だがそんなある日、喫茶店に1人の年老いた外国人が訪ねて来るのだった。
※シリーズ全体
本作は、作者の解釈と妄想を多分に含みます。原作のキャラクターたちと別の時間を生きる、もう一つの物語としてお楽しみいただければ幸いです。
・本作は、アニメ版『ラブライブ!』をベースにしておりますが、二次創作作品につき、独自の時空・設定を含みます。
・アニメ本編との時間軸・設定のズレや、キャラクター解釈に差異が生じる可能性がございます。
・原作キャラクターに加え、オリジナル男性キャラクターが登場し、主人公となっています。
・男性キャラクターとの恋愛要素を含みますので、苦手な方はご注意ください。
・原作尊重を心がけておりますが、キャラ崩壊・設定改変・解釈違いなどを感じる場合がございます。
・ストーリー後半には、**18歳以上推奨の描写(R-18要素)**が含まれます。閲覧の際はご注意ください。
・本作はフィクションであり、実在の人物・団体・作品とは一切関係ありません。
静かな午後。ことりが変わらぬ笑顔でカウンターに立ち、ラテアートを施したミルクの表面を眺めていた。
「マスターさん、今日のカフェラテは……いつもより、ふんわりしてます♪」
光蔵は柔らかく笑って、カウンターの奥でコーヒー豆を挽いていた。
「君の笑顔を見ていると、手がよく動くんだよ」
「えへへ……♪」
外には、子どもたちの笑い声と、町のざわめきが戻っていた。
イベントから数日後の夕方。喫茶店には柔らかな夕陽が差し込んでいた。
店内には客はおらず、カップを片手に光蔵がことりと向かい合っていた。
「……本当に、よくやってくれたね」
光蔵がそう言うと、ことりはちょっと照れくさそうに笑った。
「ううん、ことりだけじゃないよ。みんなが頑張ったの」
「それでも、君がいなければ動かなかった。……ありがとう、ことりちゃん」
静かに湯気を立てるカフェラテの向こう側で、ことりはそっと目を細めた。
「守れてよかった。全部じゃないけど……。でも、マスターさんが笑ってくれてるから、それが何より嬉しいです」
光蔵は微笑みながら、ぬいぐるみのクマに視線を移した。
それは、今も変わらず棚の端で店内を見守っている。
(……贖いの場所だと思っていた。でも、いつの間にか、この場所は“誰かの居場所”になっていたんだな)
季節が進み、μ'sは再びラブライブに挑戦する。
光蔵はいつものように喫茶店を開け、彼女たちが勉強や打ち合わせで利用するのを笑顔で見守っていた。
ことりの制服の袖には、すでに大人びた影が見えはじめていた。
──そして、あの日。
μ'sの「Snow halation」を見た光蔵は、まるで心を撃ち抜かれたように固まっていた。
「……なんだ、これは……」
まっすぐな想い。凍てつく季節に灯る光。
(君たちは、本当に……すごいな)
ラブライブ本大会
ついに大会当日。
光蔵は一観客として、現地の会場を訪れていた。
μ'sのステージは、ただの“アイドル”ではなく、人の心を動かす“祈り”のようだった。
穂乃果の叫び、海未の覚悟、真姫の音、ことりの笑顔。
そして──その中心にある“みんなの絆”。
ラナが生きていたら、きっと微笑んだだろう。
そう思いながら、光蔵は手を合わせるように拍手を送った。
季節は春へと移り変わり、音ノ木坂学院の卒業式の日。
晴れ着姿の絵里、希、にこの姿を、光蔵は喫茶店の奥からこっそりと見送った。
(君たちのような若者がいるなら、この町はまだまだ大丈夫だ)
ことりは新たに3年生となり、μ'sは「伝説のスクールアイドル」として人々に語られる存在となった。
μ'sはアメリカでライブを開催し、その名は海を越えて知られるようになる。
やがて、「全国のスクールアイドルを集められるだけ集めた大規模イベント」が開かれ、数え切れないほどのユニットが参加した。
あの日のことりたちの姿は、会場の全員に“何か”を残した。
「SUNNY DAY SONG」「僕たちはひとつの光」──
その歌は、かつての町のイベントと同じように、無数の人の心を繋げた。
μ'sが解散しても、ことりは喫茶店でのアルバイトを辞めなかった。
朝は学校へ行き、午後は制服のままエプロンをつけ、カウンターに立つ。
「ことりちゃん、今日はチーズケーキの在庫、多めに作っておいたよ」
「わぁ〜い! それじゃあ、ことりが宣伝してきますね♪」
町にはまた穏やかな日々が戻っていた。
しかし、光蔵は少しずつ、自分の中に“ある感情”が芽吹いていることに気づき始めていた。
それが“恋”なのか、“憧れ”なのか、あるいは“救い”なのか。
まだ、はっきりとはわからなかった。
ただ──彼女の声が近くにある日々が、何よりも温かく、尊かった。
喫茶店の定休日、外は穏やかな晴天。
今日は仕入れの帳簿整理のために店を開けていたが、ことりも「ちょっとだけ」と手伝いに来てくれていた。
「この請求書、ここで合ってますか?」
「うん、ばっちり。ほんとに助かるよ、ことりちゃんは」
カウンター越しにそう言うと、ことりはふふっと笑って、小さく得意げに胸を張る。
「えへへ、ことり、お店のこと少しずつ覚えてきましたからね~♪」
いつもの会話。いつもの距離。
それなのに、今日のことりの前髪がいつもより少し下がっていて、頬にかかる影がやけに綺麗だった。
(……いや、なにを考えてるんだ、僕は)
光蔵は視線を逸らすように、マグカップを手にした。
「……あ、マスターさん、今日はことりがラテアートやってもいいですか?」
「うん、いいよ。今日はお客さんも来ないし、練習しておいて損はない」
ことりは嬉しそうに手を洗い、エプロンを結び直すと真剣な顔でスチームミルクと格闘しはじめた。
カウンターの向こうで、ふいに指先を火傷しそうになって「きゃっ」と声をあげる彼女に、思わず光蔵が手を伸ばした。
「大丈夫かい?」
手を取ったその瞬間、ぴたりと時間が止まるような感覚があった。
「あ……え、あの、大丈夫ですっ! ちょっと熱かっただけで!」
ことりは慌てて手を引っ込めた。頬がほんのり赤くなっている。
「そうかい……火傷には気をつけてね」
「は、はいっ……」
ふたりの間に、ちいさな沈黙が落ちる。
そしてことりは、ふと肩の力を抜いて微笑んだ。
「でも、手が冷たくて、ちょっと気持ちよかったです。……マスターさんの手、やっぱり落ち着くなぁ」
「……それは、褒め言葉かな?」
「もちろんっ」
お互いに、目を見て笑い合う。
その笑顔の奥に、どこか言葉にできないものが潜んでいると気づいていながら──それを口に出すのは、まだ少し先のように思えた。
日曜の午前。喫茶店は定休日。
普段なら仕入れや掃除で終わってしまう日だったが、今日は少しだけ違った。
「マスターさん、今日は……その、一緒に近くのお店を見てまわりませんか?」
ことりがそう声をかけたのは、数日前。
新しいメニューに合う食器や雑貨を見たいという話題から自然に発展した誘いだった。
「うん、それもいいね。たまには気分転換もしないと」
2人は並んで歩きながら、駅前のこぢんまりとした雑貨店に立ち寄った。
木目調の棚には、温かみのある陶器やカトラリーが並んでいる。
「このカップ、喫茶店に合いそうだと思いませんか?」
「たしかに。色味が落ち着いていて、うちの照明と相性良さそうだ」
ことりが小さなスプーンを手に取りながら、ふと笑う。
「マスターさんって、選ぶときの目がすごく真剣で……ちょっと職人さんみたいです」
「ふふ、長くやってるとね。物の“空気”で選ぶようになるんだよ」
「“空気”かぁ……なんか、素敵な言い方……」
2人の間に、ふわっとした空気が流れる。
昼を過ぎた頃、小さなパン屋で焼きたてのバゲットとクロワッサンを買い、商店街の隅にある公園のベンチに腰を下ろした。
「……ふふっ、なんか、ピクニックみたいですね」
「そうだね。思えばこうして“外で一緒に食事”って、珍しいかもしれない」
「たしかに……喫茶店ばかりでしたからね」
ことりがクロワッサンをかじって、ふと風に髪がなびく。
その横顔に、一瞬、若かりし日のラナが重なった。
──いや、違う。これはことりというひとりの少女の、確かな“今”だ。
「……?」
ことりが見つめ返す。
「どうかしました?」
「いや……似合ってるな、と思って」
「え……な、なにがですか?」
「こういう、のんびりした時間がね。君には似合ってる」
「……っ、も、もう……急に言うと、びっくりするじゃないですか……」
でもその声は、怒っていなかった。
むしろ少しだけ照れたように、バゲットの陰に顔を隠すようにしていた。
「ちょっと寄ってもいいですか?」
ことりの提案で、帰り際に駅前のゲームセンターへ。
目当ては──クレーンゲーム。
「わぁ~♪ このマスコット、ことり、前から欲しかったんですよね……!」
「なら、チャレンジしてみるといい」
「……あ、でもマスターさん、すごく上手でしたよね? こっそり手伝ってくれません?」
「はは、それじゃ“こっそり”にはならないな」
2人で、機械に顔を寄せて、真剣にアームの角度を見定める。
隣のブースの学生カップルのように、自然に肩が並ぶ。
「取れたっ!」
歓声をあげたことりが、ぬいぐるみを胸に抱きしめる。
「今日一日、ほんとに楽しかったです。ありがとうございます、マスターさん」
「こちらこそ。……君がいてくれると、いろんな景色が違って見える」
「……それ、ずるいですよ」
「何が?」
「……なんでもないです」
風が吹き抜けて、ほんの少しだけ距離が縮まった気がした。
“デート”と呼ぶには遠すぎて、“ただの買い物”と呼ぶには近すぎる。
でも確かに、心の中には小さな種が芽吹いていた。
店内の照明はほとんど落とし、カウンター奥の作業灯だけが、光蔵の顔を柔らかく照らしていた。
窓の外には、商店街の街灯がぽつぽつと灯り、静けさの中にどこか温もりがある。
洗い物を終えたところで、スマートフォンが軽く震えた。
画面を見ると、“黒木紗枝”の名が浮かんでいた。
通話に出ると、いつもの明るい声が響いた。
「もしもし、才川さん。今、大丈夫ですか?」
「ああ、もちろん。ちょうど閉店作業が終わったところだよ」
「よかった~。今日、お店の前を通ったら、なんだか楽しそうに歩いてるところ見かけたので」
「……ああ、ことりちゃんと一緒に雑貨を見に行ってね。店の備品選びを手伝ってもらってたんだ」
「やっぱり。……というか、今日の才川さん、なんだか声が若返ってません?」
光蔵は少しだけ驚き、けれどすぐに笑った。
「そうかい? あまり自覚はないけど……気を張ってたのが、少しほぐれたのかもしれないね」
「ふふ、いや、ぜったいありますよ、何か。なんだろうな〜、たとえば……可愛い子とお散歩デートとか?」
「それは……そういうつもりでは……」
「ふふっ、そういうところですよ。そこが才川さんの、良いとこです」
光蔵は苦笑しながらも、口元がゆるむのを止められなかった。
電話を終え、片付けの手を再び動かし始めた時。
ポン、とLINEの通知が鳴った。
《マスターさん、今日はありがとうございました!》
ことりからのメッセージだった。
丁寧な文面、でもどこかに“はしゃいだ空気”が滲んでいるのが、彼にはすぐにわかった。
《こちらこそ。今日は君のおかげで、良い気分転換になったよ。クロワッサン、おいしかったね》
送ってから、光蔵は「あっ」と声を漏らした。
“気分転換になったよ”のあとに、よが2つ付いており、”気分転換になったよよよ”になっていた。
さらに“クロワッサン”を“クロサッワン”と誤入力してしまっていた。
すぐに訂正を打とうとしたところで、先にことりから返信が届いた。
《気分転換になったよよよ←この言い方かわいいです~!
クロサッワン……ふふっ。マスターさん、たまに抜けてるとこ、ことり好きかもです♪》
光蔵はスマホを見つめながら、自然と笑ってしまった。
(好きかも……ねぇ。いやいや、これは……)
けれど内心、そんなやりとりが心の奥にじんわりと染みていた。
《ことりちゃんの文章も、やっぱり可愛らしいね。読んでて和むよ》
送ったメッセージに、すぐ既読がつき、間もなく返ってきた返信は、
《えへへ、じゃあまた明日も、和ませられるように頑張りますっ!》
その一文を見た時、光蔵はどこか不思議な、でも心地のいい気持ちに包まれた。
(こんな時間が……続いてくれたら、いいな)
そう思ってしまった自分に、少し驚いていた。
ゴールデンウィーク明けの平日。
喫茶店「古都の風音」は、いつもより少し賑やかだった。
入口のドアベルが鳴り、顔なじみの少女たちがわいわいと入ってくる。
「こんにちはー!」
「マスターさん、お邪魔しまーす!」
μ’sのメンバー、穂乃果・海未・凛・花陽・真姫が勢ぞろい。
客足が落ち着いた午後の時間帯、店内にはやわらかな笑い声が広がっていた。
ことりは先に来ていて、光蔵にひと声かけてから奥の更衣室へと向かっていた。
数分後、扉が開く音がして、ことりが姿を現した。
光蔵はカウンター越しに自然と振り返り──そして、固まった。
白と黒を基調とした、ふわりと広がるスカート。レースをあしらった、柔らかなメイド服。
「っ……!」
思わず手に持っていたクロスを落としそうになる光蔵に、真っ先に反応したのは凛だった。
「マスターさん、今日は“メイドの日”らしいにゃ!」
ぱちん、と指を鳴らして得意げに笑う。
「ことりちゃん、今日は“ミナリンスキーさん”の格好なんですよ~! 可愛いですよねぇ……!」
花陽も、いつになく興奮気味に目を輝かせている。
「ちょ、ちょっと花陽ちゃん……! そんな言い方したら恥ずかしいよ~!」
照れたようにスカートの裾をつまんでモジモジすることり。
その様子がまた、愛らしさに拍車をかけていた。
(……似合いすぎる)
光蔵は静かに深呼吸をひとつし、落ち着いたトーンで答えた。
「いや、本当に……似合ってるよ。少し眩しいくらいに、ね」
ことりの頬が、ほんのり桜色に染まる。
それからの時間は、笑いと甘い香りに包まれていた。
穂乃果と真姫がカフェラテの泡アートに挑戦してうまくいかず、
海未が「なぜ私まで巻き込まれるのですか……!」と小さく嘆きながらも微笑み、花陽はことりのケーキを一口ごとに目を潤ませながら味わっていた。
そして凛は、ことりと並んで自撮りをパシャリ。
「#ミナリンスキー復活!」
そのタグがついた写真は、その日のうちに音ノ木坂の間でプチバズを起こすことになる。
夕方になり、μ'sのメンバーたちはそれぞれ部活や用事へと散っていった。
喫茶店に残ったのは、光蔵とことりだけ。
制服姿から再びメイド服に戻ったまま、ことりはテーブルの片付けをしていた。
そしてふと、光蔵の方に目を向けて、小さく問いかける。
「ねぇ、マスターさん……ことり、似合ってましたか?」
柔らかく、でもどこか真剣な眼差しだった。
光蔵はその瞳をまっすぐ見つめ返し、微笑む。
「うん。とても、よく似合ってた。……自分でも気づいてるんじゃないかな?」
「うぅ……マスターさん、そうやって褒めるの、恥ずかしいです……」
ことりは少し顔を逸らしながら、それでも嬉しそうに笑った。
そして、くるりとカウンターの内側に入り、エプロンを結び直すと、おどけたように言った。
「ご主人様。今日は、私が何かお作りしますよ?」
「ほう、それは頼もしいね。じゃあ……甘くて、元気が出るやつをお願いしようかな」
「承りましたっ♪」
ことりは、くるくると調理場を動き始めた。
その姿を、光蔵はカップを手にしながら、ふっと目を細めて見つめていた。
(……“可愛い”という言葉だけじゃ、足りないな)
けれど、それ以上の言葉が見つからなくて、今日も光蔵は黙って、彼女の背中を見守っていた。
夜、ことりはベッドに入り、部屋の明かりを落とす。
天井の影がふんわり揺れている。薄手のカーテン越しに、夜風がそよいでいた。
(今日は、たのしかったなぁ……)
ふわっと胸があたたかくなる。
思い出すのは、喫茶店「古都の風音」で過ごした一日。
制服から着替えた“あの瞬間”──
扉を開けた時の、マスターさんの顔が、ちょっと忘れられない。
(わ……って、一瞬だけ目がまんまるになって……そのあと、すごく優しい顔で)
「いや、本当に……似合ってるよ。少し眩しいくらいに、ね」
「……ずるいです……マスターさん……」
布団の中で枕に顔をうずめて、小さく転がる。
(そんなこと、あんなトーンで言われたら……ドキッとしちゃうに決まってる……)
いつも落ち着いていて、どこか影を背負っているような人。
でも、今日のマスターさんは少しだけ柔らかくて、なんだか近かった。
みんなが帰った後、メイド服のまま店内に残っていたとき。
自分から「似合ってますか?」
なんて聞くなんて、今思えばけっこう大胆だったかもしれない。
でも──
「とても、よく似合ってた。……自分でも気づいてるんじゃないかな?」
(あれって、もしかして……からかわれたのかな? それとも……)
ことりは枕を抱きしめたまま、足先をくるくると布団の中で回した。
(……うぅぅ……思い出すたびに顔が熱くなる~)
手元のスマホに通知が届いた。
《マスターさん:明日、雨かもしれないから気をつけておいで》
その一文だけで、ことりの口元に笑みが浮かぶ。
《ありがとうございますっ。マスターさんも傘忘れないでくださいね☔》
そして、すこし迷ったあとに──
《今日、似合ってたって言ってくれて……すっごく嬉しかったです。
でも、ああいうのって、普段のことりとはちょっと違うから……また、いつか“いつものことり”でも、似合うって思ってもらえたら、嬉しいです》
送ったあと、しばらくスマホを握ったまま、ごろりと仰向けになる。
返事はすぐには来なかった。
でも、それでも良かった。今はただ、この“気持ち”をちゃんと見つめてみたくなったから。
(なんなんだろう、これ……)
(マスターさんと話してると、ほっとするのに、ちょっとだけ胸がぎゅってなる。
でもそれが嫌じゃなくて……むしろ、ずっと感じていたい気がする)
静かな夜。
ことりは、少しだけ大人びた表情で、そっと目を閉じた。
(この気持ち……まだ名前はつけなくていいかな。もう少しだけ、こうしてそばにいられるなら)
7月半ば、音ノ木坂は夏休みに入り、ことりは数日間アルバイトを休んでいた。
久しぶりに制服姿で喫茶店の扉を開けたことりに、光蔵はほっとしたような笑みを浮かべる。
「おかえり、ことりちゃん」
「ただいまです、マスターさん♪」
ことりはさっそくエプロンを手に取り、カウンターの中へと入ってくる。
「μ'sのみんなで、真姫ちゃんの別荘に行ってきたんです。もう、すっごく楽しくて!」
「ほう、リゾートというやつかい?」
「はいっ♪ いっぱいごはん食べて、海で泳いで、夜は花火して……」
ことりがスマートフォンを取り出し、写真を見せてくれる。
みんなでバーベキューしているもの、笑い合っているもの──そして。
「これ、マスターさんにも見せたくて……」
画面をスライドした瞬間、現れたのはことりの水着姿だった。
淡いブルーの水着に、白いビーチハット。髪は緩く巻かれ、笑顔がまぶしい。
思わず言葉を失う光蔵。
ことりはまったく悪びれた様子もなく、「えへへ、似合ってますか?」と笑う。
(……なんて無防備で、なんて、綺麗で……)
胸の奥に生まれたのは、ほんの一瞬のときめきと、その直後の自己嫌悪だった。
(……いけない。僕は……)
夜、喫茶店を閉めた後、光蔵は部屋の明かりを落としてベッドに入る。
しかし、まぶたを閉じるとすぐに──脳裏に“あの場所”が浮かぶ。
硝煙。焼け焦げた鉄。血と泥。
銃声、怒声、泣き声、そして──仲間の絶命。
「やめろ……そこじゃない……っ!」
夢の中で叫びながら、光蔵は跳ねるように目を覚ました。
額には汗がにじみ、肩で息をしている。
枕元の写真立てには、若き日のラナと彼の両親の写真が並んでいる。
(……幸せを感じたその日に、これだ。まったく、皮肉なものだな)
光蔵は目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を整えた。
(これは──過去からの戒めだ。あの子を傷つけてはいけない)
蝉の鳴き声が遠くに聞こえる昼下がり。
喫茶店の扉がゆっくりと開き、ひとりの年老いた外国人男性が入ってきた。
やや腰が曲がり、長旅の疲れを感じさせる足取り。
しかし、その目は静かに光蔵を捉えていた。
「……コウゾウ」
その声に、光蔵は一瞬、目を見開いた。
「……ハリム……?」
ことりがカウンターの奥で静かに様子をうかがう中、2人は握手を交わし、しばらく母国語で言葉を交わした。
やがて、ハリムはゆっくりとした口調でことりに向かって言う。
「……コトリさん……あなた、やさしい。ここ、あたたかい」
「あ……ありがとうございます」
「コウゾウ……ムカシ、とても、つらい少年だった。たたかって……まもった。でも……かなしかった」
そして、ハリムは懐から一枚の写真を取り出した。
そこには、銃を構え、油と泥にまみれた2人の少年兵の姿。
まだ13〜14歳にも見える、あどけなさの残る光蔵と、笑顔を浮かべるハリム少年が写っていた。
ことりは、そっと手を口元に当てた。
(これが……マスターさんの過去……?)
光蔵は黙って、写真を見つめる。
「最後に……君の顔を見たくて、来た。……ボク、もう、時間ない。キモチ、伝えたくて」
光蔵は紅茶を淹れ、彼の前に差し出す。
「ありがとう。来てくれて、本当に、ありがとう」
その声は、僅かに震えていた。
夜。
合宿から帰ってきて間もない夏の日々は、忙しいながらも楽しかった。
けれど、今日は違った。
スマホの電源を切ったあと、ことりはベッドの上に座り、膝を抱えていた。
涼しくなってきた夜風が、カーテンをふわりと揺らしている。
(マスターさん……あんな顔、初めて見た)
午後、あの異国の老人がやって来たときのこと。
最初は、少しだけ驚いただけだった。
でも彼が光蔵に呼びかけ、写真を差し出したあたりから──空気が変わった。
(あれ……マスターさん?)
その目はどこか遠くを見つめていた。
いつものように柔らかく微笑む人じゃなくて──
まるで、“もう一人の光蔵さん”がそこにいるみたいだった。
泥だらけの少年。
幼さの残る顔に、銃を持った手。
隣で笑っていたのは、まだ幼い頃のハリムさん──そして、間違いなくあれはマスターさんだった。
(……そんな、ことが……)
ことりはその場で何も言えなかった。
ただ胸の奥が、ぎゅっと痛くなるのを感じていた。
(マスターさん……あんな過去を、ずっと抱えて生きてきたんだ)
ことりはゆっくりと膝を抱えたまま、天井を見上げた。
(ことりには想像もできないくらい、つらいこと、いっぱいあったんだろうな)
(いつも優しくて、静かに笑ってくれるマスターさん……でも、本当は)
何も知らずに、無邪気に笑いかけてきた自分の姿が、頭に浮かぶ。
(ことり……軽かったかな? 無神経だったかな……?)
(でも、知れてよかったって、思うの。だって──)
(もしマスターさんがずっとひとりでその過去を抱えたまま、何も言わずにいたら、ことりは……)
(そんなの、悲しいよ)
目の奥が熱くなる。
マスターさんは、いつも誰かの“幸せ”のために生きている。
でも、じゃあ、マスターさん自身の“幸せ”って何なんだろう?
ことりはベッドサイドのスマホを手に取り、
今日、光蔵から届いていた一通の短いメッセージを見つめる。
《ありがとう、今日も助かったよ。暑いから、無理はしないようにね》
──たったそれだけ。
けれど、その文章の向こうに、
彼がどんな想いで、あの席に座り、紅茶を差し出していたのか。
どんな風に、その過去と向き合ってきたのか。
ほんの少しだけ、わかったような気がした。
(ことりね、マスターさんの過去を変えることはできないけど)
(それでも、“これから”の時間を……ちょっとでも優しくできたらって思う)
自分でも、何を考えてるのかまだよくわからない。
でも、確かなのは――
彼のことが、とても大切だということだった。