高校卒業まで、寄り添い続ける。
※シリーズ全体
・本作品はアニメ版『ラブライブ!サンシャイン!!』を原作とした二次創作です。
・アニメ本編との時間軸のズレや、独自の設定・キャラクター解釈を含んでおります。
・原作を尊重しつつも、キャラクターの性格・関係性に独自解釈が加わる場面がございます。
・アニメ最終話に登場する犬「プレリュード」は本作には登場せず、オリジナルキャラクターの犬が登場・物語の中心となっております。
・人と動物(犬)との恋愛要素を含む内容となっております。苦手な方、抵抗のある方は閲覧をお控えください。
・ストーリー後半には、**18歳以上推奨の描写(R-18相当)**が含まれます。年齢制限・閲覧にご注意ください。
・本作はフィクションです。実在の人物・団体・作品とは一切関係ありません。
季節は、少しずつ秋へと向かっていた。
朝晩の風に、どこか冷たさが混じる。
梨子は変わらず、まつたけと日々を過ごしていた。
最初は、ただ「家族の一員」だった。
でも、気づけば──まつたけは、梨子にとってもっと特別な存在になっていた。
朝。
目覚ましよりも少し早く、まつたけの鼻先がベッドの端をくすぐる。
目を開けると、ふわふわの毛と、まっすぐな瞳。
「おはよう、まつたけ」
梨子が声をかけると、まつたけは静かに尻尾を振った。
学校から帰ってきたときも、疲れた体をソファに投げ出したときも、まつたけは決まって、梨子のそばにいた。
言葉はないけれど、まつたけの存在が、梨子の心をほぐしてくれた。
そして夜。
ピアノの前に座り、思うように曲が進まない日。
ため息をついた梨子の足元に、まつたけがそっと顔を寄せた。
梨子はその温もりに触れると、また指を鍵盤に置いた。
不思議だった。
うまく言葉にできないけれど、まつたけがそばにいるだけで、自分はまた前を向ける気がした。
「……いつのまに、こんなに大事になっちゃったんだろうね」
梨子はまつたけに向かって、ふっと笑った。
まつたけは静かに、梨子を見つめ返した。
この日々が、この静かな積み重ねが、確かにふたりを結んでいくのだった。
秋の夜。
珍しく、梨子は部屋の電気もつけず、薄暗いリビングで、ひとりソファに座っていた。
手には、学校から帰ってきたばかりの試験結果。
思うような成績じゃなかった。
そして、もうひとつ。
目の前に置かれた、音楽コンクールの応募要項。
(出したい。……でも)
心の奥に、もやもやとした不安が渦巻いていた。
梨子は膝を抱え込み、深くうつむいた。
情けなかった。
悔しかった。
でも、誰にも言えなかった。
心配をかけたくなかった。
──そんなとき。
まつたけが、そっと梨子の足元に寄ってきた。
鼻先をそっと、梨子の腕に押し当てる。
「……まつたけ」
梨子は顔を上げ、
まつたけのあたたかな毛並みに、指先を沈めた。
「……わたし、ダメだなぁ」
ぽつりと、零れる言葉。
本当は、誰にも見せたくなかった弱音。
「怖いよ。コンクール、失敗するの、怖い。がんばっても、届かないかもしれないの、怖い」
まつたけは、ただ静かに梨子を見ていた。
否定も、励ましも、しない。
ただ、梨子の全部を受け止めるみたいに、
そこに、いた。
梨子は、涙をこらえきれなくなった。
声を出すこともなく、ただぽろぽろと、涙を落とした。
まつたけは、その涙の匂いを感じたのか、
そっと梨子の膝に頭を乗せた。
その重みが、梨子の心を支えた。
梨子は、まつたけの頭をそっと撫でながら、静かに、深く、息を吐いた。
「……ありがとね」
暗がりの中で、梨子の心に、少しだけ光が戻った。
まつたけは、それを知ってか知らずか、ただ静かに、梨子のそばに寄り添っていた。
梨子は、またひとつ思った。
(──この子がいるから、わたしは、わたしでいられる)
朝の空気はひんやりとしていた。
夏の終わりが、秋の訪れを知らせている。
梨子は、ベッドの端に座って、指先でコンクールの応募用紙をなぞっていた。
(出すの、やっぱり、怖いな……)
心のどこかで、また不安が顔を覗かせる。
そのとき。
トンッ、と小さな衝撃。
足元を見ると、まつたけが鼻先で梨子の膝を押していた。
「まつたけ……」
まつたけは、じっと梨子を見上げた。
まるで、何かを伝えたいかのように。
梨子は笑ってしまった。
「……わたし、弱いね。怖いのに、逃げたくないなんて、無茶だよね」
まつたけは何も言わない。
ただ、梨子の手にそっと顔を押し当てた。
その温もりが、梨子の心の中の冷たい部分を、ゆっくりと、溶かしていく。
(わたし、この子に出会ってから、何度も助けられてる)
梨子はそっとまつたけの頭に手を置いた。
「ううん、違うか。助けてもらってばかりじゃ、ダメだよね」
まつたけの瞳は、変わらずまっすぐだった。
言葉はいらない。
それだけで、十分だった。
梨子は、ゆっくりと立ち上がった。
コンクールの応募用紙に、ボールペンの先を置く。
カリ、カリ。
細い音を立てながら、梨子は必要事項を書き込んでいく。
最後に、名前を書いた。
書き終えた瞬間、まつたけが小さく鼻を鳴らした。
まるで、「よくやった」って言っているみたいに。
「……ありがとう、まつたけ」
梨子は、深く息を吐いた。
コンクールへの応募から、数週間後。
梨子は、放課後の校門で一人歩いていた。
音楽室での練習を終え、疲れた体を引きずるように帰路につく。
日が沈みかけた空。
淡い朱に染まった町並み。
まつたけは、梨子を迎えに来てくれていた。
リードを付け、ゆっくりと梨子の隣を歩く。
そのときだった。
「ねえ、君──桜内梨子だよね?」
後ろからかかった声。
振り返ると、知らない男が立っていた。
若い男。
手にはカメラと、見慣れないファイル。
(ファン……?)
梨子は身構えた。
学校帰りに、こうして声をかけられるのは珍しいことじゃない。
でも、どこか雰囲気が違った。
男は近づいてきた。
「握手、してくれない?」
手にはファイル。
何枚もの写真が挟まっている。
中には、どう考えてもプライベートなものも混ざっていた。
梨子は怖くなった。
後ずさろうとしたそのとき──
「ガウッ!」
まつたけが、低く唸り声を上げた。
男が驚いて足を止める。
まつたけは、梨子の前に立ちはだかるようにして、男を睨みつけていた。
耳を伏せ、毛を逆立て、普段は見せたことのない、野生の顔。
男がひるんだ。
「な、なんだよ、犬がいるなんて……」
梨子は、震えながらもまつたけに手を置いた。
温かかった。
安心できた。
「……帰ります」
梨子は、震える声で言った。
男は舌打ちして、去っていった。
梨子は、まつたけのリードを持ち直した。
その手が、少しだけ震えていた。
まつたけは、梨子を見上げた。
「……ありがとう、まつたけ」
梨子は、まつたけの頭を撫でた。
まつたけは、梨子の手に鼻先を寄せた。
(──わたしを、守ってくれたんだ)
その事実が、梨子の心に、深く、静かに刻まれた。
ふたりは、再び歩き出した。
寄り添うように、影を重ねながら。
夜の町を、誰にも邪魔されないふたりだけの世界を歩いていく。
秋晴れの朝。
澄んだ空に、うっすらと白い雲が浮かんでいた。
今日は、コンクール本番の日。
梨子は、出かける支度を整え、最後に、家のリビングに目を向けた。
そこには、まつたけが座っていた。
梨子を見上げる瞳は、いつもと変わらず穏やかで、でもどこか心配そうでもあった。
「……ごめんね、今日は一緒に行けないんだ」
会場は、動物の同伴ができない。
仕方ないことだとわかっていても、梨子は胸が痛んだ。
まつたけは、静かに梨子の方へ歩み寄り、その大きな頭を、そっと梨子の手のひらに押し当てた。
梨子は、まつたけの頭を両手で包み込むようにして撫でた。
「すぐ帰ってくるから。……待っててね」
まつたけは、尻尾をふりふりと小さく振った。
梨子は深呼吸をひとつして、玄関を出た。
会場に着いて、梨子は控室に案内された。
周囲は緊張した空気に包まれている。
他の出場者たちも、それぞれに静かに集中していた。
(大丈夫、大丈夫……)
梨子は自分に言い聞かせながら、持ってきたスマホを取り出した。
画面を開くと、そこにはリビングのライブカメラ映像。
留守番しているまつたけの様子が映し出される。
最初、まつたけはじっとしていた。
でも、画面越しに梨子の視線を感じ取ったのか、
ふいに顔を上げて、カメラの方をじっと見つめた。
そして──
「ワンッ」
優しく、一度だけ吠えた。
カメラの向こうで、梨子に向かって声をかけるように。
それから、まつたけはカメラのレンズをぺろりと舐めた。
まるで、
「大丈夫、見てるよ」
「ちゃんと、そばにいるよ」
とでも言っているかのように。
梨子は、思わず涙が滲みそうになった。
(──そうだ。わたしはひとりじゃない)
まつたけが、待っている。
支えてくれている。
梨子は深く、息を吸った。
スマホをそっとしまい、立ち上がる。
そして、舞台へ向かった。
スポットライトが、梨子を照らす。
まるで、無数の星が一斉に瞬いたみたいに、客席の視線が集まる。
でも、梨子はもう怖くなかった。
ピアノの前に座り、目を閉じる。
思い浮かべたのは、家で、静かに寄り添ってくれたまつたけの姿。
あの温もり。
あの、まっすぐな瞳。
(──ありがとう、まつたけ)
梨子は、鍵盤に手を置いた。
やさしく、静かに。
音が流れ出した。
それはまるで、梨子とまつたけの間に流れていた、言葉のない音楽そのものだった。
音はやがて広がり、会場を包み込んだ。
梨子は、まつたけに向けて、心の中で語りかけながら弾いた。
「あなたと出会って、わたしは変わったよ」
演奏が終わると、会場には静寂が訪れた。
一拍置いて──
大きな拍手が鳴り響いた。
梨子は、深くお辞儀をした。
目を閉じると、遠くでまつたけが、嬉しそうに尻尾を振る姿が見えた気がした。
コンクールが終わった帰り道。
梨子は、心地よい疲れとともに家へ向かっていた。
玄関の扉を開けると──
リビングから走ってくる影。
まつたけだった。
梨子は、思わず笑った。
「ただいま、まつたけ」
まつたけは梨子の足元にすり寄り、尻尾をぶんぶん振りながら、鼻先を梨子に押し付けた。
梨子はしゃがみこみ、まつたけの頭を撫でた。
「ちゃんと、見ててくれたんだよね」
まつたけは、鼻を鳴らして応えた。
梨子は、そっと耳を寄せた。
「これからも、ずっとそばにいてね」
まつたけは、まるでその言葉を理解したかのように、静かに梨子の手を舐めた。
「約束だよ、まつたけ」
まつたけは、深く息を吐きながら、
梨子の膝に顔を預けた。
──誰にも知られない、
ふたりだけの、静かな"約束"。
言葉なんかいらなかった。
この温もりだけで、十分だった。
梨子はそっと目を閉じた。
まつたけの寝息と、梨子の呼吸が、
同じリズムで静かに夜に溶けていった。
昼下がり。
秋の陽が、カーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
梨子はリビングのソファに横になり、スマホを片手に、ぼんやりと画面を眺めていた。
特に何をするでもなく、ただ、のんびりとした時間。
隣には、もちろんまつたけがいた。
体を横たえ、梨子の足元にぴったりとくっついて寝そべっている。
しばらくの静寂の後──
ふいに、くすぐったい感触が梨子の足に触れた。
「ん?」
目を向けると、まつたけが梨子の足の裏をペロリと舐めていた。
「ちょ、やめて、くすぐったいってば!」
梨子は思わず笑いながら、足を引っ込める。
でも、まつたけは悪びれる様子もなく、また舌を伸ばしてペロリ。
梨子はとうとうソファから身を起こした。
「もう……反撃だよ、まつたけ!」
まつたけの横に座り込み、お腹のふわふわした毛並みにそっと手を伸ばす。
そして──
こちょこちょこちょ。
まつたけはびくん、と体を震わせ、足をバタバタと動かした。
「くすぐったいでしょ? こちょこちょ~」
梨子は子どもみたいに笑いながら、さらにお腹をくすぐる。
まつたけは、抵抗するでもなく、ただ静かに梨子を見上げていた。
やがて、梨子の手が止まると、まつたけは鼻を鳴らして、梨子の膝に頭を預けた。
「……ふふ、降参?」
まつたけは尻尾を一度だけ、ふり、と振った。
梨子はソファに背を預け、まつたけの頭をそっと撫でた。
「まったく、甘えんぼなんだから」
まつたけは、梨子の膝に頭を乗せたまま、目を細める。
梨子も、自然と目を閉じた。
秋の陽だまりの中、ふたりは静かに、同じ呼吸を重ねる。
特別な言葉なんていらなかった。
ただ、あたたかな時間が、そこにあった。
ある日。
梨子は、リビングのソファに座り、
膝の上で願書の用紙をくしゃくしゃにしそうになりながら、深いため息をついた。
進路。
音楽の道を進みたい。
でも、それが本当に正しい選択なのか、
この道を選んだら、後戻りできないんじゃないか──
そんな不安が、ずっと心の奥に渦巻いていた。
(わたしに、できるんだろうか……)
そっと願書をテーブルに置き、目を閉じる。
「わかんないよ、まつたけ……」
小さな声。
でも、答えなんて返ってこないと、わかっていた。
ふと、足元に気配を感じる。
目を開けると、まつたけがそこにいた。
「……」
梨子は、何も言わずに手を伸ばし、まつたけの頭を撫でた。
まつたけは、梨子の手に鼻先をすり寄せ、それから静かに、梨子の膝に顔を乗せた。
その重みが、梨子の心にずしりと沁みた。
まつたけは知っていた。
梨子が今、不安に押しつぶされそうになっていることを。
言葉は交わせない。
でも、梨子の体から漂うわずかな匂い。
普段とは違う、張り詰めた、少し苦い匂い。
(──梨子)
まつたけは、何も言わずに、そっと梨子に身体を寄せた。
梨子は、まつたけの毛並みに顔を埋めた。
その温かさが、胸の奥に沁みる。
「ねえ、まつたけ」
ぽつりと、梨子が呟いた。
「もし……もしもわたしが、失敗しても。
何も残せなくても。
夢を諦めることになっても──
それでも、そばにいてくれる?」
まつたけは、答えの代わりに、
梨子の手の甲をぺろりと舐めた。
それは、まるで──
「当たり前だよ」
と言っているかのようだった。
梨子は、ぎゅっと目を閉じた。
「ありがとう……」
ポツリと零れた言葉に、まつたけは静かに、梨子の膝に頭を預けたまま、じっとしていた。
まるで、何があってもここにいると、
その存在で伝えようとしているかのように。
梨子は、涙が出そうになるのを堪えて、まつたけの頭を撫でた。
「もう少しだけ、甘えていい?」
まつたけは、動かなかった。
でも、梨子の膝の上に乗ったその重みが、
彼の答えだった。
夜は静かだった。
ただ、ふたりの呼吸だけが、ゆっくりと重なり合っていた。
星空の下、梨子とまつたけは、未来に向かって小さな"今"を積み重ねていった。
夜。
家じゅうが静まり返り、窓の外には星が瞬いていた。
梨子はすでに眠っていた。
ベッドに横たわり、規則正しい寝息を立てている。
その隣。
まつたけは、そっと梨子のベッドの下で丸くなっていた。
いつもと同じ光景。
でも、まつたけは目を閉じなかった。
──梨子。
彼女の寝顔を、静かに見上げる。
長いまつ毛。
眠っていても、不安そうにわずかに動く眉。
(今日も、がんばったね)
言葉はないけれど、まつたけは知っていた。
梨子がどれだけ無理をしているか。
どれだけ、笑顔の裏で不安と戦っているか。
そっと鼻先を持ち上げて、梨子のかけ布団の端に触れる。
安心する匂い。
世界で一番、あたたかい匂い。
まつたけは、そっと目を閉じた。
(明日も、梨子が笑えますように)
(梨子が、少しでも楽に過ごせますように)
そんな祈りを、誰にも聞こえない夜に紡ぐ。
言葉にはできない願い。
でも、それは確かに、まつたけの心からの祈りだった。
夜が更ける。
まつたけはそっと、梨子のベッドに鼻先を寄せた。
(大丈夫。君は君のままでいいんだよ)
静かに──
まつたけは、梨子を守るようにその場に寄り添い続けた。
そしてようやく、まつたけも目を閉じた。
梨子が知らないところで、
彼女の幸せを、誰よりも強く願いながら。
朝。
薄いカーテン越しに、柔らかな光が差し込んでいた。
梨子は、まだ眠たそうに目をこすりながら、
ベッドの脇に座るまつたけを見下ろした。
「おはよう、まつたけ」
まつたけは、静かに尻尾を振る。
梨子が手を伸ばして、まつたけの頭に触れた。
その瞬間。
まつたけの心に、あたたかなものが広がる。
(ああ、今日も梨子がいる)
梨子の手は、まつたけの毛並みを優しく撫でる。
それは、言葉よりもずっと伝わる愛情だった。
(君の手は、いつもあたたかい)
まつたけは、そっと目を細める。
体を小さく折りたたんで、
梨子の膝に顔を預けた。
(君に触れられると、心が落ち着く)
それは、まつたけにとって、
この世界で一番小さな、でも確かな幸せ。
梨子が笑う。
眠たげな、それでも柔らかな笑顔。
まつたけは、心の中でそっと呟く。
(──今日も、君を守ろう)
(君のそばに、いよう)
梨子の指先が、耳の後ろをくすぐるように撫でた。
まつたけは、それに応えるように鼻を鳴らした。
それだけで、世界は満たされる。
言葉はいらない。
ただ、梨子の手が、まつたけの心を、静かに満たしていく。
それが、まつたけにとっての、小さな、小さな、確かな幸せだった。
冬の夜。
窓の外には、粉雪が静かに降り積もっていた。
梨子はこたつに入り、その隣には、まつたけが丸くなっていた。
テーブルの上には、願書の控えと、スケジュール帳。
進路──音楽大学への挑戦。
「ねえ、まつたけ」
梨子がぽつりと呟いた。
「わたし、東京の学校に行くの」
まつたけは顔を上げ、梨子を見た。
梨子の声は少しだけ震えていた。
「もし、合格したら──……ここ、離れるんだよね」
梨子は、まつたけの毛並みにそっと手を伸ばした。
あたたかい。
「でも、怖いんだ。東京って言っても前に住んでたところとは違うし……。知らない街で、ひとりで、ちゃんとやっていけるか」
まつたけは、何も言わない。
ただ、静かに梨子の手に鼻先を寄せた。
(大丈夫。君ならできるよ)
そんなふうに、まつたけは心で呟いた。
梨子は、まつたけの頭を撫でながら、続けた。
「……ねえ。もし、まつたけも一緒に行ってくれたら、わたし、きっと、すごく心強いのにね」
くすりと笑う声。
まつたけは、尻尾をぱたぱたと振った。
(僕は、どこへだってついていくよ)
言葉にできない心の声が、梨子の笑顔にそっと触れた気がした。
「ねえ、まつたけ。わたし、東京に行っても、ちゃんと音楽、続けられるかな」
梨子は、毛並みに頬を寄せる。
まつたけは、そっと梨子の膝に顔を預けた。
(きっとできる。君なら)
まるで応えるように、梨子の心の不安を撫でるような静かな重み。
梨子は目を閉じた。
「そっか。──そばにいてくれるんだもんね」
まつたけは、静かに息を吐いた。
(ずっと、そばにいるよ)
ふたりの呼吸が、静かに重なっていく。
雪が、しんしんと降り積もる夜。
梨子とまつたけは、未来を静かに語り合っていた。
三月。
内浦にも、春の気配が近づいてきた。
桜のつぼみはまだ硬いけれど、冷たい風の中に、わずかなあたたかさが混じり始めていた。
今日は──卒業式。
梨子は、制服のリボンをきゅっと締め、鏡の前に立った。
スカートの裾を直しながら、深く息を吐く。
「……卒業、か」
まつたけは、梨子の足元で静かに座っていた。
見慣れた制服姿。
でも今日は、なんだか特別な雰囲気が漂っていた。
梨子は、そっとまつたけを見下ろす。
「もう、制服も今日で最後だね」
まつたけは、梨子を見上げた。
その瞳は、いつもと同じ優しさに満ちていた。
(今日も、君は綺麗だよ)
梨子は小さく笑った。
「行ってくるね、まつたけ」
まつたけは、尻尾をふりふりと小さく振った。
梨子は、しゃがみ込んでまつたけの頭を撫でる。
「……帰ったら、ちゃんと報告するから」
まつたけは、そっと鼻先を梨子の手に押し当てた。
(待ってる。ずっと、君を待ってる)
梨子は、まつたけの温もりを胸に抱きながら、
玄関を後にした。
──
式が終わり、
卒業証書を手に帰宅した梨子を、
まつたけは玄関で待っていた。
「ただいま、まつたけ」
梨子は笑顔で言った。
でも、まつたけにはわかった。
その声の奥に、少しだけ震えがあったことを。
梨子は、玄関先にしゃがみ込んで、まつたけを抱きしめた。
「……終わっちゃった」
まつたけは、そっと梨子の背中に顔を寄せた。
(大丈夫。終わりじゃない。君の物語は、これからだよ)
梨子は、まつたけの柔らかな毛に顔を埋めた。
「……ありがと、まつたけ。わたし、頑張るね。これからも、ずっと一緒に」
まつたけは、梨子の手をぺろりと舐めた。
それは、静かな"約束"。
卒業しても、
どんな未来が待っていても、
ふたりは、変わらない。
──ふたりで歩む、これからの道を。