※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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if 8話

その朝、目を覚ましたとき、窓の外には柔らかな曇天が広がっていた。

灰色にぼやけた光がカーテン越しに揺れている。休日の朝らしい、何も起こらない予感に包まれていた。

 

湊はしばらく布団の中にいたまま、天井を見つめていた。

体に重さはなく、眠気もない。けれど何かを始めようとするには、少しだけ心が渇いていた。

 

チャイムが鳴った。

 

立ち上がり、寝間着のまま玄関へと向かうと、ドアの向こうに美遥がいた。

白いシャツに薄い紺色のカーディガン、腕には買い物袋を提げている。

 

「おはよう、兄さん。市場に寄ったから、ちょっと寄ってもいいかなって」

 

少しだけ息を弾ませて笑うその声は、遠い記憶の奥から抜け出してきたような響きだった。

断る理由はなく、むしろ拒む隙間が見つからなかった。

 

「上がっていいよ。今、湯も沸かしてないけど」

 

「うん、大丈夫。そのまま座ってて」

 

勝手を知っているように美遥は靴を脱ぎ、台所に立つ。袋の中からは、白身魚、切干大根、手作りの昆布の佃煮、小さなガラス瓶に詰めた梅味噌。

湊が黙ってその姿を見ていると、彼女は振り返って少し照れたように笑った。

 

「こういうの、昔、お母さんがよく作ってたでしょ。ちょっとだけ真似してみたの」

 

湯気の立つ鍋から、出汁の香りが部屋に広がる。昆布と鰹の柔らかい匂いが、壁紙に染みた日常の空気と混ざり合って、懐かしい層を生み出していた。

ちゃぶ台に湯飲みを置き、湊はひとくち味噌汁をすする。

 

「……こういう朝、久しぶりだな」

 

その言葉に、美遥はうれしそうに瞬きをした。

彼女の表情に、何かを求めるような色はなかった。ただそこに在ることを、自然と肯定しているような、そんな静けさがあった。

 

◇◇◇

 

食事を終えてしばらく経った頃、寝室から紬が現れた。

まだ眠たげな目をこすりながら、ふとリビングに目を向けて、言葉が止まった。

 

「……あ、来てたんだ。おはよう」

 

「おはようございます。ちょっと買い物のついでで」

 

美遥が自然な声で返す。紬は微笑みを作って頷き、湊と目を合わせぬまま、キッチンへと歩いていった。

流しに並んだ食器、テーブルの片隅に置かれたタッパー、美遥の手による朝の痕跡。

紬は一つひとつを見渡し、何も言わず水を出し始めた。

 

「私、そろそろ行くね。兄さん、また今度。紬さんも、お邪魔しました」

 

美遥は柔らかく頭を下げ、玄関で軽く靴音を立てて出て行った。

その姿を追いかけるように残ったのは、ほんのり甘い匂いだった。

どこかで嗅いだことのある香り。けれど名前のつかないまま、記憶に残ってしまうような匂いだった。

 

◇◇◇

 

その夜、湊がシャワーを浴び終えて戻ると、紬はキッチンに立っていた。

濡れた髪を結い上げたまま、皿を一枚ずつ、静かに洗っている。

 

湯を落とす音が、室内に小さく響いていた。

 

「……あの子、最近よく来るよね」

 

ぽつりと落とされた言葉に、湊はしばらく返事をしなかった。

その沈黙が何を意味するのか、自分でもはっきりとはわからなかった。

 

「気にしてないよ。ただ、あいつも……まあ、いろいろあるんだろ」

 

ようやくそう答えると、紬は手を止めないまま言った。

 

「そうだね。……でも、なんでだろう。私がいないほうが、あの子、嬉しそうに見えるの」

 

その声は、怒りでも嫉妬でもなかった。

ただ、自分の輪郭が薄れていくのを感じているような、そういう種類の音だった。

 

湊は答えられなかった。

ただ、窓の外を見た。夜の帳は静かに降りて、向こうのマンションの灯がぼんやりと滲んでいる。

部屋の中は静かで、食器を洗う水の音だけが、小さく続いていた。

 

まるで、何かを遠ざけるように。

 

そして、何かが近づいてきていることを、まだ誰も言葉にできなかった。

 

◆◆◆

 

帰り道、風が頬に触れるたび、熱が少しずつ引いていくのがわかった。

ほんの少し前まで、あの部屋の中にいたことが嘘みたいだった。

 

白いビニール傘を片手に、私はゆっくりと歩く。アスファルトはまだ乾ききっておらず、足元で水たまりが空を映していた。

家を出るとき、湊が玄関まで見送ってくれた。そのとき、何を話したかもう思い出せない。ただ、あの笑顔だけが残っている。

 

あの部屋の空気が、心地よかった。

出汁の匂い。湯気。湊の「久しぶりだな」って声。

たぶん、私はその全部に、期待してしまっていた。妹以上の何かを、どこかで――。

 

でも、私は妹なんだ。

血はつながってない。けれど“家族”だった。それが全部だった。はずだった。

 

「……まだ、妹でいられるかな」

 

ぽつりと呟いた声が、雨の音に溶けていく。

言葉にしてしまった瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

 

私は今、どこにいるんだろう。

家族でもない、他人でもない。だけど、“彼女”にもなれない。

 

どこにも立てていない自分に、気づいてしまっていた。

それでも、もう少しだけ、このままの距離でいたいと思ってしまう。

 

そのわがままを、誰かに責められたわけじゃないのに、

なぜか、罪悪感だけが足元を重たくしていた。

 

ふと見上げた空に、雲の隙間から光がこぼれていた。

まるで、ほんの一瞬だけ、自分に差しているみたいに見えた。

 

「……兄さん」

 

声にはならなかった名を、心の中でそっと呼ぶ。

それだけで、少しだけ息がしやすくなった。

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