※この作品はR-18です。

ラブライブ! ~春待つ喫茶店で~   作:彼処舐ノ助嗅過

5 / 10
光蔵は悩んでいた。苦しんでいた。
ことりのことが好きだと自覚したが、それを伝えてよいものかどうか……。
ことりもまた、光蔵への想いに悩むのだった。

※シリーズ全体
本作は、作者の解釈と妄想を多分に含みます。原作のキャラクターたちと別の時間を生きる、もう一つの物語としてお楽しみいただければ幸いです。

・本作は、アニメ版『ラブライブ!』をベースにしておりますが、二次創作作品につき、独自の時空・設定を含みます。
・アニメ本編との時間軸・設定のズレや、キャラクター解釈に差異が生じる可能性がございます。
・原作キャラクターに加え、オリジナル男性キャラクターが登場し、主人公となっています。
・男性キャラクターとの恋愛要素を含みますので、苦手な方はご注意ください。
・原作尊重を心がけておりますが、キャラ崩壊・設定改変・解釈違いなどを感じる場合がございます。
・ストーリー後半には、**18歳以上推奨の描写(R-18要素)**が含まれます。閲覧の際はご注意ください。
・本作はフィクションであり、実在の人物・団体・作品とは一切関係ありません。


#5 縮む距離、踏み出せない一歩

「……最近、マスターさん、少し変わった気がする」

 ある放課後。

 μ'sの後輩メンバーたちと軽く集まった帰り道、ことりはぽつりと呟いた。

「変わったって? 優しさが減ったとか?」

 と、花陽が不思議そうに問い返す。

「ううん……そうじゃなくて……なんか、“ちょっとだけ遠くなった”気がして……」

 

 

 シャワーを終えたあと、髪を乾かしながら、ことりは今日のやり取りを思い返していた。

(なんか……前よりも、マスターさんの視線が優しくて、でも少しだけ“寂しそう”)

(前は、もっとまっすぐに目を見てくれてた気がするのに、今は……時々、目を逸らされる)

 それは、拒絶とは違う。

 むしろ、何かをこらえるような、不器用な“距離の取り方”。

(ことり……なにかしちゃったかな?)

 けれど、胸の奥に広がるのは、不安ではなかった。

 代わりに、静かであたたかいものがじわりと満ちていく。

(“この時間が終わってしまったら、どうしよう”って……思ってる)

(それって、もしかして――)

 ことりはハッと息を呑み、自分の胸に手を当てる。

 高鳴る鼓動。

 耳の奥で鳴る、自分の心音。

 

(……ことり、マスターさんのこと、こんなふうに考えてたんだ)

(ただ優しくしてくれる人、じゃない。

 もっと、近くにいたい。もっと、知ってほしい)

 

 

 ある夕方。

 閉店間際の喫茶店。片付けを終えたことりが、カウンターの中でエプロンを外していた。

「マスターさん、今日もありがとうございました!」

 そう言って、にこっと笑いながらしゃがみ込んだ瞬間――

 背中があらわになった。ワンピースの襟元がずり落ちて、うなじから肩にかけての柔肌が見えた。

「……っ」

 光蔵は反射的に視線を逸らす。けれど、脳裏には焼きついて離れなかった。

(見てはいけない)

(でも……どうしてこんなに、愛おしく、抱きしめたいとまで……)

「マスターさん、顔赤いですよ? もしかして、今度はマスターさんが風邪……?」

「な、なんでもないよ。ただの……ちょっと、暑くてね……」

 ごまかした笑顔の裏で、心臓の鼓動がやまない。

 

(僕は、この子にどこまで惹かれてしまっているんだ)

(もう……守りたいだけじゃない。触れたい、抱きしめたい、近くにいたい――)

 理性が叫び、記憶が責める。

(それでも、彼女を前にすると……心が、揺れてしまう)

 

 

 その夜、ことりは自室のノートにペンを走らせていた。

「マスターさんへのお返しプラン」

1.休日にお誘いして、商店街のスイーツ巡り!

2.ことり特製の手作りスコーンを持参!

3.おそろいのガラス細工に、ひとつ小さな仲間を追加して渡す!

(※マスターさん、驚くかなぁ……えへへ)

 ことりは、ほっぺたを赤らめながら、ノートを閉じた。

(ことり、ちゃんと伝えたい)

(“ありがとう”も、“大好き”も、全部。まだ言葉にできないけど……

 マスターさんが少しでも嬉しくなってくれたら、それだけで……)

 

 窓の外には、ゆっくりと秋の風。

 その風の先に、“ふたりだけの時間”をことりはそっと願っていた。

 

 

 その日は、雲ひとつない夏の空だった。

 待ち合わせ場所に現れたことりは、白いブラウスと薄いミントグリーンのスカート。

 どこか涼やかで、けれど見慣れたエプロン姿とは違う、私服の彼女に光蔵は一瞬、言葉を失いそうになる。

「お待たせしました、マスターさんっ♪」

「いや、こちらこそ。ずいぶん爽やかだね……まるで風そのものだ」

「……っ、もう……ふふっ」

 ことりは照れながら笑い、その表情に光蔵はまた、胸の奥が軽く震えるのを感じた。

 

 

 商店街でスイーツを巡りながら、ことりは満足そうに頬をほころばせる。

「マスターさんと一緒だと、全部の味が美味しく感じちゃいます~」

「それは食べすぎへの言い訳じゃないかな?」

「う……するどい……!」

 ふたりで笑い合いながらベンチに腰掛けて休んでいた時。

 ことりが、ふと光蔵の肩に寄りかかるようにして一言呟いた。

 

「……マスターさんの匂い、落ち着くなぁ……」

 その瞬間、光蔵の胸が跳ねた。

「……って、ご、ごめんなさい! 急に変なこと言っちゃって!」

「いや、そんなことは……。むしろ、そう思ってもらえて嬉しいよ」

(落ち着いて……落ち着いてくれ、才川光蔵。これは、喜ぶ場面じゃない)

 内心、理性が悲鳴を上げていた。

 

 

 帰り道、ふたりが歩いていた通りには、いつになく人混みが広がっていた。

「ことりちゃん、どうやらこの辺りでお祭りがあるらしい」

「ええっ、本当ですか?」

 どこか嬉しそうなことりに、光蔵は微笑んでこう言った。

「はぐれちゃわないように……僕の手、掴んでて」

 ふわりと差し出された大人の手。

 優しさと力強さが混ざったその手を、ことりはおそるおそる握る。

 そのぬくもりに、頬がぽっと赤くなるのを、自分でも止められなかった。

 

 

 焼き鳥を片手に歩く光蔵。

 その隣でクレープを頬張ることり。

「マスターさん、チョコバナナ、すっごく似合いますよ!」

「褒めてるのか、からかってるのか……」

「ふふっ、内緒です♪」

 小さな公園のベンチに腰掛けて、並んで夜空を見上げていると。

 

 ――ドンッ。

 夜空を貫くように、花火があがった。

「わぁ……」

 ことりが声を上げる。

 その横顔を、光蔵は静かに見つめていた。

 いつからだろう。

 彼女の笑顔を見るだけで、胸の奥が切なくなるようになったのは。

(こんなふうに、並んでいられる時間が永遠に続けば……)

 

 一方、ことりもまた。

 花火の光に照らされる光蔵の横顔を、そっと盗み見る。

 その落ち着いたまなざし、包むような佇まい、どこか寂しげな影――すべてが胸に残る。

(……マスターさんのそば、ことり……居心地よすぎて、ダメになっちゃうかも)

 ふたりの視線が交差し、花火が夜空に咲いた。

 

 

 花火が終わったあとも、ふたりはしばらく黙ってベンチに座っていた。

 遠くで聞こえる祭囃子が、もう終わりの時を告げているようだった。

「……そろそろ、帰らないとね」

 光蔵がゆっくりと立ち上がり、ことりに手を差し出す。

 ことりは小さく頷き、その手をまたそっと握った。

 帰り道。

 人混みがまばらになった住宅街のなか、ふたりの足音だけが静かに響く。

 

「今日は……すっごく楽しかったです」

 ことりがぽつりと口にする。

「僕もだよ。こんな時間をもらえるなんて思ってなかった。ありがとう」

 ふたりはいつも通りの距離感――

 けれど、その“沈黙”の質が、今までとは違っていた。

 

 そして、ことりの家の近くにたどり着いた時。

「じゃあ……また明日、ですね」

「うん。明日、いつもの時間に」

「……おやすみなさい、マスターさん」

 ことりは、ほんの少しだけ迷ったあと――

 光蔵の袖を指先で、そっとつまんだ。

「……ありがとう」

 それだけ言って、彼女は小走りで玄関へ向かった。

 振り返らずに扉を開け、だけどその耳までが、ほんのり赤く染まっていた。

 

 

 光蔵は帰宅後、ソファに背を預け、しばらく天井を見つめていた。

(……駄目だ。心が浮き立っている)

(あの子の笑顔、声、ぬくもり……ひとつひとつに心が揺れる)

 胸の奥に、暖かく、そして切ない感情が芽吹いている。

(ことりちゃんに、そんな気持ちで触れようとしている僕は……本当に彼女を大切にしていると言えるのか)

 目を閉じると、ラナの声が浮かぶ。

 

「コウゾウ、あなたは、生きて。けれど、誰かを苦しめて生きてはいけない」

(……わかってる。ラナ)

(僕は……自分の過去だけじゃない。彼女の未来をも、背負える人間じゃない)

 その夜、光蔵はそっと胸元を押さえた。

 指先に残る、ことりの手の感触が、優しくて、罪だった。

(これ以上は……踏み込んでは、いけない)

(彼女を好きになってしまったら――それは、彼女の時間を壊すことになるかもしれない)

それでも、心は知っている。

今日のことりの微笑みが、どれほど自分を救ってくれていたかを。

そしてきっと――ことりの方も、同じ夜を胸に抱いて、眠りについたのだった。

 

 

 その日も、喫茶店「春のそよ風」には変わらぬ穏やかな空気が流れていた。

 だけど――ことりの胸には、小さなざらつきが残っていた。

 数日前のデート。

 寄り添い、笑い、手を繋いで、同じ花火を見上げた夜。

 だけどそれ以来、マスターさんの態度がほんの少しだけ――“変わった”。

「ことりちゃん、今日のまかないはこれだよ。お疲れさま」

「あっ、ありがとうございます。……あの、マスターさんは……一緒に食べないんですか?」

「僕は奥で少し書類を片付けてくるよ。ゆっくり食べてね」

 笑顔だった。声も優しかった。

 でもその優しさは、まるで“ひとつ分厚いガラス”を隔てたような距離を感じさせた。

(なんだろう……前みたいに目を見てくれない)

(マスターさん、なんで……ちょっとだけ遠くなったの?)

 

 

 夜、喫茶店の奥でひとり、光蔵は静かに拳を握っていた。

(避けてるんじゃない。……守ろうとしているんだ)

(彼女を近くに置いて、期待させるようなことをしてはいけない)

 けれど――ふとした瞬間に思い出すのだ。

 あの日の手の温もり。隣で笑った声。袖をつまんでくれた、小さな手。

(……こんなにも、君が恋しくなるなんて)

 

 彼女が厨房で鼻歌を歌っているだけで、心が和らぐ。

 髪を結ぶ仕草を見ただけで、抱きしめたい衝動が胸を叩く。

「駄目だ……これじゃ、ただの愚かな年寄りじゃないか」

 額を押さえてうつむく。

 彼女を避けるたびに、自分の中の「ことり」への想いが色濃くなる。

(もう、手遅れなのかもしれない……)

 

 

 

 ことり、絵里、にこの三人は、ちょっと遅めのおやつタイムにお気に入りのカフェを訪れていた。

 ことりの表情は、どこかぼんやりとしていて、スプーンをくるくる回していた。

「……ことり? ケーキ、そんなに眺めてて食べる気あるの?」

 にこが苦笑まじりに声をかけた。

「あっ、ご、ごめん! 気付かなかった~……」

「珍しいわね、ことりがそんなに上の空なんて……いや、そうでもないかしら?」

 絵里が紅茶を口に運びながら、やさしく問いかける。

 

「なにか、あったの?」

「ううん……その……マスターさんのこと、なんだけど……」

 にこが即座に身を乗り出す。

「マスター!? あの才川さん!? やっぱり何かあるでしょー!」

「にこ、ちょっと落ち着いて」

 絵里がなだめながら、ことりに向き直る。

 

「彼がどうかしたの?」

「……最近、ちょっとだけ……距離、感じるんです」

 スプーンをそっとテーブルに置いて、ことりは唇を噛んだ。

「この前、一緒にお祭りに行ったんです。……すごく、優しくて、嬉しくて……」

「うんうん」

「でも、そのあとのお店では……なんだか、避けられてる気がして」

 

 にこは眉をひそめた。

「それ、絶対向こうが意識しちゃってるパターンよ」

「え?」

「ことりも、もう気づいてるでしょ? マスターさんのこと、“好き”なんだって」

「……っ」

 ことりは一瞬、呼吸が止まった気がした。

 でも――その瞬間、なぜか心がすとんと軽くなった。

(そうか……ことり、“マスターさんが好き”なんだ……)

 改めて認めたその想いは、恥ずかしさではなく、温かさで胸を満たしていた。

 

「……うん、そうかもしれない……ことり、好き、なのかも」

 その言葉を聞いて、絵里が静かに微笑む。

「なら、ことりらしく、伝えてあげればいいのよ。言葉じゃなくてもいい。行動でも、気持ちは伝わるものよ」

「うんっ……ありがと、絵里ちゃん、にこちゃん……!」

 ことりの瞳に、決意の光が宿った。

 

 

 その夜、光蔵は閉店後の喫茶店でひとり、洗い物も終えた手を止め、携帯電話を眺めていた。

 躊躇いが、指先に宿る。

 けれど、その迷いを飲み込むように、彼は一人の連絡先を押した。

 ――黒木紗枝。

 

「はい、もしもし? ……才川さん?」

「……遅くにすまない、黒木くん。まだ起きていたかな?」

「もちろんです。……というか、久しぶりに才川さんの方から電話が来て、ちょっとビックリしました」

「……少し、話せるかい?」

 

 雨が止んだばかりの夜道、人気のない小さな公園。

 紗枝はすぐに近くのベンチに現れ、傘をたたみながら光蔵の隣に腰かけた。

「なにか……あったんですね?」

「……ああ」

 光蔵は、深く息を吐いた。

 

「僕は今、とても浅ましいことをしているのかもしれない」

「……ことりちゃんのこと、ですね」

「……やっぱり、気づいていたか」

「ふふ、才川さんってば、分かりやすいところもありますから。優しいけど、ちょっと不器用で」

 

 光蔵は乾いた笑みをこぼす。

「距離を置こうとしている。……それなのに、どうしても心が、彼女の方へ向かってしまうんだ。

 彼女の声を聞くたび、笑顔を見るたび、手を伸ばしたくなる……」

「……苦しいですか?」

「……苦しいよ」

 静かな夜の風が、木の葉を揺らした。

「でも僕は彼女の未来を、僕のような男で縛ってしまいたくない。

 あんなに明るくて、優しくて、まっすぐな子を……」

 

 紗枝は少し黙って、そして静かに呟いた。

「……でも、才川さん。彼女が“あなたを選びたい”と思ったとき、

 その未来を否定するのは、誰ですか?」

「……っ」

「才川さんが、彼女の幸せを願って距離を置いているのは分かります。でも、その選択が彼女を一番悲しませることだって、あるんですよ」

 光蔵は、目を伏せたまま言葉を探していた。

 紗枝は続ける。

「ことりちゃん、すごく素敵な子です。それに……彼女、才川さんのことが本当に大好きですよ。もう、見てて分かりますもん」

 その言葉に、胸が痛む。

「……だから、諦めないでください。“守る”っていうのは、離れることじゃなくて、隣にいることでもあるんですから」

 

 

 光蔵は喫茶店へ戻る道すがら、空を見上げた。

(君の“隣”に立てるなら――僕は、どれほどの罪を背負えばいいだろう)

 雨上がりの夜空には、雲のすき間から、星がいくつか顔をのぞかせていた。

 

 

 いつもより少しだけ遅れて訪れた放課後。

 制服姿のことりが、カバンを抱えたまま、喫茶店の裏口に立っていた。

 ゆっくりとドアを開けると、奥のカウンターで準備をしていた光蔵が気付いて顔を上げる。

「ことりちゃん。どうしたの? 今日はバイトの予定、なかったよね」

「え、えっと……その……ちょっと、お話があって……」

 ことりの声は、かすかに揺れていた。

 けれどその目は、真っ直ぐに光蔵を見つめていた。

 

 店内の灯りは少し落としてあり、温かい間接照明だけがふたりを照らしていた。

 カウンターに並んで座り、ことりは膝の上で手をぎゅっと握りしめた。

「マスターさん、ことり……誘いたいところがあるんです」

「誘いたい、ところ?」

「はいっ。あの、もしよかったら……前にも一緒に行ったガラス細工のお店、行きませんか? えへへ、そのお店で、週末に“体験ワークショップ”があるらしくて。ことり、ちょっとだけ興味があって……」

 ことりは、小さく深呼吸したあと、少しだけ頬を赤くして続けた。

「……よかったら、マスターさんも一緒に……行きませんか?」

 光蔵はその申し出に、驚いたように目を瞬かせた。

 けれど、やがて小さく笑みをこぼす。

「……いいのかい? 僕なんかと一緒で」

「いいんですっ。マスターさんじゃなきゃ、意味がないから……」

 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 

 抑えようとしてきた感情。距離を取ろうと決めた理性。

 けれど――彼女のまっすぐな想いが、それらをそっと溶かしていく。

「……わかった。予定を空けておくよ。ことりちゃんと行けるなら、それはきっと、楽しい時間になる」

「やったぁ……!」

 ことりは小さくガッツポーズをして、にっこりと笑った。

 

 

 ことりは、まだこの想いを全部言葉にはできない。

 だけど、こうして少しずつ、光蔵と同じ景色を見て、同じものを作って、同じ気持ちを分かち合いたいと思った。

 一方の光蔵も、心のどこかで思いはじめていた。

(もし……この子と過ごす日々が、彼女にとって良い記憶になるのなら)

(ほんの少しぐらい、僕も“幸せ”を感じていいのだろうか)

 

 

 「お待たせしました~っ♪」

 明るい声とともに現れたことりは、淡いパステルイエローのワンピースに、麦わら帽子をかぶっていた。

 どこか夏の風に溶け込むような、自然で、優しい姿。

「いえ、僕も今来たところだよ。……とても似合ってるね」

「えっ……そ、そんな……えへへ……ありがとうございますっ」

 嬉しそうに帽子のつばを押さえるその仕草に、光蔵はまた胸をくすぐられるような感覚を覚えた。

 

 

 小さなガラス工房の扉を開けると、どこか甘い香りと、工具の金属音が出迎えてくれた。

「ここが、ことりちゃんが言ってた場所だね」

「はいっ。前にマスターさんにあげたガラス細工も、ここで買ったんです」

 案内されたテーブルには、カラフルなビーズガラスや器具がずらりと並んでいた。

 ふたりは並んで椅子に座り、説明を受けながら、各々の作品づくりに取りかかる。

 

 ことりは、猫と小鳥のペアのモチーフをガラスで再現しようとしていた。

 光蔵は、なんとなく選んだ四つ葉のクローバーをモチーフに、透明な土台に細い模様を重ねていた。

「……ことりちゃん、手がすごく繊細だね」

「えっ、そんな……でも、こういう細かい作業、結構好きなんです」

 そう言いながら、ことりがすっと手を伸ばして、光蔵の手元を覗き込んだ。

 距離は、ほんの十数センチ。

 ふわりと香る、彼女の髪の香り。

 耳の後ろの髪が揺れて、光蔵の胸がまた熱を帯びる。

 

「マスターさんのも、すごく優しい色合い……。これ、誰かにあげるんですか?」

「……ああ、うん。今日の記念に、作ってみようかなと思って」

「じゃあ、ことりのと……お揃いですねっ」

「ふふ、それも悪くない」

 

 

 完成したペアのガラス細工は、淡いブルーと白を基調にした柔らかな作品だった。

 ことりの作った小鳥と猫、そして光蔵のクローバー。

 帰り道、ことりは包みを両手で抱きしめながら、ふとつぶやいた。

「マスターさん……今日、すっごく楽しかったです。なんか……ずっと、忘れられない一日になりそう……」

 光蔵は、その言葉に胸がきゅっと締めつけられた。

(忘れられない一日……)

(それはきっと、僕の方だ)

 

 

「ことりちゃん。今日は、ありがとう」

「いえ、こちらこそ……あのっ、また……今度、一緒に行きませんか? 次は……」

 ことりが言いかけたその瞬間、信号が青に変わり、人々が動き出した。

 けれど、彼女の目は、まっすぐに光蔵を見つめていた。

(次は、もっとマスターさんに喜んでほしい)

(もっと、隣にいられるようになりたい)

 ふたりの“記念”が手のひらに灯った今日。

 その作品は、恋心のかけらを閉じ込めた、小さな宝石のようだった。

 

 

 夜。

 カウンター奥、明かりを落とした喫茶店の厨房で、光蔵はひとり、机の上に置かれた小さなガラス細工を見つめていた。

 淡いブルーのクローバーと、小鳥のモチーフ。

 ふたりで作った、世界にひとつの記念品。

 その表面が、ほのかな光を宿して揺れていた。

(これが、あの子との思い出――)

 思い出すのは、笑顔。声。隣を歩く足音。

 そして、ふとした仕草のひとつひとつ。

(……可愛い、なんて、思ってしまった)

(でもこれは“可愛い”なんて簡単な言葉じゃ済まない)

 静かな部屋に、時計の針の音だけが響く。

 

「……好きになってしまったんだな」

 光蔵は、小さく呟いた。

 まるで、それを認めた瞬間に心の蓋が開いてしまったように、胸がきしんだ。

 

(けれど、それでも――)

(僕は、この気持ちを伝えてはいけない。君の未来を曇らせるような存在であっては、ならないんだ)

 それでも、彼女の声が、表情が、仕草が――

 日に日に胸に焼きついて、離れていかない。

「……会いたいな、ことりちゃん」

 小さくつぶやいたその言葉に、誰よりも自分が驚いていた。

 

 

 その夜。

 ことりはベッドに入ったあと、スマホを胸に置いて天井を見上げていた。

 ガラス細工の包みは、机の上に飾ってある。

 隣に並べられた、小さなクマのぬいぐるみ。

「……マスターさん……」

 心の中に、あのとき手を繋いだ時のあたたかさが残っていた。

(今日も優しかった。穏やかで、少し寂しそうな笑顔だった)

(でも――あの一緒に過ごす時間が、ことりには宝物だった)

 指先が、スマホの画面に触れる。

《ことり:マスターさん、もう寝ちゃいましたか?》

 

 数分間、返事は来ない。

 でもそれでいい。ただ、声が聞きたかっただけ。

 枕に顔をうずめる。

「マスターさん……そばにいてくれたらなぁ……」

 そう言ったあと、ぎゅっと自分を抱きしめた。

(こんな気持ち、どうやって伝えたらいいんだろう)

 ふたりは、まだ言葉にはしていない。

 けれど心は、確実に、交わる道を歩きはじめている。

 

 

 閉店後、誰もいない静かな店内。

 テーブルを片付けながら、光蔵は立ち止まっていた。

 頭の中には、昼間のことりの笑顔が残っている。

 そしてあの、ふとした時に見せる“不安げな視線”も――。

(こんなにも、彼女と過ごす時間が心地よくなっている自分が、正直こわい)

(彼女の気持ちを、僕は……ちゃんと見ている。分かってる)

 けれど、それを“受け取る勇気”が、まだ持てずにいた。

(あの子の笑顔を、曇らせてしまうんじゃないか)

 

(……それでも)

 手元のガラス細工にそっと触れ、光蔵は小さく息を吸い込む。

(君と過ごす時間を、守りたい)

(そして……今度は、僕の方から、君に歩み寄ってみたい)

 

 

 週の半ば。放課後、ことりはそっと光蔵のもとへメッセージを送った。

《ことり:今度の土曜日、もしお休みでしたら……水族館か遊園地、行きませんか?✨》

 返事はすぐに届いた。

《光蔵:いいね。ぜひ、行こう》

 文字だけなのに、画面越しにあたたかさが滲んでくる。

 ことりの胸は、自然と弾んでいた。

 

 

 最初に向かったのは、水族館。

 青い照明の下、ゆらゆらと泳ぐ魚たちを眺めながら、ことりは何度も光蔵の横顔を盗み見ていた。

「……マスターさん、クラゲ見てる時の顔、優しいですね」

「え、そうかい?」

「なんか、光に溶けちゃいそうな感じで……すごく、素敵でした」

 続いて遊園地では、観覧車とお化け屋敷を体験。

「うひゃあぁあっ……!」

 ことりが光蔵の腕にしがみつく。

 

「……大丈夫かな?」

 そう言いながらも光蔵の方がドキッとしていた。

「うぅん、だ、大丈夫です。ちょっとだけ、怖かっただけ……!」

 照れながらも、ずっと腕に残る体温。

 光蔵の頬も、ほんのりと紅く染まっていた。

 

 最後にふたりは映画館へ。

 選んだのは、心あたたまるヒューマンドラマ。

 上映中、ふとした瞬間、ことりの指が光蔵の指先に触れた。

(この時間が、終わらなければいいのに)

 ことりはそう思いながら、黙ってそのまま指先を預けた。

 光蔵もまた、静かに指を重ね返す。

 

 

「……今日も、素敵な一日でした」

 夕暮れの駅前。

 ことりが小さく笑ってそう言ったとき、光蔵はゆっくりと、言葉を紡いだ。

「今度は、僕から誘わせてほしい。君と、また出かけたい」

 ことりの目が見開かれる。

「……えへへ、はいっ! 喜んで!」

 その返事に、光蔵の胸の奥が、そっとほどけていく。

 

 

 その夜、光蔵は静まり返った店内の片隅で、一人ワイングラスを傾けていた。

 部屋に灯るのは、控えめなランプの明かりだけ。

 音もなく、グラスの中の赤が、まるで彼の内側を映すように揺れていた。

 

 今日一日を振り返る。

 

 水族館で見た、小さなクラゲに目を輝かせる彼女。

 遊園地で、怖さを隠しきれずに寄り添ってきた、柔らかな体温。

 映画館でそっと触れた指先。手を重ね返した時、彼女が見せた驚きと嬉しさが入り混じった表情。

 

(……あんな無垢な笑顔、僕は、いままで見たことがあっただろうか)

(そして……僕は、それを、誰よりも近くで見たいと思ってしまった)

 ガラス細工の隣に置かれた、小さな紙袋。

 ことりが今日の帰り際にそっと渡してくれた手作りのクッキー。

 リボンには、金の小さなチャームがついていた。四葉のクローバーだった。

 

(……これほどまでに、心を動かされている)

 グラスの中身をひとくち、喉に流し込む。

 それは罪悪感とも、幸福ともつかない、淡く切実な想いだった。

(抗えなくなってきている。――ことりちゃんに)

(僕は……このまま、想ってしまっていいのか)

 そう自問するたび、脳裏には、彼女の声と笑顔が浮かぶのだった。

 

 

 柔らかな陽光がカーテン越しに差し込む午後。

 ことりの部屋には、穂乃果と海未が集まり、ふたりは床に座ってティーカップを手にくつろいでいた。

「でででっ、どうだったの!? 昨日のデートっ!」

 穂乃果がクッションに身を乗り出す。

「穂乃果、ちょっと落ち着いてください。……でも、私も気になります」

「えへへ……ふたりとも、そんなに詰め寄らないで~」

 ことりは少し照れながら、紅茶の湯気の向こうで頬を染めた。

「……すっごく、楽しかったよ。水族館も、遊園地も、映画も……全部全部」

 

「全部!? ことりちゃん、フルコースじゃん!」

 

「……その、途中で……観覧車も乗って……。ことり、ちょっと怖くて、マスターさんの腕に……くっついちゃって」

 その瞬間、穂乃果と海未の顔が同時に紅潮する。

「ひゃーっ!」「……なっ……!」

「でも、マスターさん……嫌がらなかったの。むしろ、ちゃんと……支えてくれて……」

 ことりの瞳がふわりと緩む。

「いつもはすごく落ち着いてて、ちょっと距離あるのに。昨日は、ずっと優しくて、そばにいてくれて……。なんだか、ずっと……ことりのこと、大事にしてくれてる感じがしたんだ……」

「……それってもう、恋じゃない?」

 穂乃果が真顔で言った。

「恋……」

「ことり、たしかに年齢とか、立場とか、色々あるかもしれないけど……」

 海未がゆっくりとことりを見つめる。

「その人を大切に思って、そばにいたいと願うなら、それは……ちゃんとした恋です」

「……うん」

 ことりは、カップを両手で包み込むようにして、ぽつりとつぶやく。

 

「ことりね、あの人と一緒にいると、未来のこと、考えたくなっちゃうの」

「未来?」

「いつかまた、あの人が誰かと手を繋いで歩く時、その隣にいたいなって……。変わっちゃうかもしれない景色でも、マスターさんと一緒に見ていたいって……そう思うの」

 言葉にして、気づいた。

 これが“恋”じゃなくて、なんだろう。

 

 

 ことりがいつものように店の裏口から入ると、光蔵がカウンター越しに声をかけてきた。

「ことりちゃん、ちょっとだけいいかな?」

「はいっ、なんでしょう?」

 少しだけ緊張して頷いたその瞬間――。

「今度の土曜、予定が空いていたら、付き合ってもらえないかな。……少し遠出しよう」

 ことりは一瞬目を丸くし、すぐに頬を紅く染めて小さく跳ねたように笑った。

「はいっ! よろこんで……!」

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