その朝、目を覚ましたとき、窓の外には柔らかな曇天が広がっていた。
灰色にぼやけた光がカーテン越しに揺れている。休日の朝らしい、何も起こらない予感に包まれていた。
湊はしばらく布団の中にいたまま、天井を見つめていた。
体に重さはなく、眠気もない。けれど何かを始めようとするには、少しだけ心が渇いていた。
チャイムが鳴った。
立ち上がり、寝間着のまま玄関へと向かうと、ドアの向こうに美遥がいた。
白いシャツに薄い紺色のカーディガン、腕には買い物袋を提げている。
「おはよう、兄さん。市場に寄ったから、ちょっと寄ってもいいかなって」
少しだけ息を弾ませて笑うその声は、遠い記憶の奥から抜け出してきたような響きだった。
断る理由はなく、むしろ拒む隙間が見つからなかった。
「上がっていいよ。今、湯も沸かしてないけど」
「うん、大丈夫。そのまま座ってて」
勝手を知っているように美遥は靴を脱ぎ、台所に立つ。袋の中からは、白身魚、切干大根、手作りの昆布の佃煮、小さなガラス瓶に詰めた梅味噌。
湊が黙ってその姿を見ていると、彼女は振り返って少し照れたように笑った。
「こういうの、昔、お母さんがよく作ってたでしょ。ちょっとだけ真似してみたの」
湯気の立つ鍋から、出汁の香りが部屋に広がる。昆布と鰹の柔らかい匂いが、壁紙に染みた日常の空気と混ざり合って、懐かしい層を生み出していた。
ちゃぶ台に湯飲みを置き、湊はひとくち味噌汁をすする。
「……こういう朝、久しぶりだな」
その言葉に、美遥はうれしそうに瞬きをした。
彼女の表情に、何かを求めるような色はなかった。ただそこに在ることを、自然と肯定しているような、そんな静けさがあった。
◇◇◇
食事を終えてしばらく経った頃、寝室から紬が現れた。
まだ眠たげな目をこすりながら、ふとリビングに目を向けて、言葉が止まった。
「……あ、来てたんだ。おはよう」
「おはようございます。ちょっと買い物のついでで」
美遥が自然な声で返す。紬は微笑みを作って頷き、湊と目を合わせぬまま、キッチンへと歩いていった。
流しに並んだ食器、テーブルの片隅に置かれたタッパー、美遥の手による朝の痕跡。
紬は一つひとつを見渡し、何も言わず水を出し始めた。
「私、そろそろ行くね。兄さん、また今度。紬さんも、お邪魔しました」
美遥は柔らかく頭を下げ、玄関で軽く靴音を立てて出て行った。
その姿を追いかけるように残ったのは、ほんのり甘い匂いだった。
どこかで嗅いだことのある香り。けれど名前のつかないまま、記憶に残ってしまうような匂いだった。
◇◇◇
その夜、湊がシャワーを浴び終えて戻ると、紬はキッチンに立っていた。
濡れた髪を結い上げたまま、皿を一枚ずつ、静かに洗っている。
湯を落とす音が、室内に小さく響いていた。
「……あの子、最近よく来るよね」
ぽつりと落とされた言葉に、湊はしばらく返事をしなかった。
その沈黙が何を意味するのか、自分でもはっきりとはわからなかった。
「気にしてないよ。ただ、あいつも……まあ、いろいろあるんだろ」
ようやくそう答えると、紬は手を止めないまま言った。
「そうだね。……でも、なんでだろう。私がいないほうが、あの子、嬉しそうに見えるの」
その声は、怒りでも嫉妬でもなかった。
ただ、自分の輪郭が薄れていくのを感じているような、そういう種類の音だった。
湊は答えられなかった。
ただ、窓の外を見た。夜の帳は静かに降りて、向こうのマンションの灯がぼんやりと滲んでいる。
部屋の中は静かで、食器を洗う水の音だけが、小さく続いていた。
まるで、何かを遠ざけるように。
そして、何かが近づいてきていることを、まだ誰も言葉にできなかった。
◆◆◆
帰り道、風が頬に触れるたび、熱が少しずつ引いていくのがわかった。
ほんの少し前まで、あの部屋の中にいたことが嘘みたいだった。
白いビニール傘を片手に、私はゆっくりと歩く。アスファルトはまだ乾ききっておらず、足元で水たまりが空を映していた。
家を出るとき、湊が玄関まで見送ってくれた。そのとき、何を話したかもう思い出せない。ただ、あの笑顔だけが残っている。
あの部屋の空気が、心地よかった。
出汁の匂い。湯気。湊の「久しぶりだな」って声。
たぶん、私はその全部に、期待してしまっていた。妹以上の何かを、どこかで――。
でも、私は妹なんだ。
血はつながってない。けれど“家族”だった。それが全部だった。はずだった。
「……まだ、妹でいられるかな」
ぽつりと呟いた声が、雨の音に溶けていく。
言葉にしてしまった瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
私は今、どこにいるんだろう。
家族でもない、他人でもない。だけど、“彼女”にもなれない。
どこにも立てていない自分に、気づいてしまっていた。
それでも、もう少しだけ、このままの距離でいたいと思ってしまう。
そのわがままを、誰かに責められたわけじゃないのに、
なぜか、罪悪感だけが足元を重たくしていた。
ふと見上げた空に、雲の隙間から光がこぼれていた。
まるで、ほんの一瞬だけ、自分に差しているみたいに見えた。
「……兄さん」
声にはならなかった名を、心の中でそっと呼ぶ。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。