※この作品はR-18です。

読まれる日常   作:昼間寝音

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【第5頁:心を閉ざしし者】(古明地さとり視点)

——世界が、静かだった。

 

心象世界の崩壊に、わたしは即座に意識の糸を引き戻した。

けれど、まどろみから浮上してきたのはわたしひとり。

彼は——目を覚まさなかった。

 

部屋は、変わらず赤褐色の木目をたたえ、カーテンの隙間から差し込む光も穏やかだった。

けれどその静けさが、今は、あまりに痛々しく感じられた。

 

彼は、ベッドの上で眠っている。

まるで、深い眠りに沈んでいるかのように。

けれどその意識は、心象の深層で、完全崩壊の直前まで進んでいた。

叫びを上げるまで、追い詰めてしまったのは——わたしだ。

 

机の上の白い本。

最初に見たときから、わたしは予期していた。

彼の記憶には、何も記されていないことを。

 

名も、過去も、想い出すべき人の姿も——

白紙。

 

それは、幻想郷に来た者が辿る当然の帰結。

外の世界で名前を失い、存在を忘れられ、やがて自分自身までも手放していく。

その結果が、あの「空白の本」だったのだ。

 

あのとき——

そう、最初に心の奥へと足を踏み入れたとき。

あの本ページは既に開かれていて、けれど、そこには何の情報もなかった。

それは、警鐘だったはずだ。

 

「彼には、もう帰る場所がない」

「彼は、自分のことすら知らない」

その事実を、わたしは予期していた。

——なのに、何も伝えなかった。

 

言えばよかった。

「あなたの過去は、幻想郷に来たときにはもう、消えてしまっていたのかもしれない」と。

「もし本に何も書かれていなかったとしても、それは、あなたのせいじゃない」と。

 

そう言ってさえいれば——

彼は、あんなに苦しまずに済んだかもしれない。

あの絶叫を、あの苦痛を、あの崩壊を、味わわせずに済んだかもしれない。

 

わたしは、彼の沈黙を好ましく思っていた。

問いかけられることなく、ただ静かに、隣にいてくれる存在。

それが、あまりにも心地よかったから。

 

わたしは、彼の沈黙に甘えた。

彼の「開かれた心」に、安住しすぎてしまった。

 

そして今、その心は——

動かない。

 

わたしは椅子に腰を下ろし、そっと目を閉じた。

胸元の第三の目が、鼓動のように脈を打つ。

 

……どうしても、感じられなかった。

彼の内側から発せられる“心の波紋”。

そう、この感覚は、まるで——

 

そのとき、

——部屋の空気が、わずかに変わった。

 

風が吹いたわけではない。

けれど、空間の“密度”が一瞬だけ揺れた。

壁の影が、ほんの一拍、遅れて遷移する。

まるで、誰かが——何かが、そこに“滑り込んだ”かのように。

 

「……お姉ちゃん、落ち込んでる?」

 

——声。

聴き慣れた、そして、どこか忘れかけていた響き。

 

振り返らずとも分かっていた。

そこに居るのは、古明地こいし。

 

わたしの妹、つまり“さとり妖怪”でありながら、自らの心を完全に閉じることで、

読心の能力を失い、わたしですら心を読むことができなくなった。

その代償と引き換えに、無意識を操る程度の能力を手に入れた。

 

「……気配を感じさせてほしいものね。せめて家の中くらいは」

 

そう言いながら、わたしはゆっくりと振り返る。

そこにいたのは、変わらぬ妹の姿だった。

第三の目は閉じられたまま、けれど笑顔はいつものように浮かんでいる。

軽やかで、悪びれる様子もなく、ただ手を後ろで組んで首をかしげていた。

 

「だって、“気づかれないほうが楽”なんだもん」

 

ふふっと笑って、こいしはベッドに近づく。

その視線が、彼に向いた。

彼の眠る顔を、じっと見つめる。

 

「……まだ、起きないんだ」

 

その声には、珍しく感情の陰りがあった。

わずかに眉が寄る。それだけで、この子の真意は読めない。

 

「こいし、どういうこと?」

 

わたしの問いに、こいしはくるりと身を翻す。

 

「うん。教えてあげる。そのつもりで来たから」

 

こいしは、部屋の真ん中に立つ。

まるで“舞台に立つ役者”のような口調で、指を一本立てて言った。

 

「このひと、最初に会ったの、わたしだよ。幻想郷に入って、すぐのとき」

 

「……!」

 

わたしは思わず息を呑んだ。

驚きではない。

予感が確信に変わった、その瞬間だった。

 

「地底まで来れたのは、ね。わたしが『行け』って言ったからなの」

 

こいしの声は、どこまでも軽やかだった。

それなのに、その言葉が持つ意味は、あまりにも重い。

 

「“このひとは放っておいたら、妖怪に食べられちゃうな”って思ったの。

だから、いちばん安全な場所に送ったの。……お姉ちゃんのところ」

 

くすり、と笑って、視線を宙に向ける。

 

「でもただ道案内しただけじゃ足りないでしょ?

だから、“無意識”にプログラムしたの。

『地霊殿へ向かう』っていう、簡単なおまじない」

 

「無意識を——操ったの……?」

 

わたしの問いに、こいしは曖昧に首を振る。

 

「ううん、ちょっとだけ。このひと自身が望んでたから、ほんのちょっと、背中を押しただけ。

それともうひとつ——」

 

こいしの目が細まる。

 

「“誰にも見つからないように”してあげたの」

 

「……!」

 

「ね? だって幻想郷って、知らない人間が来たら、すぐに襲われるじゃない。

博麗の巫女に拾われない限り、誰かに食べられちゃう。

でも、だーれにも気づかれなかったら……歩いてる間に、誰にも見つからなかったら……

安全でしょ?」

 

わたしは言葉を失っていた。

こいしの語りは、あまりに理路整然としていて、けれどどこか空虚な優しさを帯びていた。

 

「ここに着いたら、解除するようにしておいた。

だから、お姉ちゃんには見えたんだよ。最初に」

 

「なぜ……そんなことを?」

 

わたしがそう問うと、こいしはほんの少しだけ笑った。

——それは、まるで寂しさを隠すような笑みだった。

 

「うーん……わかんない。たぶん……このひとが、わたしのこと、“見た”からかな」

 

こいしは、ベッドに近づいて、彼の髪にそっと触れた。

撫でるでもなく、ただ確かめるように。

 

「誰にも見えないはずのわたしを、

このひとは、ちゃんと“見て”くれた。

だから、送ってあげたの。

……わたしの、いちばん大事な場所に」

 

こいしの指先が、そっと「彼」の髪に触れたまま、空気が、再び静かになる。

 

その沈黙の中で——

わたしの胸に、何かが、ふつりと切れた。

 

「……やめて……」

 

声は、驚くほど震えていた。

 

こいしが顔を上げたとき、姉の肩が、細かく揺れていた。

 

「もう、触れないで……彼に……わたしの、彼に……」

 

こいしが、思わず言葉を飲む。

 

——泣いている。

 

わたしが、泣いている。

 

「お姉ちゃん……?」

 

その問いかけは、どこまでも素朴だった。

まるで、子どもが見慣れぬものを初めて見るときのように。

 

「こんな感情……いつ以来なのか、もう分からないわ……」

 

わたしは、崩れるように椅子から膝をついた。

胸元の第三の目が、震えている。

その中心に宿るのは、明確な痛みだった。

 

「彼が……わたしの前で、あんなに苦しんでいたのに。

わたしは、それを止めてあげられなかった。

読めるはずだったのに……気づいていたはずだったのに……

最初から、あの本は白かったのよ……!」

 

布越しに、嗚咽がこぼれた。

 

「鍵が……かかってるの。今は、もう。

心象世界の扉が、閉じられている。

彼の苦しみを、わたしは“読めない”……

彼が一人きりで、暗闇に取り残されているのに……

……わたしは、傍に行ってあげられない……」

 

その声は、まるでひとつひとつ、自らを刻むようだった。

 

こいしは、数秒の間、何も言わずに立ち尽くしていた。

けれど、やがて、ほんの少しだけ目を伏せて、呟く。

 

「……お姉ちゃん」

 

わたしが、わずかに顔を上げる。

その目は赤く潤んで、普段の理知的な光は影を潜めていた。

 

こいしは、そっとしゃがみ込む。

そして、かつて姉が幾度もそうしてくれたように、今度は妹が、姉の手を包み込む。

 

「……わたしなら、行けるかもしれない」

 

「……え?」

 

「彼の心、“意識の奥”に話しかけてくる。

わたし……無意識を歩けるから。

閉ざされた扉の向こう、そこに、わたしなら……“入りこめる”かも」

 

ぐしゃぐしゃになった声で問う。

 

「それは……危険よ……あなたまで、巻き込まれるかもしれない……!」

 

こいしは、困ったように笑った。

 

「……心を閉じて、無意識の海に棲んでるのがわたしでしょ?

慣れてるよ、そういうの」

 

そして、ふわりと微笑む。

 

「それに。

わたしにここまで“動かせた”人、初めてだったの。

だったら、最後まで責任持ちたいなって思っただけ」

 

わたしは、もう何も言えなかった。

 

自分が、何百年ものあいだ信じてきた「孤独のかたち」が、

今、目の前で、妹の手によって揺さぶられている。

 

こいしは、立ち上がる。

そして、それがなんでもないことかのように言った。

 

「行ってくるね」

 

——まるで、夢の中へ滑り込むように。

彼女の姿は、そっと、空気に滲むようにして消えていった。

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