【第8頁:猫たちは、見ていた】
地霊殿、食卓。
朝食の湯気がまだ部屋の片隅に漂っていた頃。
対面に座るさとりが、ふと唇だけで微笑んだ。
「今日は、庭が明るいわ。紫陽花もきっと、きれいに咲いてる」
一瞬、意味を測りかねて視線を上げる。
“庭が明るい”——?
「ええ。幻想郷の地底では、天気も季節も……“あるべき形”で、やって来るの。空がなくても、太陽が届かなくても」
不思議だった。けれど、それを否定するだけの現実感が、今の私にはもうなかった。
「よかったら、一緒に行きましょう。猫たちも、今日は活発みたい」
その言葉が胸に落ちたとき、私はすでに、椅子の背に寄りかかっていた上体をそっと起こしていた。
——この幻想郷には、私の知らない“日常”が、いくつも息づいている。
それらをひとつずつ拾い上げていくことが、今の私にできる唯一のことのように思えた。
靴音が、しっとりとした石畳に吸い込まれていく。
地霊殿の庭は、空がないというのに不思議な光に満ちていた。
遥か高い岩の天井の向こうから、柔らかな明かりが滲み出している。
それは確かに“朝”だと感じさせる色合いを帯びていた。
そんな光を受けて、紫陽花の青とも紫とも形容しがたい花弁が輝いている。
数、密度、気配。どれもが夢のようだった。
まるで朝露を透かした硝子細工のように、儚く、しかしどこまでも強かに咲き誇っていた。
その中に、いた。猫たちが。
さとりの言葉通り、今日は“活発”らしかった。
それぞれが思い思いの姿勢で、紫陽花の間を歩き、寝転び、あるいはじっと此方を見ていた。
——試すような、視線を感じる。
鋭い目の猫。
興味を隠そうともしない猫。
茂みの奥から、じっと見つめるだけの猫。
動けば逃げそうで、私は中途半端な姿勢のまま立ち尽くした。
そのときだった。
猫たちの奥、群れの向こうから、足音が近づいてくる。
音は軽いのに、気配は大きい。
猫のようで、人のようで、どちらでもない。
目を向けると、そこに現れたのはひとりの少女だった。
黒いゴスロリ風のワンピース。朱の三つ編み。細い足。猫耳と二又の尾。
——思い出す。さとりが話していた、“猫であり、火車の妖怪”。
名前は、火焔猫燐(かえんびょうりん)。
お燐、と呼ばれている、と。
「……ふうん。あんたが、ミオってやつ?」
最初にそう言った彼女の声は、明るさと鋭さが同居していた。目は笑っていなかった。
だが、それは敵意ではない。何かを見極めようとする、野生の好奇心の色だった。
「さとり様から話は聞いてたよ。名前をもらった人間がいるってさ」
彼女は私の間近まで歩み寄り、まっすぐに見つめてくる。
猫のように、目をそらさず。
「人間って、ふつうはさとり様のことを怖がるんだけど。
……あんた、なんで平気そうな顔してんの?」
紫陽花も、猫たちも、その瞬間だけ息を呑んだようであった。
問いに、戸惑いはなかった。
ただ、自然に答えが口をついて出た。
「なぜ、怖がる必要があるんですか?」
彼女の目が、ぱちくりと瞬いた。
狐につままれたような顔。その中に、確かに、面白がっている気配がある。
「……あんた、変わってるね」
くるりと踵を返し、二又の尻尾を高く掲げる。
「じゃあ、あんたはあたいらの仲間ってことでいいや」
彼女は庭全体に向かって呼びかける。
「みんなー。怖がらなくていいってさー」
次の瞬間、庭の空気がふっと緩んだ。
緊張の糸が解け、猫たちの動きが賑やかに、自由に戻っていく。
一匹、また一匹と、慎重に、それでいて興味深そうに私の周囲へ集まってくる。
誰も、警戒していない。
むしろ、まるで遊び場を見つけた子どものような顔つきで、猫たちは身を寄せてくる。
すり寄り、じゃれつき、手のひらをぺろりと舐め、足元でくるくると円を描く。
私は、知らないうちに笑っていた。
——“仲間”だなんて、いつ以来だっただろう。
ふと、私は近くの石へ腰を下ろす。
その膝の上に、ほとんど音もなく、一匹の黒猫が飛び乗ってきた。
艶やかな漆黒の毛並み。
深い琥珀色の瞳。
背後から、微かな驚きの声が聞こえた。
「……えっ?」
「うっそ、あいつが……?」
振り返ると、さとりとお燐が、並んで立っていた。
二人とも、視線を私の膝元に釘づけにしている。
「……あの子、わたしにも懐かなかったのに」
「こっちから近づくと、すぐ逃げてたんだよね……」
黒猫は何も言わず、ただ静かに、私の上に身を預けていた。
それはまるで、“ここが定位置”だとでも言うように。
ゆっくりとその背を撫でる。毛並みは、驚くほど柔らかかった。
そのとき、不思議な感覚が心を掠めた。
——もう、大丈夫だよ。
声ではない。思念でもない。ただ、確かにそう“感じた”。
私は、そっと目を細めた。
花々のゆれる、地底の庭園の中で。
“ここにいていい”という許しを、得た気がした。