ある日、スクールアイドルのμ'sと出会い……。
※シリーズ全体
本作は、作者の解釈と妄想を多分に含みます。原作のキャラクターたちと別の時間を生きる、もう一つの物語としてお楽しみいただければ幸いです。
・本作は、アニメ版『ラブライブ!』をベースにしておりますが、二次創作作品につき、独自の時空・設定を含みます。
・アニメ本編との時間軸・設定のズレや、キャラクター解釈に差異が生じる可能性がございます。
・原作キャラクターに加え、オリジナル男性キャラクターが登場し、主人公となっています。
・男性キャラクターとの恋愛要素を含みますので、苦手な方はご注意ください。
・原作尊重を心がけておりますが、キャラ崩壊・設定改変・解釈違いなどを感じる場合がございます。
・ストーリー後半には、**18歳以上推奨の描写(R-18要素)**が含まれます。閲覧の際はご注意ください。
・本作はフィクションであり、実在の人物・団体・作品とは一切関係ありません。
「いらっしゃいませ……おや、いらっしゃい。今日はどうしたの? また、相談かい?」
白髪の男性が、入店してきたスーツ姿の女性に笑顔で尋ねる。
ここは都内某所にある喫茶店。高齢のマスターが1人で経営している、隠れ家的な喫茶店だ。
「すみません、才川さん。また相談です!」
スーツ姿の女性が、少し慌てた様子で答える。
「まあ、座りなさい。今、コーヒーを入れるから」
「ありがとうございます」
マスターはカウンターの中に入り、コーヒーを入れ始める。
「はい、どうぞ」
数分後、コーヒーが入れられたマグカップをスーツ姿の女性の前に置く。
「いただきます……」
女性はコーヒーを口に含むと、ホッと一息ついた。
「……それで?今日はどうしたのかな?」
マスターが尋ねる。
「うまっ! ……じゃなくて、ちょっとイベントのことで……」
「イベント?」
このお店のマスターこと、才川光蔵はこの女性が働いているイベント会社に、数年前まで勤務していた。
『僕はね、落ち着いた雰囲気のカフェをやりたいんだ』
そう言って、周囲が必死に止めるのも聞かずに長年勤めた会社を辞めたマスター。
だが、彼の仕事ぶりは社内でも評判であり、辞めた後もこうして後輩たちが相談にやって来るのだ。
「はい! マスタ、スクールアイドルって知ってますか? 今すっごく話題なんですけど」
「スクール……アイドル? すまないね、歳を取るとこう、いろいろと疎くてね……」
「あ、ああ……そうですよね!すみません、急に!」
女性はポケットからスマホを取り出し、画面をマスターに見せる。
「これです! 今すごく人気なんですよ!」
「ふむ……」
画面には『大人気のスクールアイドル』と見出しがあり、可愛らしい衣装を着た少女達が笑顔で踊っている動画が再生されていた。
「……これが?」
「はい! 実は私……今度このスクールアイドルの子たちが出場するイベントをお手伝いすることになりました!」
「ほう、それはすごいじゃないか」
女性は誇らしげに胸を張る。
「えへへ……でも、私そういうイベントのお仕事は初めてで……それで才川さんに相談したいなって!」
彼女の言葉を聞きながら、スクールアイドルの映像を見ている光蔵。
(学校に通う普通の生徒が、こうしてアイドルとして活動しているのか。これは……たしかに人気が出そうだ)
「うん、いいねえ。僕もこういう雰囲気は好きだよ。それに……この衣装も可愛らしいね」
光蔵がそう言うと、女性は嬉しそうに笑う。
「ですよね!? 私もそう思います! それでですね……」
女性が説明を続けようとした時だった。スッと手を挙げて、女性の言葉を遮る光蔵。
「ああ、ごめんよ。この……えっとなんて読むんだろ?」
「あ、それはμ's(みゅーず)ですね! 少し前に結成されたグループです!」
光蔵の指差した映像のアイドルを見て、女性は答えた。
「……音ノ木坂学院……この近くじゃないか。音ノ木坂学院を……廃校から救うために……か。……す、すごい! まだ学生の彼女たちが自分たちの学校を守るために、こうして頑張っているなんて!」
「そうなんですよ! 私も感動しちゃって! それで、このイベントをお手伝いすることに決めたんです! あ、μ'sも参加してくれるんですよ!」
女性は目を輝かせながら、光蔵に語る。
「そうなんだね。僕に協力できることがあれば、なんでも言ってね。力になるよ」
「ありがとうございます! ぜひお願いします! では、さっそく……」
女性は光蔵に資料を広げて説明を始めるのだった。
喫茶店の扉が鳴る頃、才川光蔵はカウンターの奥で紙の資料に目を通していた。
後輩の女性が置いていったものだ。丁寧に綴じられたファイルには、次回イベントの概要や参加グループのプロフィールがまとめられている。
ふと、表紙のひとつに目をとめた。
「μ's……音ノ木坂学院、9人編成のスクールアイドルグループ……」
そう読み上げていたところに、軽やかなベルの音と共に、数人の若い女の子たちがにぎやかに入ってきた。
「こんにちは〜! あ、ここだここだ!」
「ほんとにあったんだね、真姫ちゃんが言ってた隠れ家喫茶店〜!」
先頭を歩くのは、明るい少女――高坂穂乃果。そしてその後ろに、西木野真姫と星空凛、南ことりをはじめとした、見覚えのある少女たち。
光蔵は顔を上げ一瞬だけ彼女たちの顔に視線を走らせるが、すぐに穏やかな笑みを浮かべると、
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
彼は、まるで知らないお客を迎えるように静かに声をかけた。
少女たちは一斉に店内を見渡し、奥の大きなテーブルへと自然に集まっていった。
楽しそうにおしゃべりをしている様子は、普通の女子高生そのものであり、アイドルとしてのきらびやかさよりも、年相応のあどけなさが漂っている。
しかし、穂乃果がふとカウンターの上にある資料に気付き、目を丸くした。
「あれっ!? これって……μ'sの資料だよね、凛ちゃん!」
「ほんとにゃ!? マスター、この紙、どこで手に入れたのにゃー!」
光蔵は目を瞬かせて、気づいたか、と小さく笑った。
「ああ、それは……今度あるイベントで、ちょっとだけ裏方を手伝うことになってね」
その一言に、少女たちは顔を見合わせ、一気にテンションが上がった。
「えーっ!? 本当ですか!?」
「すごいすごい! じゃあ、私たちのこと知ってくれてたんですね~」
「わー! 頑張らなきゃ!」
その様子を、光蔵は静かに、しかしどこか心が温まるような表情で眺めていた。
――何も知らなかったはずの自分が、こんなにも早く彼女たちに惹かれていることに、わずかに驚きながら。
そのとき――。
「うわっ、ご、ごめんなさいっ! にこ、こぼしちゃったわっ!」
カップが傾き、テーブルの上にコーヒーが広がっていく。
少女たちが慌てて手を伸ばそうとした瞬間、すでにその場に一歩踏み出していたのは、南ことりだった。
スカーフのように手元に持っていたクロスを素早く取り出し、こぼれた液体を拭き取る。
テーブルの上も、椅子の端も、にこのスカートの裾にかかった一滴までも――何ひとつ取りこぼさない動きだった。
「大丈夫、大丈夫ですよ~。にこちゃん、火傷してないですか?」
にこが「……う、うん。ありがとう」と小さく呟く頃には、テーブルの上は元通りのきれいさを取り戻していた。
カウンターの中で、その一部始終を見ていた光蔵は、無意識に小さく目を見開いた。
それは、あまりにも自然な動きだった。
人を見て、瞬時に判断し、優しさを形にする行動。
――そこにあったのは、ただの“気配り”ではなかった。
誰かを守るような優しさだった。
(……この子が、南ことり、か)
資料に載っていた“名前と写真”が、今、ひとつの記憶として彼の中に刻まれた瞬間だった。
イベントまで、あと三週間。
才川光蔵──僕は喫茶店のカウンターに立ちながら、少し先の未来を思い描いていた。まさかこの歳になって、アイドルイベントの準備に関わるとは思ってもいなかったが、不思議と嫌ではなかった。
「才川さん、ここ、衣装まわりの確認お願いします!」
資料を手にした後輩の女性が、カウンター越しに声をかけてくる。スーツ姿の彼女はいつもきびきびと動いていて、社内でも優秀だったことを思い出す。
「ああ、ありがとう。……ふふ、まるで現役に戻ったみたいだ」
彼女が笑う。
「私、才川さんがまたこうして一緒に仕事してくれて、すっごく嬉しいです」
「そんなに喜ばれると照れるね」
資料を手に、カウンターの端に腰かける。そこにはμ'sのイベント用の衣装案や演出案が丁寧にファイリングされていた。
「そういえば……才川さん。μ'sの中だったら、誰が一番“推し”ですか?」
不意の質問に、僕は目を瞬かせた。
「僕はもうこんな年だよ? みんな孫みたいに可愛く思えるよ」
「そういうのじゃなくて! なんか、自然と目がいっちゃう子とかいません?」
「ふむ……それなら、南さんかな」
「おお!ことりちゃん!」
「先日、お店で見せてもらった対応の仕方が、実に自然だった。誰かを気遣うことが、体に染みついている。そういう人は……うん、好きだな」
僕の言葉に、後輩がふふっと微笑む。
「なるほど、そういう目線なんですね。なんか、才川さんらしいです」
イベント準備は着々と進み、穂乃果さんや絵里さんも交えて、数度の打ち合わせが行われた。
穂乃果さんはとにかく明るく、絵里さんは整然と話を進めるタイプ。打ち合わせが脱線しそうになるたび、絵里さんが穂乃果さんをやんわりと引き戻す。その姿が微笑ましくて、いつの間にか僕も笑っていた。
衣装打ち合わせの日には、ことりさんと後輩が同席していた。
「この襟元のフリル、良いですね。動くたびに軽やかに揺れて、ステージ映えしそうだ」
「ありがとうございます!」
ことりさんが笑顔を見せる。柔らかく、ほんのりと温かい表情だった。
「これを考えた方にぜひお会いしたいな」
僕がそう口にすると、後輩が少し笑いながらことりさんを見る。
「目の前にいますよ。南さんが衣装、全部担当してるんです」
「えっ……? 彼女が?」
僕は思わず声を漏らしていた。小柄で可愛らしい少女が、こんなに繊細で計算された衣装を……。
「素晴らしい……お見事だ。君は、着る側でありながら、見る人の気持ちも考えて作っている」
「えへへ……ありがとうございます」
それから、μ'sのメンバーたちは、喫茶店にしばしば訪れるようになった。全員揃って来ることもあれば、学年ごとにふらっと立ち寄ったり、誰かひとりだけで本を読みに来たり。
最初は静かに見守っていた僕も、いつの間にか彼女たちの音楽や振り付けを口ずさむようになっていた。
あれだけアイドルに無縁だったはずの自分が、今ではμ'sのファンであることを、少しも恥ずかしくは思っていない。
そんなある日、ことりさんと園田海未さんのふたりが、連れ立って喫茶店を訪れた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、奥の席へ」
「ありがとうございます」
ふたりが席につき、コーヒーを口にしたところで、僕はぽつりと声をかけた。
「はは、園田さんは俗にいうスパルタだね」
「えぇ? そ、そうでしょうか?」
「いいことだと思うよ。園田さんのようなしっかりとした人がいると、グループとしてもまとまりが出るだろうからね」
海未さんは頬を赤くして、照れたように目を伏せた。
その横で、ことりさんがふと立ち上がり、カウンター脇に飾ってある白いクマのぬいぐるみに目を留めた。
「……可愛い……」
小さな呟き。しかし、僕にはそれがはっきりと聞こえた。
そう、実は彼女が来店するたびに、そのぬいぐるみに視線を送っていたことに、僕は気づいていた。
「南さん、よかったらそれ、持って行ってもいいですよ?」
「えっ! いいんですか!?」
ことりさんは顔を輝かせてぬいぐるみに駆け寄った。
「ことり、少しは遠慮を……」
海未さんがたしなめるように声をかけたが、僕は穏やかに微笑んで言った。
「気にしないでください。他にもたくさんあるんですよ。ついつい、ゲームセンターやぬいぐるみショップを巡るのが好きでね」
「マスターさんって、可愛いの好きなんですか?」
「恥ずかしながらね。ぬいぐるみも、ガラス細工も、和菓子のパッケージも。つい、可愛いものに目がいくんです」
そこから始まった、可愛いもの談義。ことりさんは思いのほか話が弾み、海未さんも巻き込まれていつしか三人で和やかな時間を過ごしていた。
そして迎えたイベント当日。入念な準備が功を奏し、当日の運営は驚くほどスムーズに進んだ。
μ'sのステージは、眩しいほどに輝いていた。
歌声、ダンス、衣装、そして彼女たちの笑顔が、集まった観客の心を確かに掴んでいた。
ステージ袖で、それを見守ることりさんの背中を、僕はそっと見つめる。
その小さな肩が、こんなにも多くの人の未来を支えていることに、僕は今さらながら気づかされた。
イベントは、大成功のうちに幕を閉じた。
その夕方、後輩の女性に誘われて、小さな居酒屋に立ち寄った。
「ほんとに、ありがとうございました。やっぱり才川さんは頼りになるな~」
「いやいや。君が成長している証だよ。立派なものだよ」
僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに照れ笑いを浮かべた。
しばらくして、ビールを一口飲みながら、僕はぽつりと呟いた。
「……すっかり、μ'sにハマってしまったよ」
「えっ、才川さんが!? あはは、それは予想外かも!」
「最初はただ、仕事の一環として関わったつもりだったんだけどね。彼女たちの真剣な姿や笑顔を見ていたら……胸が熱くなってしまってね」
翌日。喫茶店にて後輩がふとカウンター奥の棚に目を留める。
「あれ? 白いクマのぬいぐるみがなくなってますね。代わりに……馬?」
「南さんが欲しがっていたから、あげちゃったよ。お気に入りのぬいぐるみだったんだけど、ずいぶん欲しそうにしてたからね」
僕が笑って答えると、後輩はくすっと笑い、優しい目を向けてきた。
「才川さん、なんだか以前よりも活き活きしてますね。なんだか後輩として嬉しいです!」
「そうかい?……はは、君にそう言われると照れるね」
だけど、確かに。最近、僕はよく笑っている気がする。
μ'sという存在が、この歳になって僕に新しい風を吹き込んでくれた。
だけどその夜、静かな店内で一人になったとき、ふと胸の奥がざわついた。
――僕は、幸せになっていいんだろうか。
過去の記憶が、突然襲いかかる。あの灼熱の地で見た光景。叫び声、銃声、焼けただれた空気。そして、守れなかった命。
「僕が幸せになるんじゃなくて、僕は誰かの幸せを応援して、寄り添うんだ。これまでそうやって生きてきたように……」
心の中で、そっと自分に言い聞かせるように、僕は独り言を呟いた。
イベントから数日が経ったある日。朝から、少し体のだるさを感じていた僕は、喫茶店の営業をどうしようか迷いながらも、いつものように店を開けていた。
咳が少し出る。けれど、熱はない。歳を取ると、どんな体調でも“これくらい平気だ”と誤魔化してしまう癖がつくのだろう。
そんな中、昼下がりに店の扉が開いた。
「こんにちは~」
ふわりとした声とともに現れたのは、南ことりさんだった。ひとりきりでの来店は、これが三度目だったろうか。
彼女は僕の顔を見た瞬間、瞳を細めた。
「……あの、マスターさん。大丈夫ですか?」
「うん、少し寝不足なだけだよ。気にしないで」
「……無理しちゃダメですよ。ここは、ことりに任せてくださいっ」
そう言ってことりさんはエプロンを取って腰に巻くと、カウンターの中にすっと入ってきた。
「え? いや、さすがに……」
「お手伝いなら、慣れてますからっ!」
慌てて止めようとしたが、彼女の手際の良さは想像以上だった。
注文を聞き、軽やかに動き、コーヒーを淹れる手つきはまるでプロのよう。
客席では、常連の老婦人が「あらまあ、新しい店員さん?」と笑っている。
ことりさんは、僕の指示に丁寧にうなずきながら、すべてをそつなくこなしていった。
その日の営業は少し早めに終えることにした。
閉店準備をしている最中、ことりさんが背後から心配そうに声をかけてきた。
「本当に大丈夫ですか? まだ時間もあるし……ことりが看病しますよ?」
「ありがとう。でも、さすがにそこまで甘えるのは申し訳ないからね。今日はゆっくり休むよ」
そう言って微笑むと、彼女も「わかりました」と静かに頷いてくれた。
店を閉めた後、自宅に戻ってベッドに横たわる。
薄くした灯りの中、静かな天井をぼんやり見つめると、不思議と心がざわついた。
──あの少女に、似ている。
かつて、中東の街角で、何の変哲もない小屋に隠れながら共に笑い合った、あの幼なじみ。
僕の初恋の人は、いつも誰かを気にかけ、励まし、時に自分を犠牲にしてでも守ろうとする、そんな人だった。
その面影が、南ことりさんの優しさに重なって見える。
翌日。後輩の女性から「体調はどうですか?」とメッセージが届いた。
僕は、「もう大丈夫だよ」と返したあと、少しだけ冗談めかしてこう付け加えた。
『南さんって、本当に気が利くね。そういえば、以前も見事な接客をしてくれて。あれはプロの域だったよ』
するとすぐに返信が来た。
『えっ、それ多分“ミナリンスキー”再登場ってやつですよ。ことりちゃん、ちょっと前までメイドカフェで働いてて、伝説のメイドって呼ばれてたらしいですよ!?』
スマホを手に、思わず笑ってしまった。
「どうりで……目を見張るような働きぶりだったわけだ」
そしてさらに数日後。
店に、またことりさんがひとりで現れた。
「こんにちは。今日も、おひとり?」
「はい♪ ちょっとだけ時間があったので」
カウンターに腰掛ける彼女に、僕はそっと声をかけた。
「そうだ、先日はありがとう。助かったよ。だから、今日は僕のおごりね」
「えっ?」
「コーヒーと……チーズケーキ、だったかな。君、前にμ'sのみんなと話してるときに好きって言ってたから、覚えてたんだ」
そう言ってチーズケーキを差し出すと、ことりさんの目がぱぁっと輝いた。
「わぁ……ほんとに? ことり、これ大好きなんです……!」
小さなフォークを持って、ひと口食べたその瞬間。
彼女の顔に、幸せそうな笑顔が広がる。
「おいしい……っ!」
その表情を見て、胸がじんわりと温かくなった。
ことりさんの帰り際、彼女はふとカウンターを振り返り、少し真剣な表情で言った。
「……あの、マスターさん。この前……ちょっと顔色悪かったから……ことり、すごくびっくりして、すごく……心配だったんです。ことり、あの時何もできなくて……」
僕はしばらく黙ってから、静かに微笑んだ。
「君があの日、ああして手伝ってくれたこと。それだけで、随分と救われたんだよ」
ことりさんは、恥ずかしそうに視線を逸らし、それでも小さく「よかった……」と呟いた。
閉店後、誰もいない店内で照明を落としながら、ふとため息が漏れる。
こんな日々が続いている。
μ'sに出会ってから、笑顔が増えたと周囲にも言われるようになった。
でも──
「……僕が、こんなふうに……幸せを感じていて、いいんだろうか?」
あの、戦場の光景がフラッシュのように蘇る。
燃える建物。銃声。泣き叫ぶ子ども。助けられなかった、彼女の手。
「僕が幸せになるんじゃなくて、僕は誰かの幸せを応援して、寄り添うんだ。これまで、そうやって生きてきたように……」
胸の奥に刻まれた戒めが、静かにまた僕を縛る。
ある昼下がり、まだ店内が落ち着いている時間帯に、ことりさんがカウンター前に立って、少しだけ緊張した面持ちで僕に声をかけてきた。
「……あの、マスターさん」
「うん?」
彼女は深呼吸をひとつして、まっすぐ僕を見つめて言った。
「ことり、このお店で働きたいです!」
僕は少し驚いた表情を浮かべて、思わず手に持っていたカップを拭く手を止めた。
「マスターさんの体調がまだ心配なのもあるんですけど、ここのケーキ美味しいし……えへへ♪」
言葉に詰まりながら笑うことりさん。
「……あっ! し、心配してるのは本当ですよ!? その、ケーキ目当てだけじゃなくて!」
慌てて両手を振る彼女の姿があまりに可愛らしくて、思わずくすりと笑ってしまった。
「はは、分かってるよ。でも、うちの仕事はけっこう地味だし、大変だよ? アイドル活動もあるだろう?」
「メンバーのみんなにも相談しましたし、学校にもちゃんと届け出済みです! お母さんにも“ことりらしいね”って応援してもらいました!」
そこまで整えてあるとは……。
真剣な気持ちなのだとわかって、僕は静かに頷いた。
「……君の厚意に、素直に甘えることにするよ。南さん、今日からよろしく頼む」
「はいっ!」
ことりさんが働き始めて、すぐに僕は度肝を抜かれた。
注文の記憶、接客の受け答え、料理の盛り付け補助、細かい掃除まで、まるで数年この店で働いていたかのような手際だった。
いや、これはもはや“店長代理”と言っても差し支えないレベルだった。
「……ミナリンスキーは伊達じゃなかったか……」
そんな冗談すら漏れてしまうほど、頼りになる存在だった。
「ことりちゃん、今日もよろしく頼むよ。本当に君が来てくれて、僕としては大助かりだよ」
「はいっ! ことりもマスターさんと一緒に働けて楽しいです♪」
仕事終わりには、給料の他にちょっとしたまかないとして、好きな飲み物とメニューを出すのが習慣になっていた。
「今日のご褒美は……チーズケーキでどう?」
「えっ、いいんですか!? わ〜い!ことり、マスターさんのチーズケーキ、大好きですっ!」
ぴょこんと座って、手を合わせて目を輝かせる彼女の姿を見ていると、自然と心がほころんでいく。
(……こういう光景を、きっと幸せって呼ぶんだろうな)
ことりさんが働くようになってから、店の客層が明らかに変わった。
μ'sのメンバーはもちろん、音ノ木坂の生徒たちも「ことりちゃんがいるから」と足を運ぶようになり、それまで昼下がりが静かだった店内が、明るく活気ある空間へと変わっていった。
細々と続けていた喫茶店が、今や活気のある“場所”になりつつある。
これは間違いなく、彼女のおかげだった。
「……感謝してもしきれないな、本当に」
そんなある日。閉店後のテーブルに腰かけていた彼女が、カバンから何かを取り出した。
「マスターさん、今度のライブの衣装なんですけど、デザインをチェックしてもらってもいいですか?」
彼女が広げたスケッチブックには、動きやシルエットを意識した、繊細で可愛らしい衣装案が描かれていた。
「マスターさんの意見が聞きたいな♪」
そう言って、笑顔でスケッチを見せる彼女の顔に、僕は一瞬言葉を失った。
その目には、真剣さと喜びが共に宿っていた。
「……本当に、君は何でもできるんだね。デザインも見事だ。僕の意見なんか、参考になるかな?」
「なりますよっ。マスターさん、何だかんだでμ'sの曲とかも口ずさんでるし♪」
「ばれたか……」
僕が肩をすくめると、ことりさんはくすくすと笑った。
そんなふうに、少しずつ敬語も崩れていき、僕たちは“店長とアルバイト”という関係を超えて、日々の中で自然と打ち解けていった。
今日もまた、ことりが笑いながらカウンターの中で片付けをしている。
その姿を横目に、僕はふと心の奥で、かすかな震えを感じていた。
このまま、こんな日々が続いていけばいい──
だが、同時に思ってしまう。
(僕は……この子に、近づきすぎてはいけない)
彼女の優しさがあたたかければあたたかいほど、
僕の中の“過去”が、それを拒むように胸を締めつけてくるのだった──。
日々の営業が終わった静かな喫茶店の夜。
ことりちゃんがカウンターの奥でまかないを受け取って、嬉しそうに笑っている姿を見ながら、僕は心の中でそっとため息を吐いた。
「ことりちゃん、今日のまかないはこれだよ。食べたらそのまま置いておいていいからね。僕は部屋でやることがあるから。ゆっくりしてね。今日もお疲れさまでした」
そう言って、彼女の返事を聞く前に、いつもより早足で奥の部屋へと引っ込んだ。
まるで、逃げるように。
部屋に戻ってから、静かに目を閉じる。
浮かぶのは、彼女の笑顔だった。
(……いけないな)
彼女と話していると、つい口元が緩む。
まかないを頬張って「おいしい〜♪」と笑う姿に、胸がふわっと温かくなる。
(これ以上、君に心を寄せるようなことがあってはならない)
──僕は、誰かを幸せにする資格なんてない人間なんだ。
戦場で奪った命、守れなかった人々。
初恋の彼女の亡骸を抱いたあの日の記憶が、今も時折、夢に出てくる。
だから僕は、誰かの幸せを応援することでしか、生きていけない。
翌日。店が一段落した夕方、ことりちゃんが嬉しそうにスケッチブックを手にカウンターへ来た。
「マスターさん♪ この衣装のデザイン、アドバイス欲しいんですけど……」
一瞬、心が揺れる。だが、僕はゆっくりと視線を落としながら答えた。
「あ、ごめんねことりちゃん。ちょっと手が離せないから、コピーさせて。今日の夜にチェックして、明日感想伝えるから」
笑顔は崩さなかった。
彼女にも、気を遣わせないように。
けれど──
彼女の表情が、わずかに曇るのが見えた。
ほんの一瞬だったが、僕の目にははっきりと映った。
(しまった……。傷つけるつもりは無かったのに……。君のそんな表情は見たくないな……)
彼女が軽く「わかりましたっ」と答えて席に戻っていく後ろ姿を見ながら、僕の心は重く沈んだ。
数日後の休日。ふと立ち寄ったショッピングセンターのゲームコーナーで、賑やかな声が耳に入った。
「えいっ……あっ、また落ちちゃったぁ!」
「こ、ことりちゃん、そこで焦って動かしちゃダメにゃ〜!」
覗き込むと、そこにはことりちゃん、穂乃果ちゃん、凛ちゃんの3人の姿。
楽しげにクレーンゲームに挑戦している。
クマのぬいぐるみ、うさぎのマスコット、マカロンのキーホルダー……。
彼女たちはそれぞれ違う景品を狙っていて、何度も挑戦しては首をかしげていた。
……懐かしいな。
あの頃、僕も戦地から戻ったあと、静かに時間を潰すために、こういうゲームを好んでやっていた。
狙いを定めて、力の入れ具合と重心を読む──その集中と精密さが、何も考えずに済む時間をくれた。
気づけば、僕は後ろから声をかけていた。
「よかったら、代わろうか?」
「えっ、マスターさんっ!?」
3人が驚いた顔でこちらを向く。
そして、それから十分後──。
「はい、ことりちゃん。欲しかった景品だよ」
「わあぁっ♪ マスターさんありがと! ことり、ずっと大事にする♪」
ことりちゃんは、受け取った小さなマスコットを胸にぎゅっと抱きしめて、満面の笑みを見せた。
──その笑顔を見て、僕は胸の奥がまたふわっと温かくなるのを感じた。
(なんて素敵な……愛らしい笑顔なんだろう)
だからこそ。
(……やっぱり、近づきすぎてはいけない)
幸せそうな彼女の姿が、僕の胸を温めると同時に、
その幸福に触れてしまったことへの“罪悪感”が、静かに影を落としていた。