——世界が、静かだった。
心象世界の崩壊に、わたしは即座に意識の糸を引き戻した。
けれど、まどろみから浮上してきたのはわたしひとり。
彼は——目を覚まさなかった。
部屋は、変わらず赤褐色の木目をたたえ、カーテンの隙間から差し込む光も穏やかだった。
けれどその静けさが、今は、あまりに痛々しく感じられた。
彼は、ベッドの上で眠っている。
まるで、深い眠りに沈んでいるかのように。
けれどその意識は、心象の深層で、完全崩壊の直前まで進んでいた。
叫びを上げるまで、追い詰めてしまったのは——わたしだ。
机の上の白い本。
最初に見たときから、わたしは予期していた。
彼の記憶には、何も記されていないことを。
名も、過去も、想い出すべき人の姿も——
白紙。
それは、幻想郷に来た者が辿る当然の帰結。
外の世界で名前を失い、存在を忘れられ、やがて自分自身までも手放していく。
その結果が、あの「空白の本」だったのだ。
あのとき——
そう、最初に心の奥へと足を踏み入れたとき。
あの本ページは既に開かれていて、けれど、そこには何の情報もなかった。
それは、警鐘だったはずだ。
「彼には、もう帰る場所がない」
「彼は、自分のことすら知らない」
その事実を、わたしは予期していた。
——なのに、何も伝えなかった。
言えばよかった。
「あなたの過去は、幻想郷に来たときにはもう、消えてしまっていたのかもしれない」と。
「もし本に何も書かれていなかったとしても、それは、あなたのせいじゃない」と。
そう言ってさえいれば——
彼は、あんなに苦しまずに済んだかもしれない。
あの絶叫を、あの苦痛を、あの崩壊を、味わわせずに済んだかもしれない。
わたしは、彼の沈黙を好ましく思っていた。
問いかけられることなく、ただ静かに、隣にいてくれる存在。
それが、あまりにも心地よかったから。
わたしは、彼の沈黙に甘えた。
彼の「開かれた心」に、安住しすぎてしまった。
そして今、その心は——
動かない。
わたしは椅子に腰を下ろし、そっと目を閉じた。
胸元の第三の目が、鼓動のように脈を打つ。
……どうしても、感じられなかった。
彼の内側から発せられる“心の波紋”。
そう、この感覚は、まるで——
そのとき、
——部屋の空気が、わずかに変わった。
風が吹いたわけではない。
けれど、空間の“密度”が一瞬だけ揺れた。
壁の影が、ほんの一拍、遅れて遷移する。
まるで、誰かが——何かが、そこに“滑り込んだ”かのように。
「……お姉ちゃん、落ち込んでる?」
——声。
聴き慣れた、そして、どこか忘れかけていた響き。
振り返らずとも分かっていた。
そこに居るのは、古明地こいし。
わたしの妹、つまり“さとり妖怪”でありながら、自らの心を完全に閉じることで、
読心の能力を失い、わたしですら心を読むことができなくなった。
その代償と引き換えに、無意識を操る程度の能力を手に入れた。
「……気配を感じさせてほしいものね。せめて家の中くらいは」
そう言いながら、わたしはゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、変わらぬ妹の姿だった。
第三の目は閉じられたまま、けれど笑顔はいつものように浮かんでいる。
軽やかで、悪びれる様子もなく、ただ手を後ろで組んで首をかしげていた。
「だって、“気づかれないほうが楽”なんだもん」
ふふっと笑って、こいしはベッドに近づく。
その視線が、彼に向いた。
彼の眠る顔を、じっと見つめる。
「……まだ、起きないんだ」
その声には、珍しく感情の陰りがあった。
わずかに眉が寄る。それだけで、この子の真意は読めない。
「こいし、どういうこと?」
わたしの問いに、こいしはくるりと身を翻す。
「うん。教えてあげる。そのつもりで来たから」
こいしは、部屋の真ん中に立つ。
まるで“舞台に立つ役者”のような口調で、指を一本立てて言った。
「このひと、最初に会ったの、わたしだよ。幻想郷に入って、すぐのとき」
「……!」
わたしは思わず息を呑んだ。
驚きではない。
予感が確信に変わった、その瞬間だった。
「地底まで来れたのは、ね。わたしが『行け』って言ったからなの」
こいしの声は、どこまでも軽やかだった。
それなのに、その言葉が持つ意味は、あまりにも重い。
「“このひとは放っておいたら、妖怪に食べられちゃうな”って思ったの。
だから、いちばん安全な場所に送ったの。……お姉ちゃんのところ」
くすり、と笑って、視線を宙に向ける。
「でもただ道案内しただけじゃ足りないでしょ?
だから、“無意識”にプログラムしたの。
『地霊殿へ向かう』っていう、簡単なおまじない」
「無意識を——操ったの……?」
わたしの問いに、こいしは曖昧に首を振る。
「ううん、ちょっとだけ。このひと自身が望んでたから、ほんのちょっと、背中を押しただけ。
それともうひとつ——」
こいしの目が細まる。
「“誰にも見つからないように”してあげたの」
「……!」
「ね? だって幻想郷って、知らない人間が来たら、すぐに襲われるじゃない。
博麗の巫女に拾われない限り、誰かに食べられちゃう。
でも、だーれにも気づかれなかったら……歩いてる間に、誰にも見つからなかったら……
安全でしょ?」
わたしは言葉を失っていた。
こいしの語りは、あまりに理路整然としていて、けれどどこか空虚な優しさを帯びていた。
「ここに着いたら、解除するようにしておいた。
だから、お姉ちゃんには見えたんだよ。最初に」
「なぜ……そんなことを?」
わたしがそう問うと、こいしはほんの少しだけ笑った。
——それは、まるで寂しさを隠すような笑みだった。
「うーん……わかんない。たぶん……このひとが、わたしのこと、“見た”からかな」
こいしは、ベッドに近づいて、彼の髪にそっと触れた。
撫でるでもなく、ただ確かめるように。
「誰にも見えないはずのわたしを、
このひとは、ちゃんと“見て”くれた。
だから、送ってあげたの。
……わたしの、いちばん大事な場所に」
こいしの指先が、そっと「彼」の髪に触れたまま、空気が、再び静かになる。
その沈黙の中で——
わたしの胸に、何かが、ふつりと切れた。
「……やめて……」
声は、驚くほど震えていた。
こいしが顔を上げたとき、姉の肩が、細かく揺れていた。
「もう、触れないで……彼に……わたしの、彼に……」
こいしが、思わず言葉を飲む。
——泣いている。
わたしが、泣いている。
「お姉ちゃん……?」
その問いかけは、どこまでも素朴だった。
まるで、子どもが見慣れぬものを初めて見るときのように。
「こんな感情……いつ以来なのか、もう分からないわ……」
わたしは、崩れるように椅子から膝をついた。
胸元の第三の目が、震えている。
その中心に宿るのは、明確な痛みだった。
「彼が……わたしの前で、あんなに苦しんでいたのに。
わたしは、それを止めてあげられなかった。
読めるはずだったのに……気づいていたはずだったのに……
最初から、あの本は白かったのよ……!」
布越しに、嗚咽がこぼれた。
「鍵が……かかってるの。今は、もう。
心象世界の扉が、閉じられている。
彼の苦しみを、わたしは“読めない”……
彼が一人きりで、暗闇に取り残されているのに……
……わたしは、傍に行ってあげられない……」
その声は、まるでひとつひとつ、自らを刻むようだった。
こいしは、数秒の間、何も言わずに立ち尽くしていた。
けれど、やがて、ほんの少しだけ目を伏せて、呟く。
「……お姉ちゃん」
わたしが、わずかに顔を上げる。
その目は赤く潤んで、普段の理知的な光は影を潜めていた。
こいしは、そっとしゃがみ込む。
そして、かつて姉が幾度もそうしてくれたように、今度は妹が、姉の手を包み込む。
「……わたしなら、行けるかもしれない」
「……え?」
「彼の心、“意識の奥”に話しかけてくる。
わたし……無意識を歩けるから。
閉ざされた扉の向こう、そこに、わたしなら……“入りこめる”かも」
ぐしゃぐしゃになった声で問う。
「それは……危険よ……あなたまで、巻き込まれるかもしれない……!」
こいしは、困ったように笑った。
「……心を閉じて、無意識の海に棲んでるのがわたしでしょ?
慣れてるよ、そういうの」
そして、ふわりと微笑む。
「それに。
わたしにここまで“動かせた”人、初めてだったの。
だったら、最後まで責任持ちたいなって思っただけ」
わたしは、もう何も言えなかった。
自分が、何百年ものあいだ信じてきた「孤独のかたち」が、
今、目の前で、妹の手によって揺さぶられている。
こいしは、立ち上がる。
そして、それがなんでもないことかのように言った。
「行ってくるね」
——まるで、夢の中へ滑り込むように。
彼女の姿は、そっと、空気に滲むようにして消えていった。