※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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紬
第1話


昼と夜の隙間の時間。

 

どこか妖しげな空の色をぼんやり眺めながら、帰宅ラッシュの電車に揺られていた。今日も混んでいる。肩がぶつかり、足を踏まれ、それでも流れに任せて、ようやくホームに降り立つ。

 

いつものコンビニで夕食を買い、気だるい足取りで家路をたどる。

その入り口の脇に、また制服姿が立っていた。

 

——また、あの子だ。

 

何度か見たことがある。コンビニの前で、いつもひとりで佇んでいる。スマホをいじるでもなく、誰かを待っているようでもない。けれど、確かにそこにいる、という存在感。

 

気になっていた。ただ、声をかけたことはなかった。

他人に話しかけるほどの社交性は、湊にはとうになかった。

 

視線を逸らし、そのまま歩き出そうとしたとき——

 

「湊くんでしょ?」

 

静かな声が、背後から呼びかけた。

 

反射的に振り向いてしまう。

自分の名前を、知らないはずの誰かが知っているというのは、それだけでぞくりとする。

 

「……君は?」

 

「紬。名前だけどね」

 

制服姿の少女は、特に表情を変えることもなく言った。

どこか眠たげな目で、でもまっすぐこちらを見ている。

 

「……どうして俺の名前を知ってる?」

 

「前に見かけたときに、誰かが呼んでた。聞こえちゃっただけ」

 

少し笑って、肩をすくめる。

 

それにしては、確信に満ちすぎている。

人違いじゃない、と言いたくなるが、もう一歩踏み込むのが億劫だった。

 

「……そう」

 

歩き出そうとした。これ以上関わらない方がいい。

ただでさえ、妙な空気をまとっている。

 

でも、すぐに袖を引かれた。そっと、力を込めすぎないように。

 

「ねえ、ちょっとだけ、聞いてくれる?」

 

「……なに?」

 

「今夜、帰る場所がないの。泊めて、って言いたいわけじゃないよ。ただ、少しだけ、休ませてくれたらって」

 

「は?」

 

「ずっとこの辺にいたの、知ってるでしょ。今日だけ、行く場所がなくなったの。……急に、ね」

 

湊は言葉を失った。

どう返せばいいのか、迷う。まったく知らないわけじゃない——少なくとも「見かけたことがある」というだけで、完全な赤の他人とも言えない微妙なライン。

 

「お金はあるの?」

 

「カフェのバイト、今月は入ってなくて。ちょっとだけ、しか」

 

「ビジネスホテルに行ったほうがいい」

 

「行けるなら、とっくに行ってるよ。……でも、もし迷惑じゃなければ、それまでの間だけ、湊くんの部屋の前にいさせて」

 

そこに「下心」や「仕掛け」のようなものはなかった。ただ、素直に困っている顔だった。

 

だからかもしれない。

湊はふと、頭の中で計算するのをやめていた。

 

「……じゃあ、少しだけ」

 

自分でも、なぜその言葉が口をついたのかよくわからなかった。

 

「やった。ありがとう」

 

笑った彼女の顔が、不思議と見覚えのある気がした。

 

並んで歩き出す。制服の袖がかすかに揺れて、湊の腕に触れる。

 

家までの道は短いはずなのに、その夜だけは、やけに静かで、やけに長かった。

 

街の音が遠く、歩くたびに空気が淡く揺れる。

まるで、どこか違う世界に足を踏み入れてしまったような、そんな夜だった。

 

◇◇◇

 

玄関の鍵が開く音が、やけに響いた。

 

見慣れた部屋に、見慣れない気配が一つだけ混じるだけで、まるで別の場所に変わってしまったようだった。

 

紬は黙って靴を脱ぎ、リビングの隅に腰を下ろす。

 

「お水、いる?」

 

「……ううん。大丈夫」

 

少しの沈黙。

 

「この匂い、湊くんの部屋だね」

 

「……まあ、俺の部屋だからな」

 

「なんか、懐かしい気がする。不思議だけど」

 

それは夢の中で聞いたような台詞だった。

けれど、思い出そうとしても何も浮かばない。

 

どこか、記憶の輪郭が曖昧になっていく感覚。

この夜が、どこか現実じゃないような気がした。

 

湊はソファに腰を下ろし、言葉が見つからないまま天井を見上げた。

 

「……ねえ、湊くん」

 

紬がぽつりと声を落とす。

 

「“このまま、明日が来なければいい”って、思ったことある?」

 

その問いは、唐突ではなく、ただ淡くそこに置かれたようだった。

 

「……あるよ。たまにだけど」

 

「わたしも。……けっこう、しょっちゅう」

 

笑いながら、目だけが寂しげだった。

 

その笑顔に、終わりの匂いが混じっているような気がして——

けれど湊は、まだ知らなかった。

 

この夜を境に、自分の“ただの日常”が、もう二度と戻らなくなることを。

これでいい?

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