目を覚ましたとき、隣に紬の姿はなかった。
部屋の空気はまだ夜の名残を抱いていた。窓の外に広がる灰色の空が、ゆっくりと朝へと変わっていく。淡い光がカーテン越しに滲み、天井に微かな揺れを落とす。
ベッドのシーツには熱の名残がある。しっとりとした湿り気が、昨夜の出来事を思い出させた。
ゆっくりと身を起こし、寝室を出る。廊下に漂う匂いは、朝の食事の準備によるものだとすぐにわかった。
キッチンに立つ紬は、背を向けたまま卵を割っていた。油が弾ける音が、何も言わない彼女の代わりに、淡々と朝の時間を刻んでいる。
「……おはよう」
振り返った紬の顔には笑みがあったが、それはどこか、遠くを見ているような微笑みだった。
「おはよう。コーヒー、先に淹れてあるよ」
彼女は湊のカップに目をやらずに言った。
「昨日は、ごめんね」
不意に紬が言った。
その言葉の意味は明確には示されなかったが、昨夜のことを指しているのだろうと察する。
湊は「いや」とだけ返して、それ以上は何も言わなかった。
彼女の目と、自分の目が合わない。それが思いのほか、堪えた。
◇◇◇
夕方、チャイムの音が鳴ると同時に、扉の向こうから聞き覚えのある声がした。
「兄さん、こんばんは。今日も少しだけ……寄ってもいい?」
美遥だった。
食事を持ってきたという彼女の言葉に、湊は戸惑いながらも頷いた。玄関に立つ美遥は、小ぶりなタッパーを両手で抱えていた。外は雨が降り出したらしく、肩に小さな水滴がいくつか残っていた。
「前に言ってたおかず、もう一回挑戦してみたの。少しだけ味、変えてあるよ」
キッチンに立ち、包みを解く彼女の横顔は、どこか誇らしげで、どこか幼かった。
湊は何も言わずに椅子に腰を下ろし、黙って箸を取る。ひとくち。ふたくち。
「……やっぱり、母さんの味がするな」
ぽつりと出たその言葉に、美遥の表情がぱっと明るくなった。
「ほんと? よかった……。自分じゃ、全然わからなくて」
「味、覚えてるんだな。あのときのまま」
「うん。たぶん、一生忘れない」
言葉を交わしながら、美遥の声には、どこか湊の答えを探るような響きがあった。
けれど湊は気づかないふりをした。気づいてしまったら、何かが変わってしまう気がした。
◇◇◇
紬が帰ってきたのは、夜も更けた頃だった。
湯気の消えかけた洗い物と、食器棚の上に置かれたタッパーを見て、彼女は一度だけ足を止めた。
開いたままの台所の窓からは、まだ雨の匂いが残っていた。
湯から上がった湊がリビングに戻ると、紬はソファに座っていた。
照明は落とされ、間接照明だけが部屋の一角をぼんやり照らしている。
「ごはん、食べたの?」
「ああ、美遥が来てて」
そう言うと、紬は小さく頷いた。
何も言わず、ただそれだけ。言葉が置き去りになる空気が、部屋を支配する。
その沈黙の中で、ふと漂ってきた香りがあった。
それが香水なのか、タッパーに詰められた煮物の残り香なのかはわからない。
けれどその甘さが、なぜか湊の胸に小さな波紋を広げた。
美遥の香り。
子どもの頃には気づかなかった匂い。
妹だと思っていた存在から、何か少し違う輪郭を感じたのは、あの香りのせいだったのかもしれない。
何も変わっていないようで、すべてが少しずつ変わっている。
そのことに、まだ誰もはっきりと気づいていなかった。