天井近くの空間から、ゆるやかに光が溶け出している。
それは明かりというにはあまりに生温く、けれど闇に沈むにはあまりに柔らかかった。
まるで空間そのものが、光という記憶を“思い出している”かのような——そんな不思議な明るさだった。
私は、まだ少し熱の残るベッドの中で、背を起こしていた。
隣には、さとりが座っている。
その頬に涙の痕はもうなかったけれど、彼女の眼差しは、深い何かを湛えていた。
「……ありがとう。戻ってきてくれて」
そう言って、彼女は私の方を見た。
けれど、その声の中にあるのは、喜びだけではなかった。
後悔、安堵、戸惑い、そして——
言葉にならない、愛しさのようなもの。
私はうなずくだけだった。
まだ、どこか現実が身体に馴染んでいない。
でも、それでも、彼女の姿だけは……確かにここにあった。
「ねえ……」
さとりは、声を落とす。
妖力の光がその横顔を優しく照らす。
その柔らかい光が、彼女の瞼の影に、色を落としていた。
「あなたに話しかけるたび、ずっと……“名前”が無いことが、辛かったの」
さとりは、膝の上で指を絡め、ほんの少しだけ俯く。
今のわたしも同じ気持ちだった。
「あなたのこと、呼びたいの。
読心者じゃなくて、ただの“わたし”として、
あなたに名前を贈りたいの」
私は、言葉を探したけれど、何も出てこなかった。
だから、代わりに、静かに頷いた。
さとりは、息を吸う。
まるで、大切な本の表紙をめくるように、慎重に。
「ミオ——って、呼ばせて。
水のように穏やかで、記憶の流れ道みたいな、そんな響き。
“澪”と書くの。
昔の人は、そこに“澪標(みおつくし)”を立てて、航路を示したのよ。
……“身を尽くし”って、読むこともできる」
さとりの声が、わずかに震える。
「あなたが、わたしに読まれることを許してくれたとき。
まるで、すべてを差し出すように心を開いてくれたとき。
その姿が、献身のように思えたの。
だから——
『ミオ』って、呼ばせて」
私は、喉の奥が熱くなるのを感じながら、もう一度頷いた。
そして、小さく、けれど確かに、言った。
「ありがとう。……さとり」
その瞬間、彼女の目が、すこしだけ潤んだ。
でももう、泣かなかった。
代わりに、彼女は、そっと微笑んだ。
そして——
心の奥底に広がる、あの静かな図書館で。
白紙の本の、その最初のページに。
たった二文字だけ、インクが染みた。
それはまるで、初めて読まれる準備をしたかのように。
物語が、ようやく始まろうとしていた。