頁をめくる音が、部屋にゆるやかに響く。
初めて地霊殿の庭園を散歩した日の夜、私は書斎で本を読んでいた。
静かな時間。静かな空間。けれど、それは“独り”ではなかった。
文章を目でなぞる。
意味が、心にしみる前に——
「それ、わたしも好きな一節よ」
背後から、やわらかな声が差し込んできた。
驚きはなかった。むしろ、当然のように思えた。
私の中で芽吹きかけていた感想が、さとりの唇から先にこぼれ落ちた。
視線はまだ頁の上にあったが、さとりはすでに、次の行を読んでいた。
——いや、“私がこれから読もうとすること”を、先に口にしていた。
「『人は理解されることで初めて、自己という檻を脱け出せる』——いい言葉よね」
ふ、と笑みがこぼれる。
まるで、呼吸さえ重なり始めているかのようだった。
「……どうして、それがわかるんですか?」
「どうして、なんて。あなたが読んでるその目の動き、息づかい、その一秒先を読むのは……もう、習慣になってしまったのよ」
さとりが、そっと隣に腰を下ろす。
「あなたが“何を読んでいるか”じゃない。“どう読んでいるか”を感じてるの」
ぺらり、と頁がめくれた。けれど、その瞬間——
「次は、“孤独という器に満たされた自己は——”で始まる頁ね」
ぴたりと手が止まる。
「……まるで、心の中に、あなたの声があるみたいです」
「それ、ちょっと嬉しいわね」
さとりの笑みは見えなかったが、その声は、微かに照れているようだった。
しばらくの沈黙。
同じ頁を、ふたりで読んでいるような感覚。
やがて、さとりがティーカップに手を伸ばす。
同じ瞬間、私も、何かを言おうとして指を動かした。
指先が触れ合った。
びくり、と震えが走る。
かすかな振動。けれど、第三の目が見逃すことはなかった。
「……触れられるのは、怖いの?」
さとりが、囁くように問いかける。
「読まれるのは平気なのに、不思議ね」
言葉が出なかった。
読まれることは、快かった。
なのに、指先がかすめ合うだけで、心臓が跳ねる。
「……あなたの心は、開いてる。でも、身体は……まだ戸惑ってるのね」
その言葉に、やはり返せなかった。
それでも、さとりは咎めなかった。
微笑みの気配だけを残して、そっと距離を戻した。
まるで、壊れものを扱うように——けれどそれは、優しさだった。
「見ていたわよ。庭で。
猫たちと、随分仲良くしていたわね」
思い出が胸に浮かぶ。
紫陽花の下、猫たちの毛並み、柔らかな重さ。
「……あの黒猫が、あなたの膝に乗ったの。
あれは、本当に驚きだったわ。あの子、誰にも懐かなかったのに」
さとりの声にわずかににじんでいるのは、……嫉妬?
けれど、すぐにそれを隠すように、冗談めかした調子が乗せられる。
「猫たちに囲まれて、幸せそうだったじゃない。
あんな顔……わたしには、まだ見せてくれてない気がする」
視線が交わった、その瞬間。
私はそっと、まぶたを伏せた。
彼女の目の奥にある何かを覗いてしまいそうで——。
「わたしは……どうしても、触れる前に“読んでしまう”。
この第三の目を閉じることは、できないの。
こいしは例外だけれど」
水底から届くような、くぐもった声。
「わたしも、——猫だったら良かったわ」
さとりはそう言い残すと、静かに書斎をあとにした。
パタン。
乾いた音が背後で響いた瞬間、胸の奥が微かに収縮した。
カップの湯気は、立ち消えそうだった。
頁に視線を戻す。
けれど、活字の一つひとつが、彼女の声で再生される。
まだ、彼女が部屋にいるような感覚を拭い去ることができない。
——読まれることは、快い。
でも、触れられると、まだ震えてしまう。
何かの答えを探すように、頁をめくる。
『わたしも、——猫だったら良かったわ』
しかし、その答えが書いてあるはずもなかった。