ことりのことが好きだと自覚したが、それを伝えてよいものかどうか……。
ことりもまた、光蔵への想いに悩むのだった。
※シリーズ全体
本作は、作者の解釈と妄想を多分に含みます。原作のキャラクターたちと別の時間を生きる、もう一つの物語としてお楽しみいただければ幸いです。
・本作は、アニメ版『ラブライブ!』をベースにしておりますが、二次創作作品につき、独自の時空・設定を含みます。
・アニメ本編との時間軸・設定のズレや、キャラクター解釈に差異が生じる可能性がございます。
・原作キャラクターに加え、オリジナル男性キャラクターが登場し、主人公となっています。
・男性キャラクターとの恋愛要素を含みますので、苦手な方はご注意ください。
・原作尊重を心がけておりますが、キャラ崩壊・設定改変・解釈違いなどを感じる場合がございます。
・ストーリー後半には、**18歳以上推奨の描写(R-18要素)**が含まれます。閲覧の際はご注意ください。
・本作はフィクションであり、実在の人物・団体・作品とは一切関係ありません。
「……最近、マスターさん、少し変わった気がする」
ある放課後。
μ'sの後輩メンバーたちと軽く集まった帰り道、ことりはぽつりと呟いた。
「変わったって? 優しさが減ったとか?」
と、花陽が不思議そうに問い返す。
「ううん……そうじゃなくて……なんか、“ちょっとだけ遠くなった”気がして……」
シャワーを終えたあと、髪を乾かしながら、ことりは今日のやり取りを思い返していた。
(なんか……前よりも、マスターさんの視線が優しくて、でも少しだけ“寂しそう”)
(前は、もっとまっすぐに目を見てくれてた気がするのに、今は……時々、目を逸らされる)
それは、拒絶とは違う。
むしろ、何かをこらえるような、不器用な“距離の取り方”。
(ことり……なにかしちゃったかな?)
けれど、胸の奥に広がるのは、不安ではなかった。
代わりに、静かであたたかいものがじわりと満ちていく。
(“この時間が終わってしまったら、どうしよう”って……思ってる)
(それって、もしかして――)
ことりはハッと息を呑み、自分の胸に手を当てる。
高鳴る鼓動。
耳の奥で鳴る、自分の心音。
(……ことり、マスターさんのこと、こんなふうに考えてたんだ)
(ただ優しくしてくれる人、じゃない。
もっと、近くにいたい。もっと、知ってほしい)
ある夕方。
閉店間際の喫茶店。片付けを終えたことりが、カウンターの中でエプロンを外していた。
「マスターさん、今日もありがとうございました!」
そう言って、にこっと笑いながらしゃがみ込んだ瞬間――
背中があらわになった。ワンピースの襟元がずり落ちて、うなじから肩にかけての柔肌が見えた。
「……っ」
光蔵は反射的に視線を逸らす。けれど、脳裏には焼きついて離れなかった。
(見てはいけない)
(でも……どうしてこんなに、愛おしく、抱きしめたいとまで……)
「マスターさん、顔赤いですよ? もしかして、今度はマスターさんが風邪……?」
「な、なんでもないよ。ただの……ちょっと、暑くてね……」
ごまかした笑顔の裏で、心臓の鼓動がやまない。
(僕は、この子にどこまで惹かれてしまっているんだ)
(もう……守りたいだけじゃない。触れたい、抱きしめたい、近くにいたい――)
理性が叫び、記憶が責める。
(それでも、彼女を前にすると……心が、揺れてしまう)
その夜、ことりは自室のノートにペンを走らせていた。
「マスターさんへのお返しプラン」
1.休日にお誘いして、商店街のスイーツ巡り!
2.ことり特製の手作りスコーンを持参!
3.おそろいのガラス細工に、ひとつ小さな仲間を追加して渡す!
(※マスターさん、驚くかなぁ……えへへ)
ことりは、ほっぺたを赤らめながら、ノートを閉じた。
(ことり、ちゃんと伝えたい)
(“ありがとう”も、“大好き”も、全部。まだ言葉にできないけど……
マスターさんが少しでも嬉しくなってくれたら、それだけで……)
窓の外には、ゆっくりと秋の風。
その風の先に、“ふたりだけの時間”をことりはそっと願っていた。
その日は、雲ひとつない夏の空だった。
待ち合わせ場所に現れたことりは、白いブラウスと薄いミントグリーンのスカート。
どこか涼やかで、けれど見慣れたエプロン姿とは違う、私服の彼女に光蔵は一瞬、言葉を失いそうになる。
「お待たせしました、マスターさんっ♪」
「いや、こちらこそ。ずいぶん爽やかだね……まるで風そのものだ」
「……っ、もう……ふふっ」
ことりは照れながら笑い、その表情に光蔵はまた、胸の奥が軽く震えるのを感じた。
商店街でスイーツを巡りながら、ことりは満足そうに頬をほころばせる。
「マスターさんと一緒だと、全部の味が美味しく感じちゃいます~」
「それは食べすぎへの言い訳じゃないかな?」
「う……するどい……!」
ふたりで笑い合いながらベンチに腰掛けて休んでいた時。
ことりが、ふと光蔵の肩に寄りかかるようにして一言呟いた。
「……マスターさんの匂い、落ち着くなぁ……」
その瞬間、光蔵の胸が跳ねた。
「……って、ご、ごめんなさい! 急に変なこと言っちゃって!」
「いや、そんなことは……。むしろ、そう思ってもらえて嬉しいよ」
(落ち着いて……落ち着いてくれ、才川光蔵。これは、喜ぶ場面じゃない)
内心、理性が悲鳴を上げていた。
帰り道、ふたりが歩いていた通りには、いつになく人混みが広がっていた。
「ことりちゃん、どうやらこの辺りでお祭りがあるらしい」
「ええっ、本当ですか?」
どこか嬉しそうなことりに、光蔵は微笑んでこう言った。
「はぐれちゃわないように……僕の手、掴んでて」
ふわりと差し出された大人の手。
優しさと力強さが混ざったその手を、ことりはおそるおそる握る。
そのぬくもりに、頬がぽっと赤くなるのを、自分でも止められなかった。
焼き鳥を片手に歩く光蔵。
その隣でクレープを頬張ることり。
「マスターさん、チョコバナナ、すっごく似合いますよ!」
「褒めてるのか、からかってるのか……」
「ふふっ、内緒です♪」
小さな公園のベンチに腰掛けて、並んで夜空を見上げていると。
――ドンッ。
夜空を貫くように、花火があがった。
「わぁ……」
ことりが声を上げる。
その横顔を、光蔵は静かに見つめていた。
いつからだろう。
彼女の笑顔を見るだけで、胸の奥が切なくなるようになったのは。
(こんなふうに、並んでいられる時間が永遠に続けば……)
一方、ことりもまた。
花火の光に照らされる光蔵の横顔を、そっと盗み見る。
その落ち着いたまなざし、包むような佇まい、どこか寂しげな影――すべてが胸に残る。
(……マスターさんのそば、ことり……居心地よすぎて、ダメになっちゃうかも)
ふたりの視線が交差し、花火が夜空に咲いた。
花火が終わったあとも、ふたりはしばらく黙ってベンチに座っていた。
遠くで聞こえる祭囃子が、もう終わりの時を告げているようだった。
「……そろそろ、帰らないとね」
光蔵がゆっくりと立ち上がり、ことりに手を差し出す。
ことりは小さく頷き、その手をまたそっと握った。
帰り道。
人混みがまばらになった住宅街のなか、ふたりの足音だけが静かに響く。
「今日は……すっごく楽しかったです」
ことりがぽつりと口にする。
「僕もだよ。こんな時間をもらえるなんて思ってなかった。ありがとう」
ふたりはいつも通りの距離感――
けれど、その“沈黙”の質が、今までとは違っていた。
そして、ことりの家の近くにたどり着いた時。
「じゃあ……また明日、ですね」
「うん。明日、いつもの時間に」
「……おやすみなさい、マスターさん」
ことりは、ほんの少しだけ迷ったあと――
光蔵の袖を指先で、そっとつまんだ。
「……ありがとう」
それだけ言って、彼女は小走りで玄関へ向かった。
振り返らずに扉を開け、だけどその耳までが、ほんのり赤く染まっていた。
光蔵は帰宅後、ソファに背を預け、しばらく天井を見つめていた。
(……駄目だ。心が浮き立っている)
(あの子の笑顔、声、ぬくもり……ひとつひとつに心が揺れる)
胸の奥に、暖かく、そして切ない感情が芽吹いている。
(ことりちゃんに、そんな気持ちで触れようとしている僕は……本当に彼女を大切にしていると言えるのか)
目を閉じると、ラナの声が浮かぶ。
「コウゾウ、あなたは、生きて。けれど、誰かを苦しめて生きてはいけない」
(……わかってる。ラナ)
(僕は……自分の過去だけじゃない。彼女の未来をも、背負える人間じゃない)
その夜、光蔵はそっと胸元を押さえた。
指先に残る、ことりの手の感触が、優しくて、罪だった。
(これ以上は……踏み込んでは、いけない)
(彼女を好きになってしまったら――それは、彼女の時間を壊すことになるかもしれない)
それでも、心は知っている。
今日のことりの微笑みが、どれほど自分を救ってくれていたかを。
そしてきっと――ことりの方も、同じ夜を胸に抱いて、眠りについたのだった。
その日も、喫茶店「春のそよ風」には変わらぬ穏やかな空気が流れていた。
だけど――ことりの胸には、小さなざらつきが残っていた。
数日前のデート。
寄り添い、笑い、手を繋いで、同じ花火を見上げた夜。
だけどそれ以来、マスターさんの態度がほんの少しだけ――“変わった”。
「ことりちゃん、今日のまかないはこれだよ。お疲れさま」
「あっ、ありがとうございます。……あの、マスターさんは……一緒に食べないんですか?」
「僕は奥で少し書類を片付けてくるよ。ゆっくり食べてね」
笑顔だった。声も優しかった。
でもその優しさは、まるで“ひとつ分厚いガラス”を隔てたような距離を感じさせた。
(なんだろう……前みたいに目を見てくれない)
(マスターさん、なんで……ちょっとだけ遠くなったの?)
夜、喫茶店の奥でひとり、光蔵は静かに拳を握っていた。
(避けてるんじゃない。……守ろうとしているんだ)
(彼女を近くに置いて、期待させるようなことをしてはいけない)
けれど――ふとした瞬間に思い出すのだ。
あの日の手の温もり。隣で笑った声。袖をつまんでくれた、小さな手。
(……こんなにも、君が恋しくなるなんて)
彼女が厨房で鼻歌を歌っているだけで、心が和らぐ。
髪を結ぶ仕草を見ただけで、抱きしめたい衝動が胸を叩く。
「駄目だ……これじゃ、ただの愚かな年寄りじゃないか」
額を押さえてうつむく。
彼女を避けるたびに、自分の中の「ことり」への想いが色濃くなる。
(もう、手遅れなのかもしれない……)
ことり、絵里、にこの三人は、ちょっと遅めのおやつタイムにお気に入りのカフェを訪れていた。
ことりの表情は、どこかぼんやりとしていて、スプーンをくるくる回していた。
「……ことり? ケーキ、そんなに眺めてて食べる気あるの?」
にこが苦笑まじりに声をかけた。
「あっ、ご、ごめん! 気付かなかった~……」
「珍しいわね、ことりがそんなに上の空なんて……いや、そうでもないかしら?」
絵里が紅茶を口に運びながら、やさしく問いかける。
「なにか、あったの?」
「ううん……その……マスターさんのこと、なんだけど……」
にこが即座に身を乗り出す。
「マスター!? あの才川さん!? やっぱり何かあるでしょー!」
「にこ、ちょっと落ち着いて」
絵里がなだめながら、ことりに向き直る。
「彼がどうかしたの?」
「……最近、ちょっとだけ……距離、感じるんです」
スプーンをそっとテーブルに置いて、ことりは唇を噛んだ。
「この前、一緒にお祭りに行ったんです。……すごく、優しくて、嬉しくて……」
「うんうん」
「でも、そのあとのお店では……なんだか、避けられてる気がして」
にこは眉をひそめた。
「それ、絶対向こうが意識しちゃってるパターンよ」
「え?」
「ことりも、もう気づいてるでしょ? マスターさんのこと、“好き”なんだって」
「……っ」
ことりは一瞬、呼吸が止まった気がした。
でも――その瞬間、なぜか心がすとんと軽くなった。
(そうか……ことり、“マスターさんが好き”なんだ……)
改めて認めたその想いは、恥ずかしさではなく、温かさで胸を満たしていた。
「……うん、そうかもしれない……ことり、好き、なのかも」
その言葉を聞いて、絵里が静かに微笑む。
「なら、ことりらしく、伝えてあげればいいのよ。言葉じゃなくてもいい。行動でも、気持ちは伝わるものよ」
「うんっ……ありがと、絵里ちゃん、にこちゃん……!」
ことりの瞳に、決意の光が宿った。
その夜、光蔵は閉店後の喫茶店でひとり、洗い物も終えた手を止め、携帯電話を眺めていた。
躊躇いが、指先に宿る。
けれど、その迷いを飲み込むように、彼は一人の連絡先を押した。
――黒木紗枝。
「はい、もしもし? ……才川さん?」
「……遅くにすまない、黒木くん。まだ起きていたかな?」
「もちろんです。……というか、久しぶりに才川さんの方から電話が来て、ちょっとビックリしました」
「……少し、話せるかい?」
雨が止んだばかりの夜道、人気のない小さな公園。
紗枝はすぐに近くのベンチに現れ、傘をたたみながら光蔵の隣に腰かけた。
「なにか……あったんですね?」
「……ああ」
光蔵は、深く息を吐いた。
「僕は今、とても浅ましいことをしているのかもしれない」
「……ことりちゃんのこと、ですね」
「……やっぱり、気づいていたか」
「ふふ、才川さんってば、分かりやすいところもありますから。優しいけど、ちょっと不器用で」
光蔵は乾いた笑みをこぼす。
「距離を置こうとしている。……それなのに、どうしても心が、彼女の方へ向かってしまうんだ。
彼女の声を聞くたび、笑顔を見るたび、手を伸ばしたくなる……」
「……苦しいですか?」
「……苦しいよ」
静かな夜の風が、木の葉を揺らした。
「でも僕は彼女の未来を、僕のような男で縛ってしまいたくない。
あんなに明るくて、優しくて、まっすぐな子を……」
紗枝は少し黙って、そして静かに呟いた。
「……でも、才川さん。彼女が“あなたを選びたい”と思ったとき、
その未来を否定するのは、誰ですか?」
「……っ」
「才川さんが、彼女の幸せを願って距離を置いているのは分かります。でも、その選択が彼女を一番悲しませることだって、あるんですよ」
光蔵は、目を伏せたまま言葉を探していた。
紗枝は続ける。
「ことりちゃん、すごく素敵な子です。それに……彼女、才川さんのことが本当に大好きですよ。もう、見てて分かりますもん」
その言葉に、胸が痛む。
「……だから、諦めないでください。“守る”っていうのは、離れることじゃなくて、隣にいることでもあるんですから」
光蔵は喫茶店へ戻る道すがら、空を見上げた。
(君の“隣”に立てるなら――僕は、どれほどの罪を背負えばいいだろう)
雨上がりの夜空には、雲のすき間から、星がいくつか顔をのぞかせていた。
いつもより少しだけ遅れて訪れた放課後。
制服姿のことりが、カバンを抱えたまま、喫茶店の裏口に立っていた。
ゆっくりとドアを開けると、奥のカウンターで準備をしていた光蔵が気付いて顔を上げる。
「ことりちゃん。どうしたの? 今日はバイトの予定、なかったよね」
「え、えっと……その……ちょっと、お話があって……」
ことりの声は、かすかに揺れていた。
けれどその目は、真っ直ぐに光蔵を見つめていた。
店内の灯りは少し落としてあり、温かい間接照明だけがふたりを照らしていた。
カウンターに並んで座り、ことりは膝の上で手をぎゅっと握りしめた。
「マスターさん、ことり……誘いたいところがあるんです」
「誘いたい、ところ?」
「はいっ。あの、もしよかったら……前にも一緒に行ったガラス細工のお店、行きませんか? えへへ、そのお店で、週末に“体験ワークショップ”があるらしくて。ことり、ちょっとだけ興味があって……」
ことりは、小さく深呼吸したあと、少しだけ頬を赤くして続けた。
「……よかったら、マスターさんも一緒に……行きませんか?」
光蔵はその申し出に、驚いたように目を瞬かせた。
けれど、やがて小さく笑みをこぼす。
「……いいのかい? 僕なんかと一緒で」
「いいんですっ。マスターさんじゃなきゃ、意味がないから……」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
抑えようとしてきた感情。距離を取ろうと決めた理性。
けれど――彼女のまっすぐな想いが、それらをそっと溶かしていく。
「……わかった。予定を空けておくよ。ことりちゃんと行けるなら、それはきっと、楽しい時間になる」
「やったぁ……!」
ことりは小さくガッツポーズをして、にっこりと笑った。
ことりは、まだこの想いを全部言葉にはできない。
だけど、こうして少しずつ、光蔵と同じ景色を見て、同じものを作って、同じ気持ちを分かち合いたいと思った。
一方の光蔵も、心のどこかで思いはじめていた。
(もし……この子と過ごす日々が、彼女にとって良い記憶になるのなら)
(ほんの少しぐらい、僕も“幸せ”を感じていいのだろうか)
「お待たせしました~っ♪」
明るい声とともに現れたことりは、淡いパステルイエローのワンピースに、麦わら帽子をかぶっていた。
どこか夏の風に溶け込むような、自然で、優しい姿。
「いえ、僕も今来たところだよ。……とても似合ってるね」
「えっ……そ、そんな……えへへ……ありがとうございますっ」
嬉しそうに帽子のつばを押さえるその仕草に、光蔵はまた胸をくすぐられるような感覚を覚えた。
小さなガラス工房の扉を開けると、どこか甘い香りと、工具の金属音が出迎えてくれた。
「ここが、ことりちゃんが言ってた場所だね」
「はいっ。前にマスターさんにあげたガラス細工も、ここで買ったんです」
案内されたテーブルには、カラフルなビーズガラスや器具がずらりと並んでいた。
ふたりは並んで椅子に座り、説明を受けながら、各々の作品づくりに取りかかる。
ことりは、猫と小鳥のペアのモチーフをガラスで再現しようとしていた。
光蔵は、なんとなく選んだ四つ葉のクローバーをモチーフに、透明な土台に細い模様を重ねていた。
「……ことりちゃん、手がすごく繊細だね」
「えっ、そんな……でも、こういう細かい作業、結構好きなんです」
そう言いながら、ことりがすっと手を伸ばして、光蔵の手元を覗き込んだ。
距離は、ほんの十数センチ。
ふわりと香る、彼女の髪の香り。
耳の後ろの髪が揺れて、光蔵の胸がまた熱を帯びる。
「マスターさんのも、すごく優しい色合い……。これ、誰かにあげるんですか?」
「……ああ、うん。今日の記念に、作ってみようかなと思って」
「じゃあ、ことりのと……お揃いですねっ」
「ふふ、それも悪くない」
完成したペアのガラス細工は、淡いブルーと白を基調にした柔らかな作品だった。
ことりの作った小鳥と猫、そして光蔵のクローバー。
帰り道、ことりは包みを両手で抱きしめながら、ふとつぶやいた。
「マスターさん……今日、すっごく楽しかったです。なんか……ずっと、忘れられない一日になりそう……」
光蔵は、その言葉に胸がきゅっと締めつけられた。
(忘れられない一日……)
(それはきっと、僕の方だ)
「ことりちゃん。今日は、ありがとう」
「いえ、こちらこそ……あのっ、また……今度、一緒に行きませんか? 次は……」
ことりが言いかけたその瞬間、信号が青に変わり、人々が動き出した。
けれど、彼女の目は、まっすぐに光蔵を見つめていた。
(次は、もっとマスターさんに喜んでほしい)
(もっと、隣にいられるようになりたい)
ふたりの“記念”が手のひらに灯った今日。
その作品は、恋心のかけらを閉じ込めた、小さな宝石のようだった。
夜。
カウンター奥、明かりを落とした喫茶店の厨房で、光蔵はひとり、机の上に置かれた小さなガラス細工を見つめていた。
淡いブルーのクローバーと、小鳥のモチーフ。
ふたりで作った、世界にひとつの記念品。
その表面が、ほのかな光を宿して揺れていた。
(これが、あの子との思い出――)
思い出すのは、笑顔。声。隣を歩く足音。
そして、ふとした仕草のひとつひとつ。
(……可愛い、なんて、思ってしまった)
(でもこれは“可愛い”なんて簡単な言葉じゃ済まない)
静かな部屋に、時計の針の音だけが響く。
「……好きになってしまったんだな」
光蔵は、小さく呟いた。
まるで、それを認めた瞬間に心の蓋が開いてしまったように、胸がきしんだ。
(けれど、それでも――)
(僕は、この気持ちを伝えてはいけない。君の未来を曇らせるような存在であっては、ならないんだ)
それでも、彼女の声が、表情が、仕草が――
日に日に胸に焼きついて、離れていかない。
「……会いたいな、ことりちゃん」
小さくつぶやいたその言葉に、誰よりも自分が驚いていた。
その夜。
ことりはベッドに入ったあと、スマホを胸に置いて天井を見上げていた。
ガラス細工の包みは、机の上に飾ってある。
隣に並べられた、小さなクマのぬいぐるみ。
「……マスターさん……」
心の中に、あのとき手を繋いだ時のあたたかさが残っていた。
(今日も優しかった。穏やかで、少し寂しそうな笑顔だった)
(でも――あの一緒に過ごす時間が、ことりには宝物だった)
指先が、スマホの画面に触れる。
《ことり:マスターさん、もう寝ちゃいましたか?》
数分間、返事は来ない。
でもそれでいい。ただ、声が聞きたかっただけ。
枕に顔をうずめる。
「マスターさん……そばにいてくれたらなぁ……」
そう言ったあと、ぎゅっと自分を抱きしめた。
(こんな気持ち、どうやって伝えたらいいんだろう)
ふたりは、まだ言葉にはしていない。
けれど心は、確実に、交わる道を歩きはじめている。
閉店後、誰もいない静かな店内。
テーブルを片付けながら、光蔵は立ち止まっていた。
頭の中には、昼間のことりの笑顔が残っている。
そしてあの、ふとした時に見せる“不安げな視線”も――。
(こんなにも、彼女と過ごす時間が心地よくなっている自分が、正直こわい)
(彼女の気持ちを、僕は……ちゃんと見ている。分かってる)
けれど、それを“受け取る勇気”が、まだ持てずにいた。
(あの子の笑顔を、曇らせてしまうんじゃないか)
(……それでも)
手元のガラス細工にそっと触れ、光蔵は小さく息を吸い込む。
(君と過ごす時間を、守りたい)
(そして……今度は、僕の方から、君に歩み寄ってみたい)
週の半ば。放課後、ことりはそっと光蔵のもとへメッセージを送った。
《ことり:今度の土曜日、もしお休みでしたら……水族館か遊園地、行きませんか?✨》
返事はすぐに届いた。
《光蔵:いいね。ぜひ、行こう》
文字だけなのに、画面越しにあたたかさが滲んでくる。
ことりの胸は、自然と弾んでいた。
最初に向かったのは、水族館。
青い照明の下、ゆらゆらと泳ぐ魚たちを眺めながら、ことりは何度も光蔵の横顔を盗み見ていた。
「……マスターさん、クラゲ見てる時の顔、優しいですね」
「え、そうかい?」
「なんか、光に溶けちゃいそうな感じで……すごく、素敵でした」
続いて遊園地では、観覧車とお化け屋敷を体験。
「うひゃあぁあっ……!」
ことりが光蔵の腕にしがみつく。
「……大丈夫かな?」
そう言いながらも光蔵の方がドキッとしていた。
「うぅん、だ、大丈夫です。ちょっとだけ、怖かっただけ……!」
照れながらも、ずっと腕に残る体温。
光蔵の頬も、ほんのりと紅く染まっていた。
最後にふたりは映画館へ。
選んだのは、心あたたまるヒューマンドラマ。
上映中、ふとした瞬間、ことりの指が光蔵の指先に触れた。
(この時間が、終わらなければいいのに)
ことりはそう思いながら、黙ってそのまま指先を預けた。
光蔵もまた、静かに指を重ね返す。
「……今日も、素敵な一日でした」
夕暮れの駅前。
ことりが小さく笑ってそう言ったとき、光蔵はゆっくりと、言葉を紡いだ。
「今度は、僕から誘わせてほしい。君と、また出かけたい」
ことりの目が見開かれる。
「……えへへ、はいっ! 喜んで!」
その返事に、光蔵の胸の奥が、そっとほどけていく。
その夜、光蔵は静まり返った店内の片隅で、一人ワイングラスを傾けていた。
部屋に灯るのは、控えめなランプの明かりだけ。
音もなく、グラスの中の赤が、まるで彼の内側を映すように揺れていた。
今日一日を振り返る。
水族館で見た、小さなクラゲに目を輝かせる彼女。
遊園地で、怖さを隠しきれずに寄り添ってきた、柔らかな体温。
映画館でそっと触れた指先。手を重ね返した時、彼女が見せた驚きと嬉しさが入り混じった表情。
(……あんな無垢な笑顔、僕は、いままで見たことがあっただろうか)
(そして……僕は、それを、誰よりも近くで見たいと思ってしまった)
ガラス細工の隣に置かれた、小さな紙袋。
ことりが今日の帰り際にそっと渡してくれた手作りのクッキー。
リボンには、金の小さなチャームがついていた。四葉のクローバーだった。
(……これほどまでに、心を動かされている)
グラスの中身をひとくち、喉に流し込む。
それは罪悪感とも、幸福ともつかない、淡く切実な想いだった。
(抗えなくなってきている。――ことりちゃんに)
(僕は……このまま、想ってしまっていいのか)
そう自問するたび、脳裏には、彼女の声と笑顔が浮かぶのだった。
柔らかな陽光がカーテン越しに差し込む午後。
ことりの部屋には、穂乃果と海未が集まり、ふたりは床に座ってティーカップを手にくつろいでいた。
「でででっ、どうだったの!? 昨日のデートっ!」
穂乃果がクッションに身を乗り出す。
「穂乃果、ちょっと落ち着いてください。……でも、私も気になります」
「えへへ……ふたりとも、そんなに詰め寄らないで~」
ことりは少し照れながら、紅茶の湯気の向こうで頬を染めた。
「……すっごく、楽しかったよ。水族館も、遊園地も、映画も……全部全部」
「全部!? ことりちゃん、フルコースじゃん!」
「……その、途中で……観覧車も乗って……。ことり、ちょっと怖くて、マスターさんの腕に……くっついちゃって」
その瞬間、穂乃果と海未の顔が同時に紅潮する。
「ひゃーっ!」「……なっ……!」
「でも、マスターさん……嫌がらなかったの。むしろ、ちゃんと……支えてくれて……」
ことりの瞳がふわりと緩む。
「いつもはすごく落ち着いてて、ちょっと距離あるのに。昨日は、ずっと優しくて、そばにいてくれて……。なんだか、ずっと……ことりのこと、大事にしてくれてる感じがしたんだ……」
「……それってもう、恋じゃない?」
穂乃果が真顔で言った。
「恋……」
「ことり、たしかに年齢とか、立場とか、色々あるかもしれないけど……」
海未がゆっくりとことりを見つめる。
「その人を大切に思って、そばにいたいと願うなら、それは……ちゃんとした恋です」
「……うん」
ことりは、カップを両手で包み込むようにして、ぽつりとつぶやく。
「ことりね、あの人と一緒にいると、未来のこと、考えたくなっちゃうの」
「未来?」
「いつかまた、あの人が誰かと手を繋いで歩く時、その隣にいたいなって……。変わっちゃうかもしれない景色でも、マスターさんと一緒に見ていたいって……そう思うの」
言葉にして、気づいた。
これが“恋”じゃなくて、なんだろう。
ことりがいつものように店の裏口から入ると、光蔵がカウンター越しに声をかけてきた。
「ことりちゃん、ちょっとだけいいかな?」
「はいっ、なんでしょう?」
少しだけ緊張して頷いたその瞬間――。
「今度の土曜、予定が空いていたら、付き合ってもらえないかな。……少し遠出しよう」
ことりは一瞬目を丸くし、すぐに頬を紅く染めて小さく跳ねたように笑った。
「はいっ! よろこんで……!」