朝の光がまだ淡い時間帯。
美遥は鏡の前でそっと首元を見つめていた。
普段なら選ばない、淡いピンクのカットソー。髪はいつもより少しだけ巻いている。
理由は自分でもわからない。
「別に誰かに見せるためじゃない」
そう繰り返しながらも、少しだけ胸がざわついていた。
鏡の向こうの自分は、どこか落ち着かず、ほんの少しだけ期待を含んだ眼差しだった。
そういう気分の朝だった。
◇◇◇
台所に立つと、エプロン越しにその柔らかな布の感触が心地よく感じられる。
味噌を溶かす音、煮物の匂い。
ただ作るだけでいいのに、どこか手順が丁寧になっていた。
「もうすぐ帰ってくるかな……」
ぽつりと呟き、また鏡で見た自分の顔を思い出す。
自分が無意識に変わっていることに、まだ気づいていなかった。
鍋の中で味噌がふつふつと溶けていく。
小さな泡が音もなく割れて、香りがふわりと立ち上がった。
味見をしながら、美遥はそっと湯を止める。
出汁を取った後の昆布は、刻んで佃煮にした。にんじんは細く切って、彩りに。
“手伝わせて”とは言わなかった。頼まれたわけでもない。
ただ、作って、並べて、湊が食べるのを見ていたかった。
「もうすぐ帰ってくるかな……」
独り言のように呟いて、少しだけ口元が緩んだ。
エプロンの裾を握りしめて、緊張をひとつ逃す。
この部屋にいる時間が、少しずつ“懐かしい”から“心地いい”に変わっていくのを感じていた。
けれど、その変化に名前をつけてしまうと、何かが壊れてしまいそうで、まだ黙っている。
食卓に器を並べ終えたとき、玄関の鍵が回る音がした。
胸の奥が、ふっと跳ねる。
◇◇◇
部屋に入ると、すぐに匂いでわかった。
出汁の香り。味噌。柔らかい煮物の湯気。
その全部が、記憶の底に結びついていて、言葉にする前に懐かしさが喉を満たした。
「ただいま」
そう言うと、美遥がふり返った。
エプロンをつけたまま、どこか誇らしげに微笑んでいる。
台所の光が彼女の頬を照らし、湯気がその輪郭を柔らかく曇らせていた。
「今日も、おつかれさま。ちょっと早めに来ちゃって、ごめんね」
「いや……助かるよ。こういうの、ありがたい」
そう言って椅子に座ると、彼女が小鉢を並べる音がやけに静かに響いた。
箸を取ってひとくち。舌に馴染む味が、すっと身体の奥まで染み渡る。
「なんか……懐かしいな。こういうの」
ぽつりと漏らした言葉に、美遥はうれしそうに頷いた。
「兄さんが小さい頃、よく母さんに言ってたでしょ。『今日の味噌汁、うまい』って。私、それ、いつも聞いてたから」
「ああ……そうだっけな」
記憶が曖昧なまま、けれど不思議と違和感はなかった。
その頃の美遥の姿が、ぼんやりと浮かぶ。少し離れたところから、自分のことをじっと見ていた小さな影。
あのとき気づかなかったまなざしに、今になって追いつきそうになる。
でも、それを明確な意味にすることが怖くて、湊は味噌汁に視線を落とした。
「……兄さん、私、ここにいてもいいのかな」
ふいに、美遥が呟いた。
言葉に詰まる。
どう答えれば正しいのかがわからなかった。
「……助かってるよ。ほんとに」
それが限界だった。
◇◇◇
ドアを開けたとき、もう湯気の匂いがしていた。
出汁と味噌の混ざった、あたたかくて、居場所をつくる匂い。
それだけで、もう“自分のいない時間”があったことを悟る。
玄関にスニーカー。小さくて、白くて、よく見慣れたやつ。
リビングから聞こえてくる談笑。
声の調子。間の取り方。
笑っている。美遥も、湊も。
二人の距離は見えないのに、声だけでその“近さ”が伝わってくる。
わざと音を立てずにドアを閉める。
靴を脱いで、鞄を置き、部屋着にも着替えないまま、窓際に立った。
外は、雨が上がっていた。
湿った空気がガラス越しに肌を撫でる。
部屋の奥から食器が重なる音、湯を流す音、そして、笑い声の残響。
「……いなくても、いいのかもしれないな」
誰にも聞かれないように呟いた。
言葉にしてしまうと、本当になってしまいそうで、すぐに口を噤む。
美遥のことが嫌いなわけじゃない。ただ、彼女の“自然さ”が、今の自分の位置をあらわにする。
自分だけが、余っている。
それが、いちばんつらかった。
ふと、湊の笑い声が止まった。
その沈黙の先に、何かが起きていたのか、それとも何もなかったのか。
紬は確かめようとしなかった。ただ、窓の外を見つめていた。
雲の切れ間から、わずかに光がこぼれていた。
でもその光は、自分には届いていない気がした。