※この作品はR-18です。

読まれる日常   作:昼間寝音

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【第2頁:読む者のいない図書館】(古明地さとり視点)

謎の来訪者は倒れこんだ。

膝をつき、前のめりに。

張り詰めていた何かが切れ、重力がそのまま彼を受け止めた——そんな風に。

 

わたしは、そのまま数秒、動かなかった。

胸元の『第三の目(サードアイ)』が、ぴくりと脈動する。

けれど、彼から伝わってくるものは……

「疑問」と「疲労」、そしてほんの僅かの「安堵」。

 

……そう、「安堵」。

 

それが、わたしを少しだけざわつかせた。

 

安堵の理由は、明白だった。

わたしに心を読まれることが、彼にとって恐怖ではなく、むしろ……渇望のように映った。

 

「理解されたい」

 

そう、彼は願っていた。

それも、日常の誰かに抱く淡い願望ではない。

 

誰にも触れられなかった心。

どこにも届かなかった言葉。

その果てに置き去りにされた、並々ならぬ孤独。

 

それを、わたしは確かに感じ取っていた。

 

彼の心に、ぽっかりと空いた空白。

その空白に、わたしという存在が介入した瞬間——

彼の心は、安堵していた。

 

……おかしい。

 

わたしは、いつも拒絶される側。

わたしの言葉は、心の奥にまで届きすぎてしまう。

だからこそ、人も妖も、わたしを恐れ、遠ざける。

 

なのに、この人間は……

 

わたしは、ゆっくりと彼の傍らにしゃがみ込んだ。

わずかな汗の匂いを感じながら、再び彼の内面へと意識を沈めてみる。

 

そこはまるで、澄みきった広大な湖のようであった。

水面は、波紋一つなく、わたしの存在を迎え入れる。

拒絶も、警戒のざわめきも、何もない。

ただひたすら、透明で、穏やかで、静かだった。

 

水面に触れた瞬間、肌をなぞるような微かな感触が全身を包む。

呼吸は自然に深まり、感覚の世界へ、身体ごと溶けていく。

重さも、方向も忘れたまま——わたしは、深く、さらに深く潜っていった。

 

ひんやりと冷たいが、ただ静かに、わたしを受け入れてくれる。

衣のすそが揺れ、髪がゆるやかに広がっていくのを感じながら、わたしは意識の底に向けて、ゆっくりと泳いだ。

それは、誰かの記憶に触れるというより、そのまま一つの存在に融けていくような感覚だった。

心を読む行為に、ここまで快楽にも似た心地よさを感じたことはない。

彼の内側は、理解されることに、すでに身を明け渡している。

まるで、「どうぞ」と告げるように、開かれたままの深淵がそこにあった。

 

読心はすでに彼の最奥——“心象風景”の入口に達していた。

通常なら、ここから先に踏み込むには時間も段取りも必要だ。

無理に探れば、拒絶反応で弾かれるか、錯乱する可能性もある。

 

心の最終防壁ともいえる扉は、あった。確かにそこに、形として“存在”していた。

けれどその表面に触れようとした瞬間、かすかに震え、音もなく、ゆっくりと開かれていく。

内側から迎え入れるように。

 

読心者としての経験が、脊髄の奥で告げていた。

「おかしい」と。

こんなにも早く、深く、誰かの心に受け入れられるはずがない。

 

それでも——扉の奥は、もう目の前にあった。

そこから吹いてくる風は、どこか懐かしく、そして空虚な匂いがした。

わたしは一歩、足を踏み出す。

読まれることを望む心に、迎え入れられるように。

 

……そして、そこでわたしは、静かな衝撃を受けた。

 

広い。あまりにも。

 

無数の書架。天井の見えないほど高く積み上がった本。

その一つ一つが、彼の記憶、思考、夢、恐れ——

しかし、それらにはどれも“タイトル”がない。

背表紙に刻まれるべき言葉が、ことごとく欠けている。

 

わたしは、そっと本の背に指を添える。

けれど、そこにはただ、白く滑らかな表面だけ。

読むことは、できそうだ。

だが、どこから読めばいいのか分からない。

 

まるで、図書館が“読まれることを望んでいる”のに、

“読まれる前提を持っていない”ようだった。

 

ふ、と息が漏れる。

 

(……これは、何かの準備だったのかしら?

誰かに読まれるために、ここまで積み上げておいて——

けれど、その“誰か”が来ないまま、時間だけが過ぎた?)

 

歩を進めるたびに、紙と、インクの香。

それらは不思議と鮮やかだった。

 

そしてわたしは、開けた空間の中央近くに差しかかる。

書架の並びが途切れ、視線が抜けたその先に、

ひとつだけ置かれた机と椅子——読者席があった。

 

机の上には、一冊の本が置かれている。

 

白紙のまま。けれど、ページは開きっぱなしで、まるで誰かがそこを読んでいたかのようだった。

いや、きっと、“待っていた”のだ。

——わたしが来るのを。

 

指を、伸ばす。

ページに触れようとした瞬間。

 

胸元の第三の目が、ぴくりと脈打った。

——反応。

彼の心が、こちらに“気づいた”。

眠っているはずの彼が、ほんの一瞬、夢の奥で微かに目を開いたような感覚。

 

わたしは、本には触れなかった。

ページに記されたものは何もなく、それでも、ここまで来ればもう十分だった。

 

わたしは、そっと椅子から手を離す。

心の底にたゆたっていた意識が、すこしずつ浮上していく。

水面へと戻る感覚。

深く澄んだ湖の中から、ゆるやかに上昇していく身体。

髪が揺れ、衣が広がり、周囲の気配がひとつ、またひとつと現実へと戻ってくる。

彼との繋がりが、穏やかにほどけていく。

 

彼の心は、わたしを拒まなかった。

だからこそ、わたしは、その心に“滞在しすぎてはいけない”と感じていた。

読まれることを望む心には、

ときに、触れないことでしか守れないものがある。

 

そして——わたしは、そっと呟く。

 

「少しの間だけよ。あなたを……わたしの館へ運ぶわ」

 

誰に言うでもないその言葉に、返事はない。

けれどその沈黙が、どこか心地よく感じられた。

 

——わたしは、こうして“彼”を連れ帰った。

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