謎の来訪者は倒れこんだ。
膝をつき、前のめりに。
張り詰めていた何かが切れ、重力がそのまま彼を受け止めた——そんな風に。
わたしは、そのまま数秒、動かなかった。
胸元の『第三の目(サードアイ)』が、ぴくりと脈動する。
けれど、彼から伝わってくるものは……
「疑問」と「疲労」、そしてほんの僅かの「安堵」。
……そう、「安堵」。
それが、わたしを少しだけざわつかせた。
安堵の理由は、明白だった。
わたしに心を読まれることが、彼にとって恐怖ではなく、むしろ……渇望のように映った。
「理解されたい」
そう、彼は願っていた。
それも、日常の誰かに抱く淡い願望ではない。
誰にも触れられなかった心。
どこにも届かなかった言葉。
その果てに置き去りにされた、並々ならぬ孤独。
それを、わたしは確かに感じ取っていた。
彼の心に、ぽっかりと空いた空白。
その空白に、わたしという存在が介入した瞬間——
彼の心は、安堵していた。
……おかしい。
わたしは、いつも拒絶される側。
わたしの言葉は、心の奥にまで届きすぎてしまう。
だからこそ、人も妖も、わたしを恐れ、遠ざける。
なのに、この人間は……
わたしは、ゆっくりと彼の傍らにしゃがみ込んだ。
わずかな汗の匂いを感じながら、再び彼の内面へと意識を沈めてみる。
そこはまるで、澄みきった広大な湖のようであった。
水面は、波紋一つなく、わたしの存在を迎え入れる。
拒絶も、警戒のざわめきも、何もない。
ただひたすら、透明で、穏やかで、静かだった。
水面に触れた瞬間、肌をなぞるような微かな感触が全身を包む。
呼吸は自然に深まり、感覚の世界へ、身体ごと溶けていく。
重さも、方向も忘れたまま——わたしは、深く、さらに深く潜っていった。
ひんやりと冷たいが、ただ静かに、わたしを受け入れてくれる。
衣のすそが揺れ、髪がゆるやかに広がっていくのを感じながら、わたしは意識の底に向けて、ゆっくりと泳いだ。
それは、誰かの記憶に触れるというより、そのまま一つの存在に融けていくような感覚だった。
心を読む行為に、ここまで快楽にも似た心地よさを感じたことはない。
彼の内側は、理解されることに、すでに身を明け渡している。
まるで、「どうぞ」と告げるように、開かれたままの深淵がそこにあった。
読心はすでに彼の最奥——“心象風景”の入口に達していた。
通常なら、ここから先に踏み込むには時間も段取りも必要だ。
無理に探れば、拒絶反応で弾かれるか、錯乱する可能性もある。
心の最終防壁ともいえる扉は、あった。確かにそこに、形として“存在”していた。
けれどその表面に触れようとした瞬間、かすかに震え、音もなく、ゆっくりと開かれていく。
内側から迎え入れるように。
読心者としての経験が、脊髄の奥で告げていた。
「おかしい」と。
こんなにも早く、深く、誰かの心に受け入れられるはずがない。
それでも——扉の奥は、もう目の前にあった。
そこから吹いてくる風は、どこか懐かしく、そして空虚な匂いがした。
わたしは一歩、足を踏み出す。
読まれることを望む心に、迎え入れられるように。
……そして、そこでわたしは、静かな衝撃を受けた。
広い。あまりにも。
無数の書架。天井の見えないほど高く積み上がった本。
その一つ一つが、彼の記憶、思考、夢、恐れ——
しかし、それらにはどれも“タイトル”がない。
背表紙に刻まれるべき言葉が、ことごとく欠けている。
わたしは、そっと本の背に指を添える。
けれど、そこにはただ、白く滑らかな表面だけ。
読むことは、できそうだ。
だが、どこから読めばいいのか分からない。
まるで、図書館が“読まれることを望んでいる”のに、
“読まれる前提を持っていない”ようだった。
ふ、と息が漏れる。
(……これは、何かの準備だったのかしら?
誰かに読まれるために、ここまで積み上げておいて——
けれど、その“誰か”が来ないまま、時間だけが過ぎた?)
歩を進めるたびに、紙と、インクの香。
それらは不思議と鮮やかだった。
そしてわたしは、開けた空間の中央近くに差しかかる。
書架の並びが途切れ、視線が抜けたその先に、
ひとつだけ置かれた机と椅子——読者席があった。
机の上には、一冊の本が置かれている。
白紙のまま。けれど、ページは開きっぱなしで、まるで誰かがそこを読んでいたかのようだった。
いや、きっと、“待っていた”のだ。
——わたしが来るのを。
指を、伸ばす。
ページに触れようとした瞬間。
胸元の第三の目が、ぴくりと脈打った。
——反応。
彼の心が、こちらに“気づいた”。
眠っているはずの彼が、ほんの一瞬、夢の奥で微かに目を開いたような感覚。
わたしは、本には触れなかった。
ページに記されたものは何もなく、それでも、ここまで来ればもう十分だった。
わたしは、そっと椅子から手を離す。
心の底にたゆたっていた意識が、すこしずつ浮上していく。
水面へと戻る感覚。
深く澄んだ湖の中から、ゆるやかに上昇していく身体。
髪が揺れ、衣が広がり、周囲の気配がひとつ、またひとつと現実へと戻ってくる。
彼との繋がりが、穏やかにほどけていく。
彼の心は、わたしを拒まなかった。
だからこそ、わたしは、その心に“滞在しすぎてはいけない”と感じていた。
読まれることを望む心には、
ときに、触れないことでしか守れないものがある。
そして——わたしは、そっと呟く。
「少しの間だけよ。あなたを……わたしの館へ運ぶわ」
誰に言うでもないその言葉に、返事はない。
けれどその沈黙が、どこか心地よく感じられた。
——わたしは、こうして“彼”を連れ帰った。