※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

12 / 83
if 7話

目を覚ましたとき、隣に紬の姿はなかった。

 

部屋の空気はまだ夜の名残を抱いていた。窓の外に広がる灰色の空が、ゆっくりと朝へと変わっていく。淡い光がカーテン越しに滲み、天井に微かな揺れを落とす。

ベッドのシーツには熱の名残がある。しっとりとした湿り気が、昨夜の出来事を思い出させた。

 

ゆっくりと身を起こし、寝室を出る。廊下に漂う匂いは、朝の食事の準備によるものだとすぐにわかった。

 

キッチンに立つ紬は、背を向けたまま卵を割っていた。油が弾ける音が、何も言わない彼女の代わりに、淡々と朝の時間を刻んでいる。

 

「……おはよう」

 

振り返った紬の顔には笑みがあったが、それはどこか、遠くを見ているような微笑みだった。

 

「おはよう。コーヒー、先に淹れてあるよ」

 

彼女は湊のカップに目をやらずに言った。

 

「昨日は、ごめんね」

 

不意に紬が言った。

その言葉の意味は明確には示されなかったが、昨夜のことを指しているのだろうと察する。

 

湊は「いや」とだけ返して、それ以上は何も言わなかった。

彼女の目と、自分の目が合わない。それが思いのほか、堪えた。

 

◇◇◇

 

夕方、チャイムの音が鳴ると同時に、扉の向こうから聞き覚えのある声がした。

 

「兄さん、こんばんは。今日も少しだけ……寄ってもいい?」

 

美遥だった。

 

食事を持ってきたという彼女の言葉に、湊は戸惑いながらも頷いた。玄関に立つ美遥は、小ぶりなタッパーを両手で抱えていた。外は雨が降り出したらしく、肩に小さな水滴がいくつか残っていた。

 

「前に言ってたおかず、もう一回挑戦してみたの。少しだけ味、変えてあるよ」

 

キッチンに立ち、包みを解く彼女の横顔は、どこか誇らしげで、どこか幼かった。

湊は何も言わずに椅子に腰を下ろし、黙って箸を取る。ひとくち。ふたくち。

 

「……やっぱり、母さんの味がするな」

 

ぽつりと出たその言葉に、美遥の表情がぱっと明るくなった。

 

「ほんと? よかった……。自分じゃ、全然わからなくて」

 

「味、覚えてるんだな。あのときのまま」

 

「うん。たぶん、一生忘れない」

 

言葉を交わしながら、美遥の声には、どこか湊の答えを探るような響きがあった。

けれど湊は気づかないふりをした。気づいてしまったら、何かが変わってしまう気がした。

 

◇◇◇

 

紬が帰ってきたのは、夜も更けた頃だった。

 

湯気の消えかけた洗い物と、食器棚の上に置かれたタッパーを見て、彼女は一度だけ足を止めた。

開いたままの台所の窓からは、まだ雨の匂いが残っていた。

 

湯から上がった湊がリビングに戻ると、紬はソファに座っていた。

照明は落とされ、間接照明だけが部屋の一角をぼんやり照らしている。

 

「ごはん、食べたの?」

 

「ああ、美遥が来てて」

 

そう言うと、紬は小さく頷いた。

何も言わず、ただそれだけ。言葉が置き去りになる空気が、部屋を支配する。

 

その沈黙の中で、ふと漂ってきた香りがあった。

それが香水なのか、タッパーに詰められた煮物の残り香なのかはわからない。

けれどその甘さが、なぜか湊の胸に小さな波紋を広げた。

 

美遥の香り。

子どもの頃には気づかなかった匂い。

妹だと思っていた存在から、何か少し違う輪郭を感じたのは、あの香りのせいだったのかもしれない。

 

何も変わっていないようで、すべてが少しずつ変わっている。

そのことに、まだ誰もはっきりと気づいていなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。