第1話
昼と夜の隙間の時間。
どこか妖しげな空の色をぼんやり眺めながら、帰宅ラッシュの電車に揺られていた。今日も混んでいる。肩がぶつかり、足を踏まれ、それでも流れに任せて、ようやくホームに降り立つ。
いつものコンビニで夕食を買い、気だるい足取りで家路をたどる。
その入り口の脇に、また制服姿が立っていた。
——また、あの子だ。
何度か見たことがある。コンビニの前で、いつもひとりで佇んでいる。スマホをいじるでもなく、誰かを待っているようでもない。けれど、確かにそこにいる、という存在感。
気になっていた。ただ、声をかけたことはなかった。
他人に話しかけるほどの社交性は、湊にはとうになかった。
視線を逸らし、そのまま歩き出そうとしたとき——
「湊くんでしょ?」
静かな声が、背後から呼びかけた。
反射的に振り向いてしまう。
自分の名前を、知らないはずの誰かが知っているというのは、それだけでぞくりとする。
「……君は?」
「紬。名前だけどね」
制服姿の少女は、特に表情を変えることもなく言った。
どこか眠たげな目で、でもまっすぐこちらを見ている。
「……どうして俺の名前を知ってる?」
「前に見かけたときに、誰かが呼んでた。聞こえちゃっただけ」
少し笑って、肩をすくめる。
それにしては、確信に満ちすぎている。
人違いじゃない、と言いたくなるが、もう一歩踏み込むのが億劫だった。
「……そう」
歩き出そうとした。これ以上関わらない方がいい。
ただでさえ、妙な空気をまとっている。
でも、すぐに袖を引かれた。そっと、力を込めすぎないように。
「ねえ、ちょっとだけ、聞いてくれる?」
「……なに?」
「今夜、帰る場所がないの。泊めて、って言いたいわけじゃないよ。ただ、少しだけ、休ませてくれたらって」
「は?」
「ずっとこの辺にいたの、知ってるでしょ。今日だけ、行く場所がなくなったの。……急に、ね」
湊は言葉を失った。
どう返せばいいのか、迷う。まったく知らないわけじゃない——少なくとも「見かけたことがある」というだけで、完全な赤の他人とも言えない微妙なライン。
「お金はあるの?」
「カフェのバイト、今月は入ってなくて。ちょっとだけ、しか」
「ビジネスホテルに行ったほうがいい」
「行けるなら、とっくに行ってるよ。……でも、もし迷惑じゃなければ、それまでの間だけ、湊くんの部屋の前にいさせて」
そこに「下心」や「仕掛け」のようなものはなかった。ただ、素直に困っている顔だった。
だからかもしれない。
湊はふと、頭の中で計算するのをやめていた。
「……じゃあ、少しだけ」
自分でも、なぜその言葉が口をついたのかよくわからなかった。
「やった。ありがとう」
笑った彼女の顔が、不思議と見覚えのある気がした。
並んで歩き出す。制服の袖がかすかに揺れて、湊の腕に触れる。
家までの道は短いはずなのに、その夜だけは、やけに静かで、やけに長かった。
街の音が遠く、歩くたびに空気が淡く揺れる。
まるで、どこか違う世界に足を踏み入れてしまったような、そんな夜だった。
◇◇◇
玄関の鍵が開く音が、やけに響いた。
見慣れた部屋に、見慣れない気配が一つだけ混じるだけで、まるで別の場所に変わってしまったようだった。
紬は黙って靴を脱ぎ、リビングの隅に腰を下ろす。
「お水、いる?」
「……ううん。大丈夫」
少しの沈黙。
「この匂い、湊くんの部屋だね」
「……まあ、俺の部屋だからな」
「なんか、懐かしい気がする。不思議だけど」
それは夢の中で聞いたような台詞だった。
けれど、思い出そうとしても何も浮かばない。
どこか、記憶の輪郭が曖昧になっていく感覚。
この夜が、どこか現実じゃないような気がした。
湊はソファに腰を下ろし、言葉が見つからないまま天井を見上げた。
「……ねえ、湊くん」
紬がぽつりと声を落とす。
「“このまま、明日が来なければいい”って、思ったことある?」
その問いは、唐突ではなく、ただ淡くそこに置かれたようだった。
「……あるよ。たまにだけど」
「わたしも。……けっこう、しょっちゅう」
笑いながら、目だけが寂しげだった。
その笑顔に、終わりの匂いが混じっているような気がして——
けれど湊は、まだ知らなかった。
この夜を境に、自分の“ただの日常”が、もう二度と戻らなくなることを。
これでいい?
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いいよ。もう十分だよ
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