——どこから、始まったのだろう。
最初に感じたのは、湿った温もりだった。
胸元にしがみつく、柔らかな何か。
その震えが、確かな現実として、私の意識を引き戻していた。
瞼をゆるく開ける。
視界の上半分は、くしゃくしゃに歪んだ紫陽花色の髪で埋め尽くされていた。
泣きじゃくる声が、喉の奥から、止めどなく漏れていた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
わんわんと、声を上げて泣いていた。
あの古明地さとりが——
かつて誰よりも静謐で、誰よりも孤高だったはずの彼女が。
私は、何も言えなかった。
けれど、言葉は必要なかった。
私は、ゆっくりと両腕を伸ばして、彼女の華奢な背を、ぎゅっと抱きしめた。
その瞬間、さとりの嗚咽が、一層大きくなった。
指先が、私の衣を掴んで離さない。
まるで、もう二度と失いたくないとでもいうように。
その痛々しい執着が、胸の奥に直接差し込んでくる。
「ひとりにして……ごめんなさい……
あなたが、どれほど怖かったかも……苦しかったかも……
何も……何も、読めなかった……!」
私は、その髪に顔を埋めた。
声を上げる代わりに、鼓動だけが彼女を包んでいた。
傍らで、くすくすと笑い声が響いた。
「……あ、お目覚めだ」
視線を向けると、そこには、どこかで見たことのある少女が座っていた。
スカートの裾を揺らし、胸元に閉じた“目”をぶら下げて。
まるで初夏の昼下がりに野原で遊んでいたかのような、無邪気な笑顔だった。
「やっほ、おはよう」
そう言って、彼女——古明地こいしは、軽く手を振った。
「びっくりしたよ。お姉ちゃんがあんなふうに泣くの、初めて見たもん」
私は何か言いかけたが、その前に、こいしが続けた。
「ねえ、“あのとき”、わたしが言ったこと、覚えてる?」
——あのとき?
心の奥に、何かがひとつ、ふと浮かび上がる。
こいしは、笑みをほんの少しだけやわらげた。
まるで、誰にも見せない秘密を打ち明けるように。
「言ったのは、たったひとことだけだったんだよ。
“お姉ちゃんが、待ってるよ”って」
——その言葉が。
何よりも深く、
何よりも温かく、
暗闇の中に光を灯した。
こいしは立ち上がると、ぽん、と私の足元を軽く叩いた。
「それだけで、ちゃんと帰ってこられた。すごいでしょ、あなたの心」
彼女の目は笑っていた。
けれど、その奥には、どこか誇らしげな光があった。
私は再び視線を戻す。
さとりは、まだ私にすがったまま、泣き止んでいなかった。
けれど、もうその涙は、絶望の涙ではなかった。
私は、ゆっくりと額を寄せる。
彼女の耳元で、ただ一言だけ、囁いた。
「……もう、ひとりじゃないよ」
その声に、さとりの背が小さく震えた。
そして、ようやく——
「……ええ……ええ……!」
私の胸に顔を埋めたまま、彼女は、
嬉しさと後悔と、安堵と愛情とを、ぐしゃぐしゃに混ぜた声で泣き続けた。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
ただ、確かに——
私たちは、いまこの場所で、生きていた。