ふたりの絆はしだいにおおきなものになっていく。
※シリーズ全体
・本作品はアニメ版『ラブライブ!サンシャイン!!』を原作とした二次創作です。
・アニメ本編との時間軸のズレや、独自の設定・キャラクター解釈を含んでおります。
・原作を尊重しつつも、キャラクターの性格・関係性に独自解釈が加わる場面がございます。
・アニメ最終話に登場する犬「プレリュード」は本作には登場せず、オリジナルキャラクターの犬が登場・物語の中心となっております。
・人と動物(犬)との恋愛要素を含む内容となっております。苦手な方、抵抗のある方は閲覧をお控えください。
・ストーリー後半には、**18歳以上推奨の描写(R-18相当)**が含まれます。年齢制限・閲覧にご注意ください。
・本作はフィクションです。実在の人物・団体・作品とは一切関係ありません。
春の風が、柔らかく吹いていた。
梨子の部屋は、段ボールの山に囲まれていた。
引っ越しの準備は思った以上に大変で、必要なもの、いらないものを分けながら、静かに作業を続けていた。
まつたけは、いつもと違う空気を感じ取っていた。
体を折りたたんで、梨子のそばに座っている。
「もう少しで、引っ越しだね」
梨子がふと呟く。
「まつたけも、一緒に行けるよ」
まつたけは、尻尾を一度だけふり、と振った。
その仕草に、梨子はくすりと笑う。
最初、梨子はペット可の賃貸物件を必死に探していた。
でも、なかなかいい条件の場所は見つからなかった。
そんなとき──
連絡をくれたのが、東京に先に出ていた黒澤ダイヤだった。
『知り合いが使っていない別荘がありますわ。良かったら、お安くお貸ししましょうか?』
申し出に、梨子は驚いた。
しかもその家は、広くて庭付き。
まつたけが自由に動き回れるスペースがある。
梨子は、まつたけの頭を撫でながら言った。
「よかったね、まつたけ。広いお家に住めるって」
まつたけは、梨子の手に顔をすり寄せた。
(嬉しい。君と一緒なら、どこでもいいけど──広い庭があったら、もっと嬉しい)
荷物の梱包が終わると、梨子はそっとソファに座り、まつたけを呼んだ。
「おいで、まつたけ」
まつたけは、迷いなく梨子の膝に顔を預けた。
梨子は、まつたけの頭を優しく撫でた。
「……ここで過ごすのも、あと少しだね」
まつたけは、梨子を見上げた。
(どこに行っても、君のそばにいるよ)
静かに流れる時間。
ふたりは、内浦での最後の春を、静かに噛みしめていた。
東京。
高層ビルが立ち並び、内浦とは全く違う景色。
でも、梨子の新しい家は、都会の喧騒から少し離れた住宅街の一角にあった。
黒澤家の知人から借りることになったその家は、立派な庭があり、木造の温もりを感じる広い平屋だった。
「すごいね、まつたけ。まるで、映画に出てくるみたいなおうちだよ」
梨子は、感嘆の声を漏らした。
まつたけは、庭を一周ぐるりと走り回り、戻ってくると、梨子に向かってワン!と一声。
(ここ、気に入った!)
梨子は笑った。
家の中は、木の香りがして落ち着く。
まつたけは、さっそくリビングの真ん中に寝そべっていた。
梨子が荷物を開きながら、「新しい生活、がんばろうね」と言うと、
まつたけは梨子の手に鼻先を寄せた。
(もちろん。君となら、どんな場所でも)
夜。
梨子は、ベッドに横たわりながら、天井を見上げていた。
「今日から、東京暮らしだね」
ベッドの下では、まつたけが丸くなって眠っていた。
その寝息は静かで、梨子の緊張をそっと溶かしていく。
(君がいるから、わたしは大丈夫)
梨子は、心の中でそう呟いた。
まつたけは──
梨子が知らないところで、微かに耳を動かしていた。
(うん。君は大丈夫。君は、強いから)
どんな未来が待っていても、ふたりならきっと、乗り越えていける。
新しい街、新しい生活。
でも、変わらないものが、ここにはあった。
──梨子とまつたけ。
たったふたりの、静かで、あたたかい世界。
夜。
東京の空は、星が見えなかった。
街は明るく、たくさんの光に満ちているのに、
梨子の心は、どこか空っぽだった。
静かなリビング。
引っ越してから数日──
まだ、誰にも慣れなくて、学校でも馴染めなくて。
(こんなにたくさん人がいるのに、なんで、こんなに、ひとりなんだろう)
梨子は、ソファに座り込んでいた。
背中を丸めて、膝を抱えるようにして。
部屋はあたたかい。
でも、心は冷たかった。
──そのとき。
ふわりと、足元に柔らかな重み。
まつたけだった。
(梨子、どうしたの?)
言葉はなかったけれど、
まつたけの大きな瞳が、まっすぐに梨子を見ていた。
梨子は、力なく微笑んだ。
「……ありがと、まつたけ」
そっと、手を伸ばす。
まつたけの毛並みを撫でる。
ふわふわして、あたたかくて──
梨子は、涙をこぼした。
「……ごめんね。
こんなとこ、見せちゃって」
まつたけは、何も言わずに、梨子の膝に顔を預けた。
(大丈夫。僕は、どんな君も受け止めるよ)
梨子は、まつたけの顔に頬を寄せた。
その温もりが、心にしみわたる。
「ひとりじゃない、よね」
まつたけは、鼻先をぺろりと梨子の手に触れさせた。
梨子は、また微笑んだ。
(君はひとりじゃないよ。僕がいる)
ふたりの呼吸が、静かに重なった。
星のない夜でも、
梨子の心には、確かな光が灯っていた。
まつたけがいる限り、
この街も、そんなに怖くない気がした。
「ごきげんよう、梨子さん」
玄関のインターホンが鳴いた。
梨子がドアを開けると、そこにはダイヤが立っていた。
「久しぶりですわね。新生活、いかがですか?」
「うん、まだ慣れないことも多いけど……でも、なんとかやってるよ」
梨子は微笑み、ダイヤを中に招き入れた。
リビングには、まつたけがいた。
来客に気づき、のそのそと歩み寄ってくる。
「こんにちは、まつたけさん」
ダイヤが優雅に挨拶すると、まつたけは尻尾を一度だけ、ふり、と振った。
ソファに腰を下ろしたダイヤは、梨子とまつたけの様子をそっと観察していた。
梨子が、まつたけのそばに座り、自然な仕草で彼の背中を撫でる。
まつたけは、それに応えるように、梨子の膝に頭を乗せた。
──その距離感に、ダイヤはふと思った。
(……以前よりも、近くなっている気がしますわね)
飼い主とペット──
そんな簡単な言葉では言い表せない、
何か特別な絆が、そこにはあった。
梨子の表情も、以前よりずっと柔らかい。
まつたけの仕草も、まるで梨子の心をすべて知っているかのようだった。
「梨子さん」
「うん?」
「あなた、まつたけさんと……とても、いい関係を築いていますわね」
梨子は、まつたけの頭を撫でながら、少しだけ頬を赤らめた。
「うん。……この子がいないと、きっと、わたしは今、ここにいられなかったかもしれない」
まつたけは、梨子の言葉に呼応するように、尻尾を優しくふった。
(僕も、君がいなきゃ、ここにはいないよ)
ダイヤは、微笑んだ。
(──このふたりは、ただの飼い主と犬、ではないのかもしれませんわね)
心の中で、そっとそんなことを思いながら。
春の光が、リビングに差し込んでいた。
それは、梨子とまつたけが歩き始めた、新しい未来を祝福するように、柔らかく、あたたかく。
春の休日。
暖かい日差しが庭に降り注いでいた。
梨子は、ピクニックシートを庭に広げて、
まつたけと一緒に外の空気を楽しんでいた。
お弁当箱には、簡単なサンドイッチ。
そして、まつたけ用のクッキーも。
「はい、まつたけ」
梨子がクッキーを差し出すと、まつたけは嬉しそうに尻尾を振りながら、そっと受け取った。
サクサクと音を立てながら食べる姿に、梨子は思わず笑顔になる。
空は青く高く、風は柔らかい。
遠くで小鳥の声も聞こえる。
「こうしてると、東京にいること、忘れそうだね」
梨子がぽつりと呟く。
まつたけは、食べ終わったクッキーの破片をぺろぺろと舐めながら、梨子の隣にぴたりと寄り添った。
梨子は、まつたけの背中にそっと寄りかかる。
あたたかくて、安心する匂い。
「何も特別なことなんていらないよね。まつたけとこうしていられたら、それだけでいい」
まつたけは、梨子に鼻先を押し当てた。
(うん。僕も、それだけでいい)
春の空の下。
ふたりは、言葉にしない"大好き"を静かに、静かに、確かめ合っていた。
──
午後になって、梨子はごろんとシートに寝転がった。
まつたけも、その横に寝そべる。
風が、髪をそっと撫でていく。
まつたけの耳が、ぴくりと動いた。
梨子は、まつたけの背中に手を伸ばし、指先でふわふわの毛をなぞった。
まつたけは、まどろみながら梨子に身を寄せた。
何も言わず、何もせず、ただ、春の午後をふたりで過ごす。
それは、
世界で一番贅沢な時間だった。
春の午後。
梨子は、まつたけと並んで公園を散歩していた。
柔らかな日差し。
舗道に舞う桜の花びら。
そんな中、ベンチに座っていた婦人が声をかけてきた。
「あらまあ、なんて立派なワンちゃん。──ねえ、お嬢さん。良かったら、うちの子たちが集まる交流会にいらっしゃらない?」
梨子は少し戸惑いながらも、話を聞いた。
どうやら、地元のペット同士を交流させるイベントらしい。
けれど──
(調べてみると、交流会というより……ペット同士のお見合いみたいな……?)
その晩。
梨子は、まつたけを撫でながら言った。
「ねえ、まつたけ。今度、犬の交流イベントがあるんだけど、行ってみる?」
まつたけは、梨子の膝に顔を乗せたまま、静かに見上げた。
(君が行きたいなら、僕はどこへでも)
梨子はふっと笑った。
「うん、ちょっと見に行くだけ。……まつたけにも、素敵な女の子に出会うチャンスかもしれないしね」
まつたけは、尻尾をふりふりと小さく振った。
(……素敵な女の子? 僕には、もう一番大事な人がいるけど)
イベント当日。
広いドッグランには、たくさんの犬とその飼い主たちが集まっていた。
「まつたけ、行っておいで」
梨子がリードを外すと、まつたけは一歩前に出た。
他の犬たちは、興味津々で近づいてくる。
特に、発情期に入っている雌犬たちは、まつたけにアピールするように鼻先を寄せた。
けれど──
まつたけは、何の関心も示さなかった。
ただ、周囲の犬たちの存在を受け流し、静かに梨子の方を振り返った。
(君がいないと、何も楽しくない)
梨子はそんなまつたけの様子に、少し苦笑した。
周囲の人たちは、ひそひそと話し始めた。
「さすがにあの反応、変じゃない?」
「もしかして、病気とか……?」
梨子はぎゅっと手を握った。
「そんなことないもん。──でも、一度ちゃんと診てもらおうね」
数日後、動物病院。
「性機能にも、ホルモンにも問題ありませんよ。至って健康体です」
獣医師の先生はにこやかに言った。
「普段の生活がとても充実しているワンちゃんは、異性に興味を示さないこともよくあります。よほど飼い主さんに、心満たされてるんですね」
梨子は、ほっと息をついた。
「よかった……」
まつたけは、梨子の膝の上にそっと頭を乗せた。
(僕には、君がいればそれでいい)
帰宅した梨子は、コートを脱ぎながら言った。
「まつたけ、やっぱりどこも悪くなかったもんね」
まつたけは、ソファに座る梨子の隣に、ぴたりと寄り添った。
梨子は、そっとまつたけの頭を撫でながら、微笑んだ。
「ふふ、まつたけがモテちゃったらどうしようだなんて、おかしなこと思っちゃった……」
まつたけは、梨子の手のひらに顔をすり寄せた。
(モテる必要なんて、ないよ。僕には、君だけで十分だから)
梨子は、柔らかく笑った。
「でも、まつたけが素敵な女性を見つけたら、わたしは応援しないとだよね」
まつたけは、梨子をじっと見つめた。
そのまっすぐな瞳に、梨子は気づかなかった。
(……違うよ。君以上に素敵な誰かなんて、僕は知らない)
梨子が微笑む。
それは、まつたけにとって、
世界で一番大切な光だった。
(君が笑っていてくれれば、それだけでいいんだ)
夜は静かだった。
まつたけは、梨子の膝に顔を預けたまま、静かに、そっと目を閉じた。
梨子と過ごす時間。
それこそが、彼にとって何よりも幸せなものだった。
その夜、東京の空は珍しく星がよく見えていた。
梨子はカーテンを開けたまま、
ソファに座って、まつたけの背中を撫でていた。
部屋の明かりは落として、窓の外から月明かりだけが差し込んでいる。
まつたけは、梨子の足元で丸くなっていた。
梨子は静かに息を吐き、窓の外に目を向けた。
「……まつたけ」
ぽつりと呼ぶ声。
まつたけは耳をぴくりと動かし、顔を上げる。
梨子は、まっすぐにまつたけを見つめた。
「ずっと、一緒にいてね」
まつたけは、何も言わずに梨子の膝に顔を乗せた。
そっと、静かに。
(うん。ずっと、君のそばにいるよ)
梨子は、まつたけの頭に手を置き、目を閉じた。
この温もりを、この静かな時間を、いつまでも大切にしたい──そう願うように。
まつたけは、梨子の手のぬくもりを感じながら、静かに心の中で誓った。
(君が望む限り、僕は、ここにいる)
夜は、静かに更けていった。
夏。
東京の暑さに、梨子は少し辟易していた。
けれど、今日は休日。
そして──ふたりの秘密の計画があった。
庭に、大きなビニールプールを広げる。
朝から一生懸命、水を張った。
「できたよ、まつたけ!」
まつたけは、プールの水を覗き込んで、
興味津々といった様子で首を傾げた。
梨子は、まつたけに向かってにっこりと笑う。
「さ、入ってみようか」
まつたけは、ちょっと慎重な足取りでプールに入った。
冷たい水にぴくんと反応しながらも、
すぐに楽しそうにバシャバシャと歩き回る。
梨子はその姿に目を輝かせた。
「まつたけ、可愛い……!」
スマホを取り出して、何度も写真を撮る。
まつたけは水しぶきをあげながら、梨子の方へ駆け寄ってきた。
「きゃっ、まつたけ!」
服が少し濡れたけれど、梨子はおかまいなしに笑った。
まつたけは、びしょ濡れの体で梨子にすり寄る。
梨子は、そんなまつたけを抱きしめて、顔を埋めた。
「ほんと、可愛い……。まつたけ、大好き」
まつたけは、梨子の腕の中で身を委ねた。
(──でもね、梨子)
(僕にとっては、今、そうやって笑ってる君が、一番可愛いんだよ)
梨子は、まつたけの濡れた毛を気にすることなく、何度も、何度も撫でた。
まつたけは、梨子の体温を感じながら、静かに目を細めた。
(君が笑っていてくれるだけで、僕は、幸せなんだ)
ビニールプールの水面が、太陽の光を反射してきらきら光る。
梨子とまつたけ。
ふたりだけの、静かで、特別な夏の午後だった。
また別の日。
東京の空に、どん、と花火の音が鳴り響いた。
梨子は、浴衣に着替えて庭に出ていた。
小さなビニールシートの上に座り、まつたけもその隣で大人しく座っている。
空には、色とりどりの花火が咲き誇っていた。
青、赤、金──
夜空に、大きく、美しく。
まつたけは、梨子の顔をちらりと見上げた。
梨子は、花火を見上げながら、静かに微笑んでいた。
(……きれいだね)
まつたけは、梨子の浴衣の裾に鼻先をちょん、と押し当てた。
梨子は、驚いたようにまつたけを見下ろして、
ふっと優しく笑った。
「ねえ、まつたけ。一緒に見よう」
梨子はそう言って、まつたけの背に手を置いた。
花火の光が、梨子の横顔を照らす。
瞳に映る光が、まるで本物の星みたいにきらきらしていた。
まつたけは、その横顔をじっと見つめた。
(花火もきれいだけど、僕は、君が見上げるその顔のほうが、もっときれいだって思うよ)
どん、とまた大きな音がして、空に花が咲く。
まつたけは、静かに梨子の肩に頭を預けた。
梨子は驚きながらも、そっとまつたけの頭に手を置いた。
「……ありがと、まつたけ」
ふたりは、何も言わずに、ただ、花火の光に包まれていた。
夜空に咲く光の花と、寄り添うふたりだけの静かな時間。
それは、夏の魔法みたいな瞬間だった。
ある日の昼下がり。
外は暑くて、出かける気にもなれない。
梨子は、エアコンの効いたリビングで、お気に入りの本棚から一冊の本を引っ張り出してきた。
「ふふ、まつたけ。今日はね、わたしの好きな本、読もうね」
梨子が持ってきたのは──
小さな、薄い冊子。
表紙には、綺麗なイラストと、ちょっと甘酸っぱいタイトル。
(それ、知ってる。君がたまにこっそり読んでるやつだよね)
まつたけは、梨子の膝に顔を乗せながら、静かにページをめくる梨子を見上げていた。
物語は若い恋人たちの、少し切なくて、でもあたたかい恋の話。
梨子は、時折ページをめくる手を止めて、登場人物の感情に胸を打たれていた。
「わあ……すごい、ドキドキする……」
そんなふうに、小さく呟きながら、頬をほんのり赤く染めている。
まるで、物語の中の乙女のような表情で。
まつたけは、静かに梨子を見つめた。
(……かわいいな)
ふだんは落ち着いていて、真面目で、少しクールに見える梨子が、こんなふうに無防備な顔をする。
それが、まつたけにはたまらなく愛おしかった。
梨子は物語に没頭していて、まつたけの視線にも気づかない。
ページをめくる指先。
ふわりと微笑む唇。
(君がこうして笑ってるだけで、僕は、幸せなんだよ)
梨子は、ふとまつたけを見下ろした。
「まつたけも、一緒に読む?」
まつたけは、しっぽを小さく振った。
(うん。君が読んでるのを見てるだけで、十分だよ)
梨子は笑って、またページをめくった。
夏の午後。
涼しい部屋で、
ふたりだけの静かな読書の時間。
外の暑さなんて忘れてしまうくらい、
あたたかくて、幸せな空気が流れていた。
夜。
窓の外では、夏の終わりの虫たちが、か細い声で鳴いていた。
梨子は、リビングのソファに座っていた。
手には、一冊の本。
それは、先日友達に勧められた、
少しだけ大人びた恋愛小説だった。
ページをめくるたびに、甘くて、切なくて、ちょっとだけ苦い感情が胸に広がる。
梨子は、頬を赤くしながら、そっと指先でページをなぞった。
「……こんなふうに、人を想うって、どんな感じなんだろう」
ぽつりと、呟く。
リビングの隅で寝そべっていたまつたけは、その声に気づいて、顔を上げた。
梨子の瞳は、ページの向こうの物語を見つめていた。
少しだけ潤んだ目。
頬にわずかに浮かぶ紅。
(……きれいだな)
まつたけは、そっと梨子のそばに歩み寄った。
そして、何も言わずに、梨子の足元に頭を預けた。
「あ──まつたけ」
梨子は驚きながらも、すぐに微笑んだ。
そして、まつたけの頭を撫でる。
「まつたけも、一緒に読んでくれるの?」
まつたけは、尻尾をふりふりと振った。
梨子は、まつたけのあたたかさに包まれながら、再び本に目を落とした。
けれど、ページをめくる手は少しだけ震えていた。
物語の中の想い。
それは、どこかで自分の胸にも、静かに重なる気がしていた。
まつたけは、静かに寄り添ったまま、梨子の横顔を見上げた。
(君が、誰かを好きになる日が来たら──それでも、僕は君のそばにいるよ)
夜は静かに、ふたりだけの時間を包み込んでいた。
八月の終わり。
東京の空も、どこか秋の気配を漂わせていた。
梨子は、久しぶりに少し足を延ばして、海の見える公園へ来ていた。
夕暮れ。
空はオレンジ色に染まっていた。
まつたけは、梨子の隣を歩いていた。
リードはしていたけれど、お互いの歩調はぴたりと合っていた。
波の音が、静かに耳に届く。
梨子は、まつたけの頭をそっと撫でた。
「夏、終わっちゃうね」
まつたけは、梨子を見上げた。
その瞳は、いつもと変わらず、
まっすぐで、やさしい光を宿していた。
(でも、終わりじゃない。君と僕には、これからも続く時間がある)
梨子は、海の方へと目を向けた。
水平線が、静かに光っている。
「今年の夏、まつたけといっぱい思い出作れたよ」
まつたけは、梨子の手に鼻先を押し当てた。
その仕草に、梨子はふわりと笑った。
「ありがとう、まつたけ。これからも、たくさん一緒にいようね」
まつたけは、梨子の言葉に応えるように、そっと体を寄せた。
(うん。君が望むなら、どんな季節も一緒に歩くよ)
夕焼けの中、ふたりは並んで歩き続けた。
夏の終わり。
けれど、ふたりの時間は、終わらない。
これからも、
静かに、でも確かに、
ひとつひとつ、
季節を越えていく。