※この作品はR-18です。

読まれる日常   作:昼間寝音

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【第9頁:読まれる頁、触れられぬ頁】

頁をめくる音が、部屋にゆるやかに響く。

初めて地霊殿の庭園を散歩した日の夜、私は書斎で本を読んでいた。

静かな時間。静かな空間。けれど、それは“独り”ではなかった。

 

文章を目でなぞる。

意味が、心にしみる前に——

 

「それ、わたしも好きな一節よ」

 

背後から、やわらかな声が差し込んできた。

 

驚きはなかった。むしろ、当然のように思えた。

私の中で芽吹きかけていた感想が、さとりの唇から先にこぼれ落ちた。

 

視線はまだ頁の上にあったが、さとりはすでに、次の行を読んでいた。

——いや、“私がこれから読もうとすること”を、先に口にしていた。

 

「『人は理解されることで初めて、自己という檻を脱け出せる』——いい言葉よね」

 

ふ、と笑みがこぼれる。

まるで、呼吸さえ重なり始めているかのようだった。

 

「……どうして、それがわかるんですか?」

 

「どうして、なんて。あなたが読んでるその目の動き、息づかい、その一秒先を読むのは……もう、習慣になってしまったのよ」

 

さとりが、そっと隣に腰を下ろす。

 

「あなたが“何を読んでいるか”じゃない。“どう読んでいるか”を感じてるの」

 

ぺらり、と頁がめくれた。けれど、その瞬間——

 

「次は、“孤独という器に満たされた自己は——”で始まる頁ね」

 

ぴたりと手が止まる。

 

「……まるで、心の中に、あなたの声があるみたいです」

 

「それ、ちょっと嬉しいわね」

 

さとりの笑みは見えなかったが、その声は、微かに照れているようだった。

 

しばらくの沈黙。

同じ頁を、ふたりで読んでいるような感覚。

 

やがて、さとりがティーカップに手を伸ばす。

同じ瞬間、私も、何かを言おうとして指を動かした。

 

指先が触れ合った。

 

びくり、と震えが走る。

かすかな振動。けれど、第三の目が見逃すことはなかった。

 

「……触れられるのは、怖いの?」

 

さとりが、囁くように問いかける。

 

「読まれるのは平気なのに、不思議ね」

 

言葉が出なかった。

 

読まれることは、快かった。

なのに、指先がかすめ合うだけで、心臓が跳ねる。

 

「……あなたの心は、開いてる。でも、身体は……まだ戸惑ってるのね」

 

その言葉に、やはり返せなかった。

 

それでも、さとりは咎めなかった。

微笑みの気配だけを残して、そっと距離を戻した。

 

まるで、壊れものを扱うように——けれどそれは、優しさだった。

 

「見ていたわよ。庭で。

猫たちと、随分仲良くしていたわね」

 

思い出が胸に浮かぶ。

紫陽花の下、猫たちの毛並み、柔らかな重さ。

 

「……あの黒猫が、あなたの膝に乗ったの。

あれは、本当に驚きだったわ。あの子、誰にも懐かなかったのに」

 

さとりの声にわずかににじんでいるのは、……嫉妬?

けれど、すぐにそれを隠すように、冗談めかした調子が乗せられる。

 

「猫たちに囲まれて、幸せそうだったじゃない。

あんな顔……わたしには、まだ見せてくれてない気がする」

 

視線が交わった、その瞬間。

私はそっと、まぶたを伏せた。

彼女の目の奥にある何かを覗いてしまいそうで——。

 

「わたしは……どうしても、触れる前に“読んでしまう”。

この第三の目を閉じることは、できないの。

こいしは例外だけれど」

 

水底から届くような、くぐもった声。

 

「わたしも、——猫だったら良かったわ」

 

さとりはそう言い残すと、静かに書斎をあとにした。

パタン。

乾いた音が背後で響いた瞬間、胸の奥が微かに収縮した。

 

カップの湯気は、立ち消えそうだった。

 

頁に視線を戻す。

けれど、活字の一つひとつが、彼女の声で再生される。

まだ、彼女が部屋にいるような感覚を拭い去ることができない。

 

——読まれることは、快い。

でも、触れられると、まだ震えてしまう。

 

何かの答えを探すように、頁をめくる。

 

『わたしも、——猫だったら良かったわ』

 

しかし、その答えが書いてあるはずもなかった。

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