※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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第10話

朝。

目を覚ますと、隣で紬が眠っていた。

規則正しい呼吸と、肩にかかる髪。

その顔は、昨日と変わらない静けさを湛えていて、それがなぜか、少し怖かった。

 

湊はそっとベッドから出ると、最小限の音で身支度を始めた。

バスルームでシャツの襟を整え、鏡越しに自分の顔を見つめる。

何かが薄く剥がれている気がした。

でも、まだ“剥がれきって”はいない。

 

リビングに向かうと、背後から柔らかな足音が聞こえた。

「湊さん……おはようございます」

紬の声。目をこすりながら、寝巻き姿で立っていた。

 

「おはよう。……ごめん、起こした?」

 

「いえ、大丈夫です」

小さく笑って、キッチンに向かう気配。

 

「いいよ。朝ごはんは、自分でなんとかするから」

「……そうですか。……じゃあ、いってらっしゃいませ」

 

何も変わっていない――そう言われた気がした。

湊は小さくうなずき、玄関のドアを開けた。

ほんの少しだけ、空気が重たく感じられた。

 

◇◇◇

 

会社に着いてからは、作業に没頭するように時間を潰した。

メールの整理、見積もりのチェック、案件の進捗確認。

次々に積まれていくタスクは、頭の中を空っぽにしてくれた。

 

けれど、昼前、ふと気が緩んだ瞬間、胸の奥にあの静かな声が蘇った。

 

「……いってらっしゃいませ」

 

ただそれだけなのに、ぞっとするほど生々しい。

まるで、あの時間が何かの“再演”だったような感覚があった。

 

(俺たち、いつからこんなふうになったんだろう)

 

行為の後、感情が残らない夜が増えた。

それは快楽が減ったわけじゃない。むしろ、深まっていた。

でもそれが、心を満たすものではなかったというだけの話だ。

 

周囲の同僚たちの笑い声が遠く聞こえる。

佐々木が湊の近くを通ったが、目を合わせようとはしなかった。

彼女には何かが伝わっていたのだろう。

いや、そう思うのは湊の自意識過剰かもしれない。

けれど、目を逸らされたというだけで、心がひどくざらついた。

 

仕事を終えて外に出ると、街は初夏の湿った風に包まれていた。

夕暮れのオレンジが高層ビルの窓に映っている。

 

足を止めて、スマホを確認する。

紬からの連絡は、やはりない。

 

(……どうして、こんなふうになってしまったんだろう)

 

昨夜、抱き合った。

抱きながら、これでよかったのかと、心のどこかで思っていた。

彼女は何も言わなかった。ただ、黙って受け入れていた。

その沈黙こそが、何よりも“支配的”だった。

 

(壊す気はなかった。けど……もう元には戻れない)

 

人の心は、どこまで飲み込めるのだろう。

どこまで自分を押し殺して、他人の欲を生きることができるのだろう。

もし紬が、それを“愛”だと信じていたとしたら――。

 

湊は歩道脇のベンチに腰を下ろし、自販機の缶コーヒーを開けた。

苦味が舌に広がっても、何の実感も湧かなかった。

 

(優しさって、何だ)

 

ただ相手に合わせること?

全部受け入れること?

それとも――何も言わずに、ただ壊れていくこと?

 

それが「紬の優しさ」だとしたら、湊はその優しさに甘えすぎていた。

 

歩道の先に、マンションの灯りが見えた。

今日も、あの部屋で彼女が待っている。

「おかえりなさい」と笑ってくれる。

 

けれど今夜、その言葉を聞くのが少しだけ怖かった。

 

湊は小さく息を吐き、マンションの階段をゆっくりと上っていった。

 

◇◇◇

 

玄関の扉を開けると、いつも通りの匂いが迎えてくれる。

薄く炊かれた出汁の香りと、静かな室内。

紬はリビングのソファに座っていた。

薄手のワンピースに着替えていて、手元には湯気の立つお椀が並んでいる。

 

「おかえりなさいませ、湊さん」

 

その言葉に、胸の奥がざわついた。

けれど、顔には出さず、靴を脱ぎながら返す。

 

「……ただいま」

 

食卓につくと、いつも通りの料理が並べられていた。

肉じゃが、味噌汁、冷や奴。ありふれた、けれど丁寧な食卓。

 

「今日は、お味噌ちょっと甘めにしてみたんです。湊さん、たしか疲れてるときは甘いほうがいいって……」

 

「……ありがとう」

 

湊は箸を持ち、味噌汁をひとくちすする。

たしかに、ほんのりと甘い。

 

それだけで、少し泣きそうになった。

 

だが、その感情は、もはや“優しさへの感謝”ではなかった。

そうした優しさの積み重ねが、逆に彼女を縛ってしまっていたのではないか――

そう思ってしまった瞬間、湊は、もうこの関係を“続けられない”と自覚してしまった。

 

「……ごちそうさま」

湊は途中で箸を置いた。紬の箸も、そこで止まった。

 

「お口に、合いませんでしたか?」

 

「……そうじゃない。美味しかったよ。ほんとに」

 

「よかったです」

にこり、と笑うその顔に、すがるような色がにじんでいた。

一歩ずつ、後戻りできない場所へ来ている。

湊はそのことに、はっきり気づいていた。

 

食器を片付けている最中、紬がぽつりと口にする。

 

「……夜、少しだけ、時間もらってもいいですか?」

 

「……うん」

 

その“意味”は明白だった。

けれど、湊は首を縦に振ってしまっていた。

口では拒絶できる自信が、まだなかった。

 

◇◇◇

 

その夜、ベッドに入ると、紬は湊の胸元に身体を寄せてきた。

細い指がシャツのボタンを外していく。

その手は柔らかくて、優しくて、でも、どこか必死だった。

 

「……紬」

 

呼びかけた声に、彼女はぴたりと手を止める。

そして、小さく首をかしげるように笑った。

 

「……どうしたんですか?」

 

「今日は……ちょっと、そういう気分じゃないんだ」

 

「……そっか」

 

紬の目が、すっと細くなった。

すぐに微笑みが戻ったが、その笑みは明らかに、強張っていた。

 

「わたし……何か、嫌なことしましたか?」

 

「してない。してないよ。そういうんじゃない。ただ……少し、考えたいだけなんだ」

 

「……考えたい?」

 

「うん。……このままで、いいのかなって」

 

その一言に、紬の手が完全に止まった。

目の前で、何かが“崩れた音”がした気がした。

 

「……そう、ですか」

 

「ごめん。でも、俺もちゃんと考えたい。紬のこと、大事にしたいからこそ――」

 

「それ、いつから考えてましたか?」

 

「え……?」

 

「その顔、ずっとしてましたよ。今朝も。昨日も。その前も」

 

紬の声が震えていた。怒りではなく、かすかな哀しみと、自嘲のような響きだった。

 

「……湊さんは、わたしを大事にしてるふりをしながら、

ずっと“終わるタイミング”を探してたんですよね」

 

「違う……!」

 

「本当に?」

 

湊は、言葉が出なかった。

否定はできた。けれど、心のどこかではそれを“図星”だと感じていた。

 

紬は静かにベッドから身を離し、シャツを羽織る。

 

「わたし、そろそろ帰ります。……明日、連絡しますね」

 

「……紬」

 

「今日は、怒らないです。ちゃんと、自分の部屋で泣くから」

 

扉の前で、紬が一度だけ振り返った。

その瞳に、怒りも哀しみもなかった。ただ、すべてを受け入れた人間の目だった。

 

「湊さんが選んだことなら……ちゃんと見届けます」

 

そのまま、彼女は音もなく部屋を出ていった。

 

一人になった部屋で、湊は崩れるように座り込んだ。

何も言い返せなかったことが、苦しかった。

 

(本当に、これでよかったのか)

 

けれど、少なくとも今夜、身体を重ねなかったことだけは、後悔していなかった。

それだけは、確かに“選んだ”ことだった。

 

ようやく、ほんの少しだけ、自分の足で立てた気がした。




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