朝日が森の梢を透かして金色の光を放つ中、アルファは既に黒衣を纏い、長剣を腰に差していた。昨夜の情事の名残は彼女の首筋に残る赤い痕だけだ。しかし、その瞳には冷たい輝きが戻っている。
「準備はいいかしら?」
彼女の声は普段と変わらないが、どこか緊張感を帯びていた。
ベータは既に姿を消していた。彼女は昨日の告白と初体験の後、頬を赤らめながらも「任務がありますので」と言い残し、夜明け前に拠点に戻っていた。
僕は毛布から起き上がり、簡素な革鎧を身に着ける。エルフの森は人間の国との緩衝地帯。そこで待ち受ける守護者ラーニャは、エルフ社会の中でも特異な立場にあるらしい。
「ラーニャとは?」
道すがらアルファに尋ねた。
「エルフの森の最奥に住む女の子よ」
彼女は前を見据えたまま答える。
「守護者として森を守っているわ。他のエルフにはない特別な力を持っているとか……」
アルファは少し声を落とした。
「ただ、彼女は普通のエルフとは違う。あまり人と関わらず、森の奥で孤独に暮らしている」
「何か問題が?」
「問題というより……奇妙なの」
彼女の目が鋭くなる。
「噂によると彼女は『変身』するらしいわ。古代文明の遺産『アメンバッグル』を使ってね」
僕は眉をひそめた。アメンバッグル? エジプト神話?
「詳しくは分からない。実際に会って確かめるしかないわね」
アルファの表情に珍しい緊張感が浮かんでいた。
森への道は次第に険しくなる。人間の国の開拓地とエルフの聖域が混ざり合う境界地域だ。木々の密度が増し、陽光が遮られる。地面には踏みならされた獣道が蛇行し、遠くから鳥とも獣ともつかぬ鳴き声が響く。
「この辺りからは『エルフの森』と呼ばれているわ」
アルファが低い声で説明する。
「人間の領域でもなければ、完全にエルフの聖域でもない。だからこそ危険な場所なのよ」
彼女の手が長剣の柄に添えられた。周囲の気配を探る鋭い視線。
突然、茂みがガサガサと揺れた。
僕たちが構えると、小さな鹿が飛び出してきた。しかし次の瞬間、僕は背筋が凍りついた。
──木々の影に赤い光が二つ見えたのだ。アルファも気づいている。彼女の長剣が鞘から滑り出る。
「来るわよ」
アルファの警告と共に、影が跳躍した。それは人間の子供ほどの大きさの獣だった。犬のような四肢に猫のような胴体。目は赤く光り、口からは長い牙が覗く。
「森の守護者が来る前に掃除ね」
アルファの剣が閃いた。
血の匂いが立ち込める中、アルファは僕の腕を掴んだ。
「ここからが本番よ」
彼女の目は既に森の奥を見据えている。その先には未知の守護者ラーニャが待つ。
木々が密集する森の奥深く。陽光がわずかに差し込む静寂の中、その少女は立っていた。
長身で細身。金色の長髪が背中まで届き、翠の瞳が冷たく輝いている。エルフ特有の長い尖った耳は、周囲の気配を敏感に捉えているかのようだった。
アルファが緊張した面持ちで進み出る。
「ラーニャ」
その呼びかけに少女──ラーニャは無言で近づいてきた。足音ひとつ立てない歩み。そして警戒心に満ちた冷たい眼差しが僕たちに注がれる。
彼女は腕組みをし、口元を引き結んだまま問いかけた。
「何用だ?」
その声は冷たく乾いていた。人間である僕に対する警戒心が明らかだった。
アルファは毅然とした態度で応じる。
「彼はエルフの王となる運命の者よ」
その言葉にラーニャの目が細められる。冷笑が浮かんだ。
「人間が王だと?」
嘲笑を含んだ声が森に響く。しかし次の瞬間、彼女の表情が鋭く引き締まった。指先が微かに動き、腰に下げた奇妙な装置に触れる。
「信用できないな」
アルファが制止する間もなく、ラーニャの指が装置──アメンバッグルに触れた。
「戴天身!!」
装置が輝き始めると同時に、彼女の周囲に金色の粒子が渦巻いた。
「あれが『変身』よ」
アルファの声は低く緊張に満ちていた。
ラーニャの姿がぼやけ始める。光の粒子が収束し、新たな姿が形成されていく──
現れたのは古代エジプトの神官装束をまとったような女性。頭上にはネコ耳を模した冠。背中からはスフィンクスを思わせる尻尾が伸び、両手の爪は鋭く光っている。全身を覆う金色の毛並みは陽光に輝き、神々しいまでのオーラを放っていた。
「これがアメンバッグルの力……」
アルファの呟きに僕は息を飲んだ。エジプト神話の神々の力を宿す変身──これがラーニャの秘密だったのか。
変身したラーニャは堂々と胸を張った。
アメンの姿を目の当たりにした僕は思わず息を呑んだ。金色の毛並みが陽光に輝き、スフィンクスの意匠を模した装束が風になびく。猫耳と尻尾は威厳を漂わせながらもどこか愛らしく、鋭い爪は戦闘の象徴であった。
「……格好良い」
率直な感想が口をついて出た。それは偽りのない本心だった。
アルファが驚いたように僕を見つめる。ラーニャもその言葉に目を見開いた。
「格好良い……だと?」
彼女の声には戸惑いが混じっていた。アメンの姿でここまで素直に賞賛されたことはなかったのだろう。普段は恐怖と忌避の対象だったはずだ。
「本心だよ」
僕は臆することなく続けた。「神々しくて強い。それって魅力的だと思う」
ラーニャの猫耳がピクリと動いた。変身後の彼女の感覚は通常よりも鋭敏になっているようだった。
「戯れ言だ」
彼女は鼻で笑ったが、声は明らかに震えていた。
「こんな姿に惹かれるわけがない」
しかし彼女の言葉とは裏腹に、アメンの毛皮が微かに逆立つ。緊張しているのか? それとも──。
アルファが静かに歩み寄り、小声で忠告した。
「気をつけなさい。彼女は感情の起伏が激しいわ」
だが僕は彼女の警告を半ば聞き流していた。今のラーニャは僕の目には新鮮に映った。普段の冷徹な守護者とは違い、何か不安定なものを秘めているようだった。
「本当だって」
僕は一歩前に出た。「君が今までどんなふうに見られていたかは知らないけど、今の君は美しいと思うよ」
ラーニャの翠の瞳が揺れた。
「美しい……?」
彼女の爪が地面に食い込む。
「ありえない。私が美しいなど」
否定する言葉とは裏腹に、アメンの金色の毛並みが微かに赤みを帯びていく。羞恥に頬を染めているのだと気づいたとき、僕の胸に奇妙な興奮が湧き上がった。
「……本当に、そう思うのか」
ラーニャは低い声で問いかけてきた。その声には警戒心と共に微かな期待が混じっている。
「ああ」
僕は真摯に答えた。
「ただの嘘じゃない。心からそう思うんだ」
その言葉にラーニャは一瞬固まり、そしてゆっくりと膝を折った。金色の毛皮が地面に擦れる音が聞こえる。彼女は頭を下げ、耳を垂れていた。
「私が……美しい……」
その呟きには驚愕と混乱が滲んでいる。彼女は今まで誰からも賞賛されたことがなかったのだろう。あるいは、恐怖と忌避以外の感情を向けられたことがなかったのかもしれない。
アルファが眉をひそめた。
「変身中の彼女にこんなことを言うなんて」
彼女の声には警告が含まれていた。
「危険よ。あの姿の力は」
しかし僕は既にラーニャの変化を感じ取っていた。アメンの姿でありながら、彼女の仕草や声のトーンには確かに人間らしい羞恥心が見え隠れしている。
「どうしてそんなことを言うんだ」
ラーニャが顔を上げた。その翠の瞳には怒りと同時に混乱が浮かんでいる。
「その、この姿はエルフからは確かに心強いと言われてますし、敵からはその」
僕は思い切って彼女の肩に手を置いた。アメンの硬い毛皮の感触が掌に伝わる。
「でも本当に美しいと思ったんだ」
その言葉に彼女の瞳孔が縮まった。変身後の猫の目のような特徴的な変化だ。
「私のことを……美しいと」
ラーニャは呟いた。その声は震えていた。
「今までそんなことを言われたことがない」
彼女の言葉には明らかな戸惑いがあった。
「私はいつも恐れられてきた。この力で」
僕は静かに頷いた。
「でも今の君は違う。強くて美しい存在だ」
その瞬間、彼女の身体が微かに震えた。変身後の肉体の強靭さとは裏腹に、心はとても脆く感じられた。
「嘘ではないのだな」
ラーニャが鋭い爪で僕の頬を撫でた。かすかに皮膚が切れる感触。
「本当だ」
僕は彼女の目をまっすぐ見つめた。
「君が好きだ」
その告白に彼女の瞳が大きく見開かれた。
「好……き?」
彼女は混乱したように繰り返した。
「人間がエルフを……好きだと?」
「そうだよ」
僕は断言した。
「僕、こういうヒーローは本当に好きなんだ。正義のために戦ってるヒーローみたいな感じかな。そういうのってすごいと思わない?」
「……でも私なんて……」
ラーニャの瞳に困惑と期待が交錯する。彼女は普段の冷徹な守護者とは別人のように見えた。アメンの姿でありながらも、その言動には女性らしい弱さが垣間見える。
「だから……もっと知りたいんだ。君のこと」
僕の言葉にラーニャは顔を伏せた。金色の毛皮に隠れた耳が真っ赤に染まっているのが分かる。
「何を知りたいというのだ」
彼女の声はまだ震えていた。
「なんでも」
僕は即答した。
「好きなこととか、嫌いなものとか……なんでもいい」
ラーニャはしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。その表情には警戒心と共に微かな期待が宿っている。
「……面白い人ですね」
彼女の口元が僅かに緩んだ。
「こんな人間は初めてだ」
その言葉に僕は嬉しさを感じた。彼女との距離が縮まった気がしたのだ。
アルファは木陰に身を寄せ、二人の様子を静かに観察していた。彼女の青い瞳には驚きと確信が混在している。
「まさか……ここまでとは」
アルファの呟きは森の風に溶けた。ラーニャが人間をこれほど短時間で警戒心を解くのは前代未聞だ。ましてや彼女がアメンバッグルで変身した姿はエルフですら恐れるのに。
「彼女がこんなに素直に」
アルファは思わず笑みを浮かべた。
ラーニャのアメンの姿が徐々に変化していく。金色の毛皮が柔らかな光沢を帯び、獣のような爪がわずかに丸みを帯びる。それは彼女の心理状態が肉体に影響を与えている証拠だ。
「君は本当に面白い」
ラーニャの声は先ほどまでの冷徹さが消え、微かに甘さを含んでいる。
「彼は、やはり王の器ですわ」
アルファの声は低く落ち着いていたが、その瞳には確信が宿っていた。
「ラーニャがあんなに素直に人間を受け入れるなんて」
彼女はゆっくりと二人に近づく。その足取りには優雅さと威厳が同居していた。
「しかもアメンバッグルの力を前にして怯まないどころか、その美しさを讃えるなんて」
アルファの指が無意識に自分の唇に触れる。彼女の黒いドレスが風に揺れ、その影が森の地面に長く伸びた。
「まさにエルフと人間の架け橋になるべき存在だわ」