朝。
目を覚ますと、隣で紬が眠っていた。
規則正しい呼吸と、肩にかかる髪。
その顔は、昨日と変わらない静けさを湛えていて、それがなぜか、少し怖かった。
湊はそっとベッドから出ると、最小限の音で身支度を始めた。
バスルームでシャツの襟を整え、鏡越しに自分の顔を見つめる。
何かが薄く剥がれている気がした。
でも、まだ“剥がれきって”はいない。
リビングに向かうと、背後から柔らかな足音が聞こえた。
「湊さん……おはようございます」
紬の声。目をこすりながら、寝巻き姿で立っていた。
「おはよう。……ごめん、起こした?」
「いえ、大丈夫です」
小さく笑って、キッチンに向かう気配。
「いいよ。朝ごはんは、自分でなんとかするから」
「……そうですか。……じゃあ、いってらっしゃいませ」
何も変わっていない――そう言われた気がした。
湊は小さくうなずき、玄関のドアを開けた。
ほんの少しだけ、空気が重たく感じられた。
◇◇◇
会社に着いてからは、作業に没頭するように時間を潰した。
メールの整理、見積もりのチェック、案件の進捗確認。
次々に積まれていくタスクは、頭の中を空っぽにしてくれた。
けれど、昼前、ふと気が緩んだ瞬間、胸の奥にあの静かな声が蘇った。
「……いってらっしゃいませ」
ただそれだけなのに、ぞっとするほど生々しい。
まるで、あの時間が何かの“再演”だったような感覚があった。
(俺たち、いつからこんなふうになったんだろう)
行為の後、感情が残らない夜が増えた。
それは快楽が減ったわけじゃない。むしろ、深まっていた。
でもそれが、心を満たすものではなかったというだけの話だ。
周囲の同僚たちの笑い声が遠く聞こえる。
佐々木が湊の近くを通ったが、目を合わせようとはしなかった。
彼女には何かが伝わっていたのだろう。
いや、そう思うのは湊の自意識過剰かもしれない。
けれど、目を逸らされたというだけで、心がひどくざらついた。
仕事を終えて外に出ると、街は初夏の湿った風に包まれていた。
夕暮れのオレンジが高層ビルの窓に映っている。
足を止めて、スマホを確認する。
紬からの連絡は、やはりない。
(……どうして、こんなふうになってしまったんだろう)
昨夜、抱き合った。
抱きながら、これでよかったのかと、心のどこかで思っていた。
彼女は何も言わなかった。ただ、黙って受け入れていた。
その沈黙こそが、何よりも“支配的”だった。
(壊す気はなかった。けど……もう元には戻れない)
人の心は、どこまで飲み込めるのだろう。
どこまで自分を押し殺して、他人の欲を生きることができるのだろう。
もし紬が、それを“愛”だと信じていたとしたら――。
湊は歩道脇のベンチに腰を下ろし、自販機の缶コーヒーを開けた。
苦味が舌に広がっても、何の実感も湧かなかった。
(優しさって、何だ)
ただ相手に合わせること?
全部受け入れること?
それとも――何も言わずに、ただ壊れていくこと?
それが「紬の優しさ」だとしたら、湊はその優しさに甘えすぎていた。
歩道の先に、マンションの灯りが見えた。
今日も、あの部屋で彼女が待っている。
「おかえりなさい」と笑ってくれる。
けれど今夜、その言葉を聞くのが少しだけ怖かった。
湊は小さく息を吐き、マンションの階段をゆっくりと上っていった。
◇◇◇
玄関の扉を開けると、いつも通りの匂いが迎えてくれる。
薄く炊かれた出汁の香りと、静かな室内。
紬はリビングのソファに座っていた。
薄手のワンピースに着替えていて、手元には湯気の立つお椀が並んでいる。
「おかえりなさいませ、湊さん」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
けれど、顔には出さず、靴を脱ぎながら返す。
「……ただいま」
食卓につくと、いつも通りの料理が並べられていた。
肉じゃが、味噌汁、冷や奴。ありふれた、けれど丁寧な食卓。
「今日は、お味噌ちょっと甘めにしてみたんです。湊さん、たしか疲れてるときは甘いほうがいいって……」
「……ありがとう」
湊は箸を持ち、味噌汁をひとくちすする。
たしかに、ほんのりと甘い。
それだけで、少し泣きそうになった。
だが、その感情は、もはや“優しさへの感謝”ではなかった。
そうした優しさの積み重ねが、逆に彼女を縛ってしまっていたのではないか――
そう思ってしまった瞬間、湊は、もうこの関係を“続けられない”と自覚してしまった。
「……ごちそうさま」
湊は途中で箸を置いた。紬の箸も、そこで止まった。
「お口に、合いませんでしたか?」
「……そうじゃない。美味しかったよ。ほんとに」
「よかったです」
にこり、と笑うその顔に、すがるような色がにじんでいた。
一歩ずつ、後戻りできない場所へ来ている。
湊はそのことに、はっきり気づいていた。
食器を片付けている最中、紬がぽつりと口にする。
「……夜、少しだけ、時間もらってもいいですか?」
「……うん」
その“意味”は明白だった。
けれど、湊は首を縦に振ってしまっていた。
口では拒絶できる自信が、まだなかった。
◇◇◇
その夜、ベッドに入ると、紬は湊の胸元に身体を寄せてきた。
細い指がシャツのボタンを外していく。
その手は柔らかくて、優しくて、でも、どこか必死だった。
「……紬」
呼びかけた声に、彼女はぴたりと手を止める。
そして、小さく首をかしげるように笑った。
「……どうしたんですか?」
「今日は……ちょっと、そういう気分じゃないんだ」
「……そっか」
紬の目が、すっと細くなった。
すぐに微笑みが戻ったが、その笑みは明らかに、強張っていた。
「わたし……何か、嫌なことしましたか?」
「してない。してないよ。そういうんじゃない。ただ……少し、考えたいだけなんだ」
「……考えたい?」
「うん。……このままで、いいのかなって」
その一言に、紬の手が完全に止まった。
目の前で、何かが“崩れた音”がした気がした。
「……そう、ですか」
「ごめん。でも、俺もちゃんと考えたい。紬のこと、大事にしたいからこそ――」
「それ、いつから考えてましたか?」
「え……?」
「その顔、ずっとしてましたよ。今朝も。昨日も。その前も」
紬の声が震えていた。怒りではなく、かすかな哀しみと、自嘲のような響きだった。
「……湊さんは、わたしを大事にしてるふりをしながら、
ずっと“終わるタイミング”を探してたんですよね」
「違う……!」
「本当に?」
湊は、言葉が出なかった。
否定はできた。けれど、心のどこかではそれを“図星”だと感じていた。
紬は静かにベッドから身を離し、シャツを羽織る。
「わたし、そろそろ帰ります。……明日、連絡しますね」
「……紬」
「今日は、怒らないです。ちゃんと、自分の部屋で泣くから」
扉の前で、紬が一度だけ振り返った。
その瞳に、怒りも哀しみもなかった。ただ、すべてを受け入れた人間の目だった。
「湊さんが選んだことなら……ちゃんと見届けます」
そのまま、彼女は音もなく部屋を出ていった。
一人になった部屋で、湊は崩れるように座り込んだ。
何も言い返せなかったことが、苦しかった。
(本当に、これでよかったのか)
けれど、少なくとも今夜、身体を重ねなかったことだけは、後悔していなかった。
それだけは、確かに“選んだ”ことだった。
ようやく、ほんの少しだけ、自分の足で立てた気がした。
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いいよ。もう十分だよ
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