※この作品はR-18です。

ラブライブ! ~春待つ喫茶店で~   作:彼処舐ノ助嗅過

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光蔵の喫茶店で働き始めたことり。光蔵はそんな彼女に癒されつつも、過去の罪に苛まれる日々を送る。
そんなある日、地域再開発の話が持ち上がり、喫茶店にも退去のお願いが届く。
年齢や時代の流れを前に、諦めかける光蔵。
そんな彼の姿を見て、ことりはある決断をするのだった。

※シリーズ全体
本作は、作者の解釈と妄想を多分に含みます。原作のキャラクターたちと別の時間を生きる、もう一つの物語としてお楽しみいただければ幸いです。

・本作は、アニメ版『ラブライブ!』をベースにしておりますが、二次創作作品につき、独自の時空・設定を含みます。
・アニメ本編との時間軸・設定のズレや、キャラクター解釈に差異が生じる可能性がございます。
・原作キャラクターに加え、オリジナル男性キャラクターが登場し、主人公となっています。
・男性キャラクターとの恋愛要素を含みますので、苦手な方はご注意ください。
・原作尊重を心がけておりますが、キャラ崩壊・設定改変・解釈違いなどを感じる場合がございます。
・ストーリー後半には、**18歳以上推奨の描写(R-18要素)**が含まれます。閲覧の際はご注意ください。
・本作はフィクションであり、実在の人物・団体・作品とは一切関係ありません。


#2 守りたい大切な場所

 数日後の昼下がり、喫茶店は昼の賑わいを終え、午後のゆったりとした時間に包まれていた。

「ことりちゃん、ちょっと休憩してていいよ。こっちは僕が片付けておくから」

「はいっ。……あの、マスターさん」

 ことりはそっとエプロンを外し、カウンター越しに小さな紙袋を差し出した。

「これ、よかったら……マスターさんに、です」

「ん? これは……?」

 

「いつもまかないとか、可愛いのもいっぱいもらっちゃってるから。ほんの気持ちです。大したものじゃないんですけど……受け取ってもらえたら嬉しいです♪」

 彼女ははにかむように笑って、小さく頭を下げた。

 受け取った袋の中には、ことりの手作りと思われるキーホルダーサイズのぬいぐるみと、手書きのメッセージカードが添えられていた。

 ぬいぐるみは、白いクマをベースにして、どこかあの店にあった“お気に入りだった”クマに似ていた。

 カードには、可愛い文字でこう綴られていた。

 

*マスターさんへ

 

ことりにたくさん優しくしてくれて、ありがとうございます。

このクマさん、マスターさんに似せて作ってみました。

ちょっとだけ、表情が優しくなりすぎちゃったかも……えへへ。

これからも、お身体に気をつけてくださいね。

 

ことりより*

 

 光蔵は、それを読んで、しばらく動けなかった。

 胸の奥に、じんわりと広がるぬくもり。

 誰かの気持ちが、まっすぐに自分へと注がれた――それを受け止めてしまったという実感。

「……いけないな、これは……」

 ふとつぶやいた声が、自分でも驚くほどかすれていた。

 こんな贈り物に、どうしてこんなに心が揺れているのだろう。

 たった数センチのぬいぐるみ、けれど、それが“愛おしい”と思ってしまった。

 

(僕は、ただの店主で、彼女の雇い主で、それ以上になってはならない)

 なのに――

(こんなに嬉しいと思ってしまっている自分が、いる)

 ことりは、贈った後も特別な様子を見せず、いつもと変わらず店内を歩き回り、笑顔で接客をしていた。

 けれど光蔵の方は、まるで心に火種を持たされたかのように、気持ちの整理が追いつかなかった。

 彼女の無垢な優しさが、あまりにも眩しくて、そして恐ろしかった。

 

 その夜、閉店後。

 光蔵はぬいぐるみをそっと棚に置き、電気を消す直前にもう一度それを見た。

 優しい表情のクマが、静かにこちらを見ている。

 手のひらサイズの、何の害もない贈り物。

 それなのに、こんなにも胸が痛いのは、どうしてなのだろう。

 

(……ありがとう、ことりちゃん)

(でも、君が何かをくれるたびに、僕は……君に“何か”を返したくなる)

(それが、“ただの恩返し”で終わらなくなってしまいそうで……怖いんだ)

 

 

 午後の柔らかな光が差し込むカウンター席の脇。

 以前、白いクマのぬいぐるみを飾っていた場所に、今は新しい小さなクマが静かに座っていた。

 ことりからもらった、手作りのぬいぐるみだ。

 優しい顔で、今日もじっとお客を見守っている。

 

「えへへ、マスターさん。ちゃんと飾ってくれてるんですね!」

 出勤してきたことりが、それに気づいて嬉しそうに笑った。

 彼女の笑顔を見るたび、胸の奥に何かがじんわりと広がる。だが、それは飲み込んだ。

(ことりちゃんとの関係も以前のように戻った気がするな。これならいつもの僕だ)

 店の空気も落ち着いていた。

 2人での接客もすっかり板につき、言葉にしなくても互いの動きが読めるほどだった。

 

 

(今日はことりちゃんのまかないに、新作のパスタを作ってあげよう)

 久しぶりにトマトソースではなく、クリームベースの味に挑戦してみた。

 きのことベーコンを炒めた香りが店内に広がる頃、ことりがキッチンを覗きに来た。

「マスターさん、今日のまかない……これですか?」

「うん、いつもありがとうね。今日のカフェラテは一味違うと思うよ?」

「えっ、わぁ~、楽しみっ♪」

 まかないを受け取ってカウンター席に座ったことりは、一口パスタを食べると瞳を輝かせた。

「マスターさん、これ美味しい~♪ はぁ~しあわせ~♪」

 フォークを持ちながら、頬をほころばせる彼女の姿は本当に愛らしいと感じながら、自分を戒めるのだった。

 

 

 そんな穏やかな日々を壊すのは、いつだって唐突だ。

「──才川様、こんにちは。お忙しいところすみません。実は……」

 昼下がり、スーツ姿の男性が店を訪れた。

 近隣の都市開発を進めている業者らしい。

 淡々とした口調で、彼は言う。

「再開発……ですか……。うちの店も……」

 書類を受け取る手が、ほんの少しだけ震えていた。

「……ちょっと、考えさせてください」

 笑顔で応対したつもりだった。でも、ことりには伝わっていたのかもしれない。

 

 

 スーツの男が去ったあと、ことりが慌てたようにカウンターから駆け寄ってくる。

「急にそんなこと言われても困っちゃいますよね~。でも、絶対に辞めないですよね、マスターさん?」

 その瞳はまっすぐで、信じるようにこちらを見つめてくる。

 だが、言葉が出なかった。

 ことりの笑顔が、期待が、まるで胸に重くのしかかってきて。

「……マスター、さん……?」

 彼女の声が、少しだけ不安に揺れた。

(再開発か……。抗ったところで、僕も歳だし……)

 身体のどこかが冷たくなっていくのを感じながら、僕は静かに目を伏せた。

 

 

 店内に、午後の静けさが流れていた。

 カウンターの向こうで、光蔵がいつものようにカップを拭いていたが、手の動きが少しだけ遅い。

 それをことりは、テーブルを片付けながら、そっと見つめていた。

「……マスターさん、さっきの話なんですけど……」

 意を決して口を開いたことりに、光蔵はゆっくりと目を向けた。

「ことりちゃん、再開発となるとちょっと難しいかもしれないね……」

「そ、そんな……。でも、ことり、諦めたくない……」

 絞り出すような声でそう言う彼女に、光蔵は優しく、けれどどこか遠くを見るような目で返した。

「ありがとう。……だけど僕も歳だ。ここらが潮時なのかもしれないね」

 ことりは思わず、言葉を飲み込んだ。

 だけど、それでも、言わずにはいられなかった。

 

「他のお店や近所のみんなと声を上げれば、なんとかならないんですか? ……マスターさん、一緒に頑張りませんか?」

 まっすぐな想いを込めて、ことりはそう問いかける。

 だが、光蔵は微笑みながら、首を横に振った。

「ありがとう。だけど、もういいんだ。ことりちゃんたちだって、学校も、スクールアイドルとしての活動もあって忙しいだろうからね。老い先短い僕は、そろそろ引退だ」

「そんな……。そんなこと……」

 声が震えた。けれど、それ以上何も言えなかった。

 光蔵の表情は穏やかだった。だけど、その目は……。

(マスターさん……悲しそう。やっぱり嫌なんだ……)

 ことりは、胸の奥がじんと熱くなるのを感じながら、小さく拳を握った。

(うん。私だって嫌だ。……みんなに相談してみよう!)

 

 

 

【ことり】

《ねぇ、みんな。ちょっと相談したいことがあるの。今度、時間あるとき話せる?》

 彼女の言葉に、すぐに返信が集まる。

【穂乃果】

《いいよ!何かあったの?》

【絵里】

《もちろん。明日の放課後なら時間があるわ》

【凛】

《ことりちゃんが困ってるなら、凛、全力で手伝うにゃ!》

 メッセージのやり取りを見ながら、ことりは少しだけ笑った。

 きっとこの子たちと一緒なら、できる。そう思えた。

 

 

 閉店後の静まり返った店内。

 カウンターに肘をつきながら、光蔵は静かにぬいぐるみのクマを見つめていた。

 彼女がくれたクマ。

 その小さな瞳が、まるで「諦めないで」と言っているように感じる。

「……ラナ」

 光蔵は、誰にも聞こえない声で、かつての幼馴染の名を呼んだ。

「どうやらこのお店も、もうそろそろ終わりのようだ。……僕は、次はどうやって償っていくべきだろうか」

 喫茶店は、彼にとって“罪を贖い、誰かを支える場所”だった。

 その場所がなくなるという現実に、彼自身も気づかぬうちに、心を締めつけられていた。

 

 音ノ木坂学院・理事長室

 静かな応接室に、3人の少女が並んで立っていた。

 穂乃果、ことり、絵里。μ'sの中心メンバーであり、今や多くの生徒たちに希望を与えてきた顔ぶれだ。

 

 

 正面のソファに座るのは、音ノ木坂学院理事長――南ことりの母。

「理事長! お願いします! あのお店は、音ノ木坂の生徒もたくさん通っている大切なお店なんです!」

 穂乃果が真剣な顔で頭を下げる。

「私からもお願いします、理事長」

 絵里もそれに続く。

 そして、ことりが一歩前に出て、まっすぐ母を見つめた。

「お母さん……。私からもお願いします! マスターさんも、あの近くのお店も公園も、この辺りに住む人たちにとっては大事な場所だと思うの!」

 

 理事長は、娘の真っ直ぐな目にしばらく沈黙していたが、やがてふっと息を吐いて微笑んだ。

「……本気なのね。みんなで何かしようとしてるの?」

 3人は同時に頷いた。

「なら、音ノ木坂としても正式に後押ししましょう。地域とのつながりは、私たちにとっても大切なことですものね」

「やったーっ! 理事長、ありがとうございますっ!」

 

 

 イベント会社オフィス

 後日。μ'sの3人──ことり、海未、真姫──は、資料の詰まったファイルを手にして、イベント会社を訪れていた。

 扉を開けた先で、出迎えたのは、かつて光蔵とともに働いていたあの後輩女性だった。

「こんにちは。先日のイベントではお世話になりました!」

 ことりが丁寧に頭を下げ、資料を差し出す。

「あの、イベントを開催したくて。私たちμ'sと音ノ木坂の生徒たちで、企画書を作って来ました」

 女性は驚きつつも、資料を受け取って中身に目を通す。

 中には、コンセプト、ステージ案、周辺協力店のリスト、署名活動の提案などが丁寧にまとめられていた。

 海未が口を開く。

「いつものように私が歌詞を、真姫が作曲を、ことりが衣装づくりを担当します。その他、企画、実行などにおいてμ'sメンバー、音ノ木坂の有志の生徒たちもお手伝いします」

 真姫が資料の端をトンと揃えながら一言加える。

「なんとかしたいんです。先輩であるマスターさんのためにも、力を貸してくれませんか?」

 

 女性は、手元の書類から視線を上げて、3人を見つめた。

 そして、ふっと懐かしそうに笑みを浮かべる。

「才川さん……こんな若い子達にも慕われているのね。さすがだわ」

 懐かしげに目を細め、静かに頷いた。

「うん! もちろん協力させて! あの人には何度仕事で救われたかわからないんだから!」

 

 μ'sは再び走り出した。

 廃校から音ノ木坂を救った彼女たちが、今度は地域を守るために。

 愛する喫茶店と、そこに通う人々の“場所”を守るために。

 彼女たちの想いが、今、町中を動かし始めていた。

 

 

 

 平日の午後、喫茶店には柔らかな陽が差し込み、いつもと変わらない時間が流れていた。

 ことりは制服姿でカウンターの中に立ち、笑顔でコーヒーを淹れている。

「マスターさん、今日の豆、ちょっと香りが深い気がします♪」

「うん。いつもと違う産地のを試してみたんだ。さすがだね、ことりちゃんは」

 ことりはふふっと微笑んで、「えへへ♪」と笑った。

 ……その笑顔の裏で、実は彼女が水面下で動き始めていることを、光蔵はまだ知らない。

 

 彼はというと、最近よくこう思うようになっていた。

(この店も、もう長くはないだろう)

 再開発の話が出てから、覚悟はしていた。

 ここは自分の思い出が詰まった場所。夢を持てなかった少年が、ようやく心を落ち着けられた場所。

 そして──

(ことりちゃんが、いてくれた場所)

 きっとあと少しだけ、彼女とこの空間を共有できれば、それで十分。

 それが光蔵の“精一杯の幸福”だった。

 

 

 喫茶店の定休日、光蔵は町内の清掃ボランティアに参加していた。

 長年の習慣だ。駅前のベンチ周辺、歩道の植え込み、ゴミの収集所……慣れた手つきで黙々と動いていた。

 その帰り道、喫茶店のすぐ近くの、昔ながらの駄菓子屋の前で立ち止まった。

 小さなその店の前では、年配の女性――顔馴染みのおばあちゃんが、署名用紙を片手に道行く人へ声をかけていた。

「お願いです! どうか、再開発の見直しを……! ここがなくなったら、子どもたちの居場所がなくなってしまうんです……!」

 光蔵は、彼女の姿をしばし見つめたあと、歩み寄った。

「……まだ頑張っておられたんですね」

「才川さん! あんたこそ、引き下がっちゃダメよ! こんなやり方、絶対におかしいわ!」

 必死に訴えるその目は真剣そのもので、どこか、かつて光蔵の初恋の少女に似た強さを思い起こさせた。

 けれど──

「……時代の流れには、なかなか逆らえないものですからね」

「そんなこと言わないで……! 一緒に声を上げましょうよ!」

 返事は、できなかった。

 口を閉じたまま、光蔵は静かに帽子のつばを下げた。

 ──彼女だけではない。他の再開発対象地域の店主たち、住人たちもまた、似たような表情をしていた。

 諦めにも似た沈黙。どこかで「仕方がない」と思いながらも、何も言えずにいた。

 

 

 ボランティアを終えて、帰り道。

 光蔵はふと、喫茶店近くの小さな公園に立ち寄った。

 そこにある掲示板。その一角に、見覚えのある色合いのポスターが貼られていた。

《音ノ木坂 × 地域ふれあいフェスティバル開催決定!》

《μ’sと一緒に、大切な“居場所”を守ろう!》

 明るい色調のそのポスターには、μ’sのロゴと共に、地図と日程、

 そして「再開発エリア地域における文化と暮らしの魅力発信イベント」の文字が記されていた。

 

「……っ……」

 思わず、足が止まる。

 そのポスターには、ことりの描いた衣装案のイラスト、海未の筆文字のスローガンが載っていた。

 名前は載っていない。だが──分かった。

(これは……ことりちゃんたちが……)

 胸に何かがぶわりと広がった。

 驚き、感動、戸惑い、そして──やましさ。

 何も知らず、何もできず、諦めようとしていた自分に。

 若者たちの、たったひとつの“本気”が、まるで風穴を開けるように突き刺さってきた。

 

 

 夜の喫茶店。客も引いて、照明を少し落とした店内で、光蔵は一人、カウンター越しに棚の上のぬいぐるみを見つめていた。

(……正直、続けたい)

 この空間が好きだった。

 昔のように多くは語らなくても、温かい飲み物を出して、落ち着いた音楽を流して、どこか誰かの“帰る場所”になる──そんなこの場所が、彼の“償いの形”だった。

(だけど現実は、そう甘くない)

 再開発。代替案の提示もすでに一部始まっている。

 あの手この手で住人を説得しようとする動きも加速しているのが見えた。

(ことりちゃんたちは、あくまで“今”を生きる子たちだ)

 あの情熱は眩しい。でも、それを消耗させてまで戦わせていいのか。

 ましてや──この運動が仮に失敗したとき、彼女たちの心にどんな傷を残すのかを思うと、怖かった。

 

 

 一方そのころ、μ'sと音ノ木坂の生徒たちは、街の各所でビラ配りや呼びかけを行っていた。

「再開発地域の見直しを訴えるイベント、ぜひ来てください!」

「μ'sも出演します! 一緒に地域の魅力を伝えましょう!」

 ことりは通行人ひとりひとりに丁寧に声をかけ、時には足を止めて会話しながら署名を集めていった。

 穂乃果が笑顔で手を振り、凛は元気よく子どもたちと握手しながらビラを渡し、絵里は落ち着いた口調で保護者層に語りかけていた。

 その真摯な姿に、はじめは関心のなかった住民たちが次第に「ちょっと聞いてみようか」と足を止めるようになっていった。

 

 

 ある日、ボランティア帰りに光蔵は、役所の玄関前で見慣れた顔を見つけた。

「鰻屋の旦那……」

「ああ、才川さんか。今、陳情に来たとこだよ。……あの若い子たちの顔見てたら、黙ってらんなくてな」

 その隣には、駄菓子屋のおばあちゃん。さらに仕立屋の跡取り娘、花屋の夫婦。

 みんな、あの“ポスター”を見て、自ら動き出していた。

 光蔵の胸にも、熱いものが込み上げた。

(……こんなに、人が……)

 それでも、まだ決心はつかなかった。

(みんなで力を合わせたのに、ダメだったら……若い子たちの希望を砕いてしまう……)

 

 

 いつものように、ことりが制服姿で店にやってきた。

 変わらぬ笑顔で「おはようございます♪」と挨拶をしながら、エプロンを身につけてカウンターに入ろうとした瞬間。

「……ことりちゃん」

 光蔵の低く、しかし穏やかな声が彼女を呼び止めた。

「少し、話をしてもいいかな?」

 カウンターの中で2人きり。いつもと変わらぬ店内。でも、空気が少しだけ張り詰める。

「……君が動いていること、全部じゃないけど、なんとなく分かってる。ありがとう。本当に……嬉しかったよ。でもね──」

 光蔵はことりをじっと見つめた。

 まるで、彼女の“覚悟”を確かめるように。

「現実には、再開発の中止は厳しい。住民の声が届く保証はないんだ。たとえ全力で動いても、結果が出なければ……それは、“傷”になってしまう。だから──」

 彼は静かに語る。

「ことりちゃんたち、今しかない若い子の時間を大事にして欲しい。時代には……勝てないんだよ」

 

 その言葉に、ことりは俯いていた。

 しばらく沈黙が流れたあと、顔を上げた彼女の目には、珍しく揺るがぬ意志が宿っていた。

「……マスターさん」

 声は震えていない。真っ直ぐで、はっきりとした声だった。

「ことりにとっては、この辺りのお店も、景色も、みんなの温かい笑顔も、大好きなんです」

「……」

「マスターさんと仕事をして、お話する時間も、学校やスクールアイドルと同じくらい大事なんです!」

 彼女の言葉が、空気を切り裂くように響いた。

「たしかに、結果はわかりません。でも、なにもせずに失うなんて……それだけは、絶対に嫌なんです!」

 光蔵は何も言わなかった。

 ことりの顔を見つめながら、ただ、静かにその言葉を受け止めていた。

 その瞳の奥に、確かな決意と、幼さではない“本物の意志”を見た気がした。

 

 

 カップを磨き終えた手が止まったまま、光蔵はずっと俯いていた。

 カウンター越しの静かな空間に、さっきのことりの言葉が何度も何度も、胸の奥に響いていた。

『たしかに、結果はわかりません。でも、なにもせずに失うなんて……それだけは、絶対に嫌なんです!』

 その瞳に宿っていた光を、忘れることができなかった。

(……こんなにも、真っ直ぐに……)

 ことりの言葉に心を揺さぶられた自分を、最初は情けなく思った。

 しかし、静かに胸に手を当てた時、そこにあったのは、懐かしい感情だった。

(何かを守るために、もう一度立ち上がりたいと思っている──)

 

 

 夜遅く、光蔵はスマートフォンを手に取り、登録されていた名前にタップした。

「もしもし、才川さん?」

「ああ、紗枝くん。ひとつだけ聞かせてほしい。……どうして僕に内緒にしたんだい?」

「……ことりちゃんに頼まれたんです。マスターさんが悩んでるみたいだから、今は内緒にして欲しいって」

 光蔵は小さく笑った。

「はは、そうかい……。大人として、彼女たちを止めて欲しかったな」

 すると、電話の向こうで紗枝が笑い声を漏らした。

「ふふ、止められると思いますか? 彼女たちは自分たちで行動を起こして、自分たちの手で廃校を阻止した、あのμ’sですよ?」

 その言葉に、光蔵も思わず笑ってしまった。

「……ああ、たしかにそうだ。まったく、すごい子たちだ」

 

 

 翌朝。光蔵は久しぶりに、かつての職場――イベント会社の前に立っていた。

「……随分、懐かしいな」

 出勤してきた黒木紗枝が、彼を見つけて目を丸くする。

「えっ……才川さん? どうしてここに……」

 しかし光蔵は微笑みながら彼女を通り越し、受付へ向かった。

「ちょっと、古い友人に挨拶をね」

 その言葉どおり、彼が向かったのは社長室だった。

 

 

 社長は初老の男で、かつて光蔵と苦楽を共にした盟友のような存在だった。

「おおっ! 才川、何年ぶりだ?」

「お久しぶりです。今日は、お願いがあって」

 光蔵は深く頭を下げた。

「イベントに、協力させてください。彼女たちが……本気で、この町を守ろうとしているんです。だから僕も、もう一度――動きたい」

 一瞬の沈黙の後、社長は小さく笑った。

「やっぱり来たか。正直、こうなる気がしてたよ。……お前があの店を始めた時、俺はな、きっとまた動き出す日が来ると信じてた」

 そして、社長は大きく頷いた。

「社員にも話を通しておく。もちろん、全力で協力するさ。才川、お前が来てくれたなら百人力だ!」

 

 

 その日から、光蔵はイベントの裏方として奔走し始めた。

 演出プランの精査、機材の搬入、地域店舗との連携調整──どれもかつての日々で慣れ親しんだ仕事だ。

 だが、喫茶店ではことりに何も話さなかった。

 ことりもまた、何も聞かなかった。ただ、光蔵の目に再び“灯”が宿っていることに、安心して微笑むだけだった。

(……不思議だな。彼女と一緒にいると、息をするように、自然でいられる)

 そんな時間が、今の光蔵にとって何より大切になっていた。

 

 

 その夜。喫茶店を閉め、照明を落とした店内で、光蔵はひとり、ぬいぐるみのクマを見つめていた。

「ラナ……。明日は、イベントだよ」

 カウンターに肘をついて、ぼんやりと宙を見つめる。

「そうだ。紛争と再開発、比べるべきではないのだろう……。でも、ことりちゃんやμ's、音ノ木坂の生徒たち、そして町のみんなは戦っているんだ」

「僕たちがかつて、家族を、大切な人を守るために戦ったように。帰る場所を、生活を守るために──あの時と、同じだ」

 拳を握りしめた。

「ラナ、みんな……僕もまた、戦わないとな。大切な場所を守るために!」

 その瞳には、もう迷いはなかった。

 

 

 薄明かりの朝。

 ことりは制服にアイロンをかけながら、胸の奥に広がる不安と期待を噛みしめていた。

(いよいよ、今日なんだ……)

 数週間前、マスターさんに「無駄かもしれない」と言われた時は、本当に怖かった。

 でも、あの日から少しずつ町が変わっていった。

 μ’sのみんなが呼びかけて、地域の人たちが自ら署名を集め、参加を申し出てくれるようになった。

 商店街の人たちも協力してくれて、ポスターの掲示や商品の提供も申し出てくれた。

 ……そして。

(マスターさんの目が、戻ってた)

 それが、ことりにとっては何より嬉しかった。

 彼が何も言わなくても、“わかってるよ”と伝わってくる、あの優しい空気がまた戻ってきた。

「絶対、成功させよう。絶対……大切な場所、守りたいんだから……!」

 

 

 再開発予定地内の公園。普段は静かなこの場所に、カラフルな装飾と大きなステージが設けられていた。

 「地域ふれあいフェスティバル」の文字が描かれた垂れ幕が、青空の下で風に揺れている。

 開会の言葉とともに、地域の伝統芸能団体の演舞、学生たちの書道パフォーマンス、小学生の合唱──次々とイベントが進んでいく。

「マスターさんが、わたしたちのまちの“やさしいおじちゃん”でいてくれるといいなって思います!」

 小学生の女の子のスピーチに、光蔵は思わず目頭を押さえた。

 その横でことりもまた、そっとハンカチを目に当てていた。

 

 

 イベントの後半では、仕立屋の跡取り娘や駄菓子屋のおばあちゃん、地域住民代表が登壇し、町の魅力や思い出を語る時間が設けられた。

「この場所には、たくさんの物語があります。商店街の人たち、遊んでいた子どもたち、学生時代の僕自身の思い出……。新しくするだけが正解ではありません。残すことにも価値があると、私は信じています」

 光蔵もまた、その壇上で静かに語った。

 その言葉に、拍手が起きた。

 

 

 そして夕方、イベントのクライマックス。

 μ’sの9人がステージに立つと、観客席から歓声が上がった。

 穂乃果が叫ぶ。

「私たちは、ここが大好きです! この町が、みんなの笑顔が、大好きです! 今日のライブで、みんなの想いをひとつにします!」

 演目は、μ’sの人気曲を中心に、地域のことを想って作られた新曲『きみと守りたい未来(仮)』で締めくくられた。

 ことりがデザインした衣装は、地域の風景をモチーフにしたもので、色とりどりの花や建物が刺繍されていた。

 歌いながら、ことりはステージの向こうに光蔵の姿を見つけた。

 彼もまた、まっすぐな視線でこちらを見つめていた。

(……伝わってる、よね?)

 

 

 イベント終了から数日後。

 役所から正式な文書が町内に届いた。

《再開発の計画については、一時保留とし、地域住民の意見を踏まえた形での見直しを実施する。

 文化・景観・コミュニティ機能の保存を含め、町の持つ価値を尊重した再構成案を作成予定である》

 それは、「中止」ではない。

 でも、十分すぎる一歩だった。

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