせた。
下半身の衣服が剥かれ、露わになった腹筋に、彼女の髪が触れる。
そして、何の前触れもなく——
ぬるりと、舌が這った。
「っ……!」
思わず声が漏れた。
さとり以外、何人たりとも触れてはいけないと、どこかで思っていた場所。
でも、お燐はそこをなぞり、吸い、食むように味わっていく。
喉が熱い。
叫びたいのに、声にならない。
私は、読まれずにいる。
さとりではない者に。
ただ、欲望だけで貪られている。
それが、どうしようもなく、怖くて、でも——快楽だった。
「……あたい、だって……見てたんだ……全部……」
お燐の声は涙ぐんでいた。
けれど、舌の動きは止まらない。
私は、抵抗をやめてしまった。
感情と身体が乖離していく。
その狭間で、お燐の嫉妬が、私の中へと刻まれていく。
「……壊して、やる……あたいを……あたいを、見てよ……!」
そんなふうに叫ぶ彼女の声が、震える腰の奥に直接届くようで——
私は、何も返せないまま、目を閉じた。
部屋の空気が、突然変わった。
それは扉が開く音よりも早く、第三の目が“脈打った”気配によって、私の全身に走った。
そして——
「……なにをしているの、あなたたち」
低く、確実に怒気を孕んだ声。
さとりだった。
——反射的に、私は剥かれていた下着を引き上げていた。
下半身を晒したまま、さとりに見られていることが、
恐ろしくて、恥ずかしくて、何よりも見苦しいと感じたからだ。
けれど、布の下、その遥か下まで、第三の目はすべてを読んでいる。
そう思った瞬間、指先の動きが止まり、私は目を伏せた。
……意味なんて、なかったのだ。
お燐の身体は私の上にあるまま、固まっている。
振り返ったその顔に、はじめて“我に返った”という色が浮かんでいた。
「さ、とり……様……」
お燐の声が、震える。
さとりは無言のまま、部屋に足を踏み入れた。
その第三の目が、ふたつぶん跳ねた。
“読む”。
その一言を誰も口にしなかったが、
その場にいた全員が、心の中を覗かれていると理解した。
恥も、恐れも、欲望も。
この部屋に渦巻いていたもののすべてが——
瞬時に、彼女の中へ流れ込んでいた。
「……呆れたわ」
さとりは、ゆっくりと目を伏せた。
「読まなくても、わかってた。
でも、あなたがそこまで追い詰められてるとは思わなかった……お燐」
「あたい……ごめ、なさい……! あたい……っ……!」
お燐は私の上から転げ落ちるようにして降り、床に手をつく。
猫のように耳を伏せ、尾を丸めて、ただ震えていた。
さとりは、数歩近づいて——
私とお燐を、交互に見た。
そして、ほんの一拍の間を置いて。
「……仕方ないわね」
そう言ったその声には、呆れと……どこか、諦めにも似た優しさが滲んでいた。
そのまま、静かにさとりはベッドに腰を下ろし、お燐の肩に手を添える。
「……お燐。あなたの中の嫉妬は、今夜ここで溶かしてあげる」
夜の空気が、また違った熱を帯びてゆく。