※この作品はR-18です。

読まれる日常   作:昼間寝音

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【第3頁:読む者の住む館】

——目を、開ける前から、わかっていた。

自分はもう、あの石畳の上にはいない。

 

肌を包むのは、荒い岩の感触ではなく、柔らかく乾いた布地。

微かにラベンダーのような香りが漂う毛布が胸元に重なり、枕に沈んだ頭の奥で、重たい靄がゆっくりと溶けていく。

 

やがて、瞼がゆるく開き、赤褐色の天井が視界に入った。

窓辺には分厚い織物のカーテンが垂れ下がっている。

頭を動かすと、髪が枕に擦れる音が、やけに大きく感じられた。

 

自分の呼吸の音が、部屋の壁に反響し、跳ね返ってくる。

その微かな揺り戻しが、「ここが現実であること」をようやく納得させる。

けれど、確かに感じているはずの重さ、温度、香り——

それらが、どこか現実味を帯びていない。

 

……ここは、どこだ。

そう思いかけて、記憶を探る。

——だが何も、出てこなかった。

 

紫陽花。

眼のような球体。

それだけが、脳裏に焼きついている。

それ以外のこと——自分が誰で、なぜここにいるのか、どこから来たのか、何一つ思い出せない。

 

まるで、世界に置き去りにされた心だけが、目を覚ましたかのような感覚。

自分の存在は確かにここにあるのに、それを支えるものが何も無い。

 

身体を起こそうとしたが、四肢はまだ頼りなく、毛布の中でわずかにきしんだだけだった。

 

静寂は続いているはずなのに、どこかで「気配」が鳴っている。

音ではない。視界にもいない。

けれど、たしかに“こちらを見ている”何かがあるように感じた。

 

コン、コン……

 

控えめな音が、扉の向こうから響いた。

反響音が部屋をわずかに揺らし、まだ目覚めきらぬ頭の奥に染み込んでいく。

 

寝返りを打つように、私は首を動かした。

その動作すら、どこか不確かで、他人の身体を借りているような感覚がついてまわる。

 

もう一度、ノック。

先ほどよりも、わずかに間を置いた二度目の音。

 

「……入っても、いいかしら? そう、いいのね」

 

それは、記憶に残る“声”だった。

耳ではなく、心に届くような柔らかな声色。

 

気配が近づく。

続いて——

ギィ……と、扉がゆっくりと音を立てて開く。

 

姿を現したのは、あの少女——

淡い水色の上着に、フリルの付いたスカート。

胸元には、あの眼のような球体。

 

彼女は、部屋の空気に溶け込むように、ゆっくりと歩を進める。

私は、毛布の中から身じろぎもできずに、ただその光景を目で追っていた。

 

彼女は、私のベッドの横まで来ると、そこで足を止めた。

視線が合う。いや——視線を交わす前に、私の内側が見透かされていく感覚があった。

 

彼女は、微笑んだ。

 

「お目覚めね。……思ったより、早かったわ」

 

続けて、部屋の片隅へ視線を送る。

「少し、明るくするわね」

 

そう告げた彼女の意志に呼応するように、空間の一部がふわりと滲むように発光した。

それは光源というより、光そのものが空気に溶け出したような現象で、明確な発生源は見当たらない。

部屋全体が、やわらかな光に満たされる。

 

私は、その不可思議な現象に、戸惑いと同時にある種の異物感を抱いた。

見たことも、感じたこともない種類の“光”——

その違和感に反応するように、彼女が再び、口を開いた。

 

「なるほど……やっぱり、あなたは“外”の人間なのね」

 

“外”とは、どこを指しているのか。

そして自分は、いったいどこから来たというのか。

彼女は、私の胸中の混乱を読むように、少しだけ表情をやわらげる。

 

「ここは幻想郷。あなたが元いた世界からこぼれ落ちたものたちの、最後の楽園よ。

消えたもの、忘れ去られたもの、存在を否定されたものが、生き残っている場所……そう言えばいいかしら。

例えば、わたしは——古明地さとり。心を読む“さとり妖怪”。

あら……知っていたのね?毛むくじゃらだと思っていた? ……ふふ」

 

まるで、心を覗き見されたというより、自分が最初から“開かれていた”ような感覚だった。

自分のすべてが、思考の形を取る前に拾い上げられている。

 

それなのに、嫌悪や恐怖は、なぜか湧いてこなかった。

 

むしろその逆——

 

彼女の前では、何も隠さずにいていい。

言葉を選ばなくても、思い違いを恐れなくてもいい。

そんな、どこか甘やかな安堵が、じわじわと胸の奥に滲んでくる。

 

“そのままの自分”でいられることに、身体の奥がほっとしているようだった。

 

「……本当に、怖くないのね。

心を覗かれることを、嫌がらないどころか……安堵している。

ふふ……あなた、変わってるわ」

 

彼女は、ひとつ息を吐き、小さく肩をすくめた。

そして、少しだけ視線を逸らしてから、改めてこちらを見つめ直す。

 

「……これから、どうするつもりなのかしら?」

 

その問いに、私は答えることができなかった。

 

行くあても、帰る場所も、思い出せない。

そもそも、自分が何者かも分からないのだから。

 

彼女は、その沈黙に微笑を浮かべる。

 

「そう……じゃあ、しばらくは、ここにいなさいな。

あなたのこと、少し興味があるの。

それに……地霊殿には、空き部屋くらい、いくらでもあるもの」

 

そうして、奇妙な世界の、奇妙な館で、奇妙な妖怪との共同生活が始まった。

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