東京の夜は冷たかった。
梅雨明け前の湿った風がビル街の谷間を吹き抜け、地上に積もった埃と排気ガスの匂いをかき混ぜていた。街灯の光は霧に滲み、歩道にぼんやりとした光輪を浮かべている。
ゴウン――と低く唸るような音を立てて、スピーダー・バイクが倉庫街に滑り込んだ。
銀色の流線型ボディに暗灰色の泥がこびりついている。未来的な形状はこの世界の技術水準には不釣り合いで、だが一目見た者には何かただならぬ存在感を残す。
そのバイクから無言で降り立つ男――デンガー。
重厚なバトル・アーマーが身体を覆い、ターバンが頭部を包んでいる。露出した瞳は鋭く、まるで機械のように周囲を瞬時にスキャンしていた。
彼は呼吸を整えると、倉庫の裏手にある錆びついた鉄の扉の前に立った。
足元の水たまりに街灯の光が揺れ、その中で彼の影が静かに伸びる。遠くで犬が一声、短く吠えた。
「……ここか」
乾いた独白を漏らすと、デンガーは扉に手をかけた。キーッと金属が軋む音とともに中へ足を踏み入れる。
内部は暗く、埃と油の混ざった匂いが鼻を刺す。かつては工場だったのか、今では人気はなく、天井の蛍光灯がちらちらと明滅している。
「よく来たな」
低く抑えた男の声が奥から聞こえた。
照明の切れた暗がりの奥、鉄製の机に身を預ける男が一人。その正体は知る必要がなかった。依頼を運ぶだけの仲介人だ。
デンガーは近づかず、その場に立ったまま静かに口を開いた。
「報酬と任務内容を聞かせろ」
男は口元に笑みを浮かべながら、懐から一枚の写真を取り出して机に置いた。照明が写真の上に落ち、その顔が浮かび上がる。
――堂島総一郎。
この国の厚生労働大臣。だがその実態は、癒着、収賄、闇の臓器売買にまで関与する腐敗の象徴。
「この男を消してほしい。裏で何人の人間が泣かされているか分からん。表立っては動けない勢力からの依頼だ」
デンガーは写真をじっと見つめる。
細く吊り上がった目、ふてぶてしい笑み、そしてその背後に映る複数のボディーガード――警備は厳重であることが一目で分かる。
「……報酬は?」
「四千万。成功報酬のみ。前払いはない」
男は机の下に手を入れ、契約書と封筒を取り出した。「報酬は現金で手渡し、取引後すぐに受け取れるよう用意してある」
「狙撃で済むのか?」
「ああ。堂島は今夜、厚生労働省の最上階オフィスで会合に出席する。20分の間だけ、窓際で一人になる時間がある。そこを狙え」
デンガーはゆっくりと頷いた。
「遠距離からの狙撃なら問題はない」
「接近はリスクが高すぎる。外部からの攻撃に対しては厳重な反応を示す。対魔忍も監視しているらしいからな」
その言葉に、デンガーの眉がわずかに動いた。
「……対魔忍、か。興味はないが、邪魔をするなら排除するまでだ」
男はわずかに肩をすくめた。
「奴らはまだお前のことを知らない。だが、今回の件で確実に目をつけられるだろう。気をつけろ」
デンガーは無言で机に近づき、壁に立てかけられたブラスター・ライフルを手に取った。
グリップの感触、スコープの調整、照準の重さ――全てが彼の記憶と一致していた。
「こいつさえあれば、奴らが何を使おうと関係ない」
「その武器……見たことのないタイプだな」
男がぽつりと呟いたが、デンガーは応じなかった。
彼にとって、このブラスターは“自分自身”の象徴だった。
転生直後に傍らに置かれていた唯一の“故郷の遺産”。この世界において、それは誰にも理解されない孤独な異物だった。
「俺は正義では動かない。金のためだけに動く。それが俺のルールだ」
デンガーは写真をもう一度見てから、スコープに映る像を思い描いた。狙撃ライン、風向き、高度差、光の屈折――全ては頭の中で即座に処理されていく。
「問題はない。あとは時間通りに窓際に立たせろ。それが出来ないなら、契約不履行としてこの場でお前を撃つ」
仲介人は顔を引きつらせながらも、慌てずに頷いた。
「安心しろ。堂島は必ずそこに立つ。念を入れて警備ログもすべて改竄してある」
「ならば、契約は成立だ」
外から風が吹き込んだ。
足音のような音が響き、一瞬、デンガーはブラスターを構えたが、ただの風だった。
「……用は済んだ」
彼は踵を返すと、そのまま無言で扉を開け、スピーダー・バイクの元へ戻った。エンジンを始動させると、未来のマシンが再び唸りを上げ、夜の東京の闇に溶け込んでいった。
背後の倉庫は静まり返り、ただ遠くから救急車のサイレンだけが夜気に滲んでいた。
「堂島総一郎……お前の終わりは、もうすぐだ」