※この作品はR-18です。

読まれる日常   作:昼間寝音

7 / 22
【第7頁:澪標(みおつくし)】

天井近くの空間から、ゆるやかに光が溶け出している。

それは明かりというにはあまりに生温く、けれど闇に沈むにはあまりに柔らかかった。

まるで空間そのものが、光という記憶を“思い出している”かのような——そんな不思議な明るさだった。

 

私は、まだ少し熱の残るベッドの中で、背を起こしていた。

隣には、さとりが座っている。

その頬に涙の痕はもうなかったけれど、彼女の眼差しは、深い何かを湛えていた。

 

「……ありがとう。戻ってきてくれて」

 

そう言って、彼女は私の方を見た。

けれど、その声の中にあるのは、喜びだけではなかった。

後悔、安堵、戸惑い、そして——

 

言葉にならない、愛しさのようなもの。

 

私はうなずくだけだった。

まだ、どこか現実が身体に馴染んでいない。

でも、それでも、彼女の姿だけは……確かにここにあった。

 

「ねえ……」

 

さとりは、声を落とす。

妖力の光がその横顔を優しく照らす。

その柔らかい光が、彼女の瞼の影に、色を落としていた。

 

「あなたに話しかけるたび、ずっと……“名前”が無いことが、辛かったの」

 

さとりは、膝の上で指を絡め、ほんの少しだけ俯く。

今のわたしも同じ気持ちだった。

 

「あなたのこと、呼びたいの。

読心者じゃなくて、ただの“わたし”として、

あなたに名前を贈りたいの」

 

私は、言葉を探したけれど、何も出てこなかった。

だから、代わりに、静かに頷いた。

 

さとりは、息を吸う。

まるで、大切な本の表紙をめくるように、慎重に。

 

「ミオ——って、呼ばせて。

水のように穏やかで、記憶の流れ道みたいな、そんな響き。

“澪”と書くの。

昔の人は、そこに“澪標(みおつくし)”を立てて、航路を示したのよ。

……“身を尽くし”って、読むこともできる」

 

さとりの声が、わずかに震える。

 

「あなたが、わたしに読まれることを許してくれたとき。

まるで、すべてを差し出すように心を開いてくれたとき。

その姿が、献身のように思えたの。

だから——

『ミオ』って、呼ばせて」

 

私は、喉の奥が熱くなるのを感じながら、もう一度頷いた。

そして、小さく、けれど確かに、言った。

 

「ありがとう。……さとり」

 

その瞬間、彼女の目が、すこしだけ潤んだ。

でももう、泣かなかった。

代わりに、彼女は、そっと微笑んだ。

 

そして——

 

心の奥底に広がる、あの静かな図書館で。

白紙の本の、その最初のページに。

たった二文字だけ、インクが染みた。

 

それはまるで、初めて読まれる準備をしたかのように。

 

物語が、ようやく始まろうとしていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。