それは、もう三度目の朝だった。
地霊殿の天井は、変わらず赤褐色の木目を湛えている。
窓辺の分厚いカーテンも、ほとんど形を変えずにそこに在り続けている。
けれど、自分の身体だけは、確かに動くようになった。
足を床につけ、椅子に腰を下ろし、手のひらで湯気の立つカップを包む。
ごく当たり前の動作が、どこか儀式めいて感じられるのは、この数日間が夢だったからなのか、あるいは今がまだ現実ではないからか。
「……眠りの質、今朝は少し良かったみたいね」
扉を開ける音すらなかった。
いつの間にか、さとりは部屋の入り口に立っていた。
「ええ、ちゃんと聞こえてるわ。“どこまでが夢だったのか”……でしょう?」
私は何も言っていない。
けれど、言葉にする必要など、最初からなかった。
——この三日間、そういう日々だった。
何かを疑問に思えば、その瞬間に、彼女の口が答えを語り出す。
幻想郷とは何か、妖怪とは何か、地霊殿はどこにあって、外の世界とどう違うのか。
彼女の語りは、まるで一冊の百科全書を丸ごと開いたようだった。
けれど一度として、「質問」を口にした記憶がない。
すべて、胸の内に浮かびかけた“問いの芽”を、彼女が先回りして刈り取っていったのだ。
「不思議だったでしょう?
何もかも、あなたが言葉にする前に伝わってくるなんて」
さとりは、卓上のカップに目をやり、ついでにそれを持ち上げてひとくち啜る。
それは、私のぶんだったはずだが、なぜか不快には感じなかった。
「でもね、それが“読まれる”ってことなの。
質問する前に答えられてしまうという感覚。
……あなたは、すぐ慣れたわね」
そういえば。
目覚めてから、私の方はというと、彼女から何も訊かれなかった。
名前も、記憶も、自分が何者かということさえ——
さとりは、ただ淡く微笑んで、必要な食事と毛布と、静かな時間だけを差し出してくれた。
そして私は、それに甘えていた。
問いただされることも、気遣われすぎることもなく、ただ“そこにいる”ことを許される。
その心地よさに、私は深く沈み込み、まるで温かな泥に身を委ねるように——何もかも忘れかけていた。
……それが、いけなかったのかもしれない。
「……あら」
ふと、さとりが、視線だけこちらに向けた。
卓上のカップから湯気が揺れ、彼女の胸元の“目”が、ゆるやかに脈打つ。
「今、少しだけ……罪悪感を覚えたわね?」
ドキリとする。まるで心音をそのまま盗聴されたかのような感覚。
だがそれは、いまさらのことだった。——この三日間、ずっとそうだったのだから。
「気に病むことはないわ。私は、あなたのその沈黙も含めて、好ましく思っているの」
声に、わずかな熱が乗る。
「でも……そうね。そろそろ、ひとつだけ——わたしのお願い、聞いてくれるかしら?」
私は、軽く息を吸い、視線を彼女に向けた。
「お願い?」
「ええ。あなたの“内側”に……もう一度、触れさせてほしいの」
私の胸の奥で、何かが静かに震えた。
「……自分もそこに何か、思い出せるものがあるかもしれない。そう思うんだ」
私は、言葉を口にするより先に、心で頷いていた。
さとりは、ほんのわずか目を細め、口元をほころばせた。
「ええ。じゃあ……読ませてもらうわね」
私は、さとりの言葉にうなずいたあと、自分からベッドの上に身を横たえた。
仰向けの姿勢で、枕に頭を預け、腹の上で手を組む。
まるで、眠るための準備を整えるように——けれど、眠るわけではない。
さとりは、私の横に据えられた椅子に腰を下ろした。
その動作は、静かで、丁寧で、どこか儀式めいていた。
さとりが指を動かすと、部屋を満たしていた光は溶けて消えた。
「……力を抜いて。あなたの心は、もう、わたしに開いているわ」
さとりの囁きが、額の奥に溶けていくように響く。
呼吸が、自然と深くなった。
まぶたの裏の闇が、一面に広がる湖のような風景に変わっていく。
一つ一つがほどけていく感覚に、私はただ身を預けていた。
重さも音も失われていく。
世界は、身体の境界ごと溶けていった。
——ゆるやかに、沈む。
水底へ向けて。
意識のきざはしを一段ずつ降りていくごとに、心の輪郭が薄れていく。
——そして、扉が現れた。
両開きの大きな扉。現実のもののように、確かな質量と存在感をたたえている。
色は深い緋色。彫金細工のような真鍮の取っ手と、大きな鍵穴。
私はそこに“意識の姿”を持って立っていた。
そして、すぐ横には、やはりさとりがいた。
「……開くわよ」
彼女がそっと指先を扉に添えた瞬間、きしみもなく、音もなく——その扉は、内側へと開いた。
その先にあったのは、見知った風景。
天井の見えないほど高く積み上がった書架の森。
白紙の背表紙。名前のない記憶。
淡い光に包まれた、静かな静かな空間。
ここは、夢で何度も見た場所だ。
まどろみの中、繰り返し訪れていた。
その光の質感、空気の味、紙とインクの香りさえも——すべてが、懐かしい。
けれど、今回は夢で訪れたときよりも少しだけ、空気があたたかい。
まるで、さとりの体温がそのまま、この空間に浸透しているようだった。
「気づいているかもしれないけど……わたしは一度、ここに来たことがあるの」
さとりが、歩を進めながら呟く。
「あなたが気を失った直後。浅く覗かせてもらうつもりだった、けれど……ずいぶん奥まで迎え入れられてしまった」
私は、言葉にはせず、ただ頷く。
「でも今日は、あなたの許しを得て、ここにいる。
だから——少しだけ、奥へ。
少しだけ、名前のない記憶に、触れさせて?」
その声は、問いかけというにはあまりに優しく、けれど、拒めない熱を帯びている。
私は、何も考えずに、唇を開いた。
「……ずっと、待ってた」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に落ちた。
言おうとして出たのではない。ただ、そこに在った想いが、音になっただけだった。
さとりは何も言わなかった。
彼女の指が、そっと私の手に重なる。
その触れ方は、まるで宝石を扱うように繊細で——
ふたりのあいだに、言葉はもう要らなかった。
手をつないだまま、書架の森を抜けていく。
やがて、視界が開けた。
無数の書架に囲まれた空間の中心。
そこに、ただひとつ——机と椅子が置かれていた。
他には何もない。けれど、それはまるで“祭壇”のような存在感を放っていた。
その机の上には、他と変わらぬ白い本が一冊、開かれたまま置かれている。
この本には“私に関する何かが綴られている”——そう確信していた。
さとりの手をゆっくりとほどき、私は本に手を伸ばす。
だが、そこには
……何も書かれていなかった。
見開きいっぱいの空白。
私はそっと、ページをめくった。
——白い。
次の頁も、また次の頁も。
焦って、一番最初のページからパラパラとめくってみても
どこまでも、白い。
——確かに“記してきた”はずだった。
私が生を受けてから今日に至るまでの、すべての大切なことを。この一冊の本に。
けれど、それらはきれいに拭い去られていた。
名前も。想いも。
そして——私という存在の、証そのものまでも。
……なぜだ。
そう問いかけようとした瞬間、
喉に何かが詰まったようになり、息がうまくできなくなった。
心臓の鼓動が耳の奥で強く鳴りはじめる。
「あ、」
何かが胸の奥から、せり上がってくる。
——カタ、カタカタ……
書架のどこかが、音を立てた。
本が、揺れている。
「あああ、」
その音は、図書館の奥から順に広がり、やがて周囲の棚すべてに波及していく。
——ガタ、ガタガタッ!
喉の奥から、言葉にならない熱が噴き出した。
「ああああああああッ!」
それは叫びというにはあまりにも原始的で、
泣き声というにはあまりに鋭く、
けれど、確かに私の“核”から引き絞られた絶叫だった。
図書館が、応じるように激しく揺れる。
「いけない!」
さとりの声が、鋭く走った。
次の瞬間、空気ごと押し潰すような轟音と、床を叩く衝撃が、世界の輪郭をぐらりと歪ませた。