——目を、開ける前から、わかっていた。
自分はもう、あの石畳の上にはいない。
肌を包むのは、荒い岩の感触ではなく、柔らかく乾いた布地。
微かにラベンダーのような香りが漂う毛布が胸元に重なり、枕に沈んだ頭の奥で、重たい靄がゆっくりと溶けていく。
やがて、瞼がゆるく開き、赤褐色の天井が視界に入った。
窓辺には分厚い織物のカーテンが垂れ下がっている。
頭を動かすと、髪が枕に擦れる音が、やけに大きく感じられた。
自分の呼吸の音が、部屋の壁に反響し、跳ね返ってくる。
その微かな揺り戻しが、「ここが現実であること」をようやく納得させる。
けれど、確かに感じているはずの重さ、温度、香り——
それらが、どこか現実味を帯びていない。
……ここは、どこだ。
そう思いかけて、記憶を探る。
——だが何も、出てこなかった。
紫陽花。
眼のような球体。
それだけが、脳裏に焼きついている。
それ以外のこと——自分が誰で、なぜここにいるのか、どこから来たのか、何一つ思い出せない。
まるで、世界に置き去りにされた心だけが、目を覚ましたかのような感覚。
自分の存在は確かにここにあるのに、それを支えるものが何も無い。
身体を起こそうとしたが、四肢はまだ頼りなく、毛布の中でわずかにきしんだだけだった。
静寂は続いているはずなのに、どこかで「気配」が鳴っている。
音ではない。視界にもいない。
けれど、たしかに“こちらを見ている”何かがあるように感じた。
コン、コン……
控えめな音が、扉の向こうから響いた。
反響音が部屋をわずかに揺らし、まだ目覚めきらぬ頭の奥に染み込んでいく。
寝返りを打つように、私は首を動かした。
その動作すら、どこか不確かで、他人の身体を借りているような感覚がついてまわる。
もう一度、ノック。
先ほどよりも、わずかに間を置いた二度目の音。
「……入っても、いいかしら? そう、いいのね」
それは、記憶に残る“声”だった。
耳ではなく、心に届くような柔らかな声色。
気配が近づく。
続いて——
ギィ……と、扉がゆっくりと音を立てて開く。
姿を現したのは、あの少女——
淡い水色の上着に、フリルの付いたスカート。
胸元には、あの眼のような球体。
彼女は、部屋の空気に溶け込むように、ゆっくりと歩を進める。
私は、毛布の中から身じろぎもできずに、ただその光景を目で追っていた。
彼女は、私のベッドの横まで来ると、そこで足を止めた。
視線が合う。いや——視線を交わす前に、私の内側が見透かされていく感覚があった。
彼女は、微笑んだ。
「お目覚めね。……思ったより、早かったわ」
続けて、部屋の片隅へ視線を送る。
「少し、明るくするわね」
そう告げた彼女の意志に呼応するように、空間の一部がふわりと滲むように発光した。
それは光源というより、光そのものが空気に溶け出したような現象で、明確な発生源は見当たらない。
部屋全体が、やわらかな光に満たされる。
私は、その不可思議な現象に、戸惑いと同時にある種の異物感を抱いた。
見たことも、感じたこともない種類の“光”——
その違和感に反応するように、彼女が再び、口を開いた。
「なるほど……やっぱり、あなたは“外”の人間なのね」
“外”とは、どこを指しているのか。
そして自分は、いったいどこから来たというのか。
彼女は、私の胸中の混乱を読むように、少しだけ表情をやわらげる。
「ここは幻想郷。あなたが元いた世界からこぼれ落ちたものたちの、最後の楽園よ。
消えたもの、忘れ去られたもの、存在を否定されたものが、生き残っている場所……そう言えばいいかしら。
例えば、わたしは——古明地さとり。心を読む“さとり妖怪”。
あら……知っていたのね?毛むくじゃらだと思っていた? ……ふふ」
まるで、心を覗き見されたというより、自分が最初から“開かれていた”ような感覚だった。
自分のすべてが、思考の形を取る前に拾い上げられている。
それなのに、嫌悪や恐怖は、なぜか湧いてこなかった。
むしろその逆——
彼女の前では、何も隠さずにいていい。
言葉を選ばなくても、思い違いを恐れなくてもいい。
そんな、どこか甘やかな安堵が、じわじわと胸の奥に滲んでくる。
“そのままの自分”でいられることに、身体の奥がほっとしているようだった。
「……本当に、怖くないのね。
心を覗かれることを、嫌がらないどころか……安堵している。
ふふ……あなた、変わってるわ」
彼女は、ひとつ息を吐き、小さく肩をすくめた。
そして、少しだけ視線を逸らしてから、改めてこちらを見つめ直す。
「……これから、どうするつもりなのかしら?」
その問いに、私は答えることができなかった。
行くあても、帰る場所も、思い出せない。
そもそも、自分が何者かも分からないのだから。
彼女は、その沈黙に微笑を浮かべる。
「そう……じゃあ、しばらくは、ここにいなさいな。
あなたのこと、少し興味があるの。
それに……地霊殿には、空き部屋くらい、いくらでもあるもの」
そうして、奇妙な世界の、奇妙な館で、奇妙な妖怪との共同生活が始まった。