※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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if 9話

朝の光がまだ淡い時間帯。

美遥は鏡の前でそっと首元を見つめていた。

普段なら選ばない、淡いピンクのカットソー。髪はいつもより少しだけ巻いている。

理由は自分でもわからない。

「別に誰かに見せるためじゃない」

そう繰り返しながらも、少しだけ胸がざわついていた。

 

鏡の向こうの自分は、どこか落ち着かず、ほんの少しだけ期待を含んだ眼差しだった。

そういう気分の朝だった。

 

◇◇◇

 

台所に立つと、エプロン越しにその柔らかな布の感触が心地よく感じられる。

味噌を溶かす音、煮物の匂い。

ただ作るだけでいいのに、どこか手順が丁寧になっていた。

 

「もうすぐ帰ってくるかな……」

 

ぽつりと呟き、また鏡で見た自分の顔を思い出す。

自分が無意識に変わっていることに、まだ気づいていなかった。

 

鍋の中で味噌がふつふつと溶けていく。

小さな泡が音もなく割れて、香りがふわりと立ち上がった。

 

味見をしながら、美遥はそっと湯を止める。

出汁を取った後の昆布は、刻んで佃煮にした。にんじんは細く切って、彩りに。

“手伝わせて”とは言わなかった。頼まれたわけでもない。

ただ、作って、並べて、湊が食べるのを見ていたかった。

 

「もうすぐ帰ってくるかな……」

 

独り言のように呟いて、少しだけ口元が緩んだ。

エプロンの裾を握りしめて、緊張をひとつ逃す。

 

この部屋にいる時間が、少しずつ“懐かしい”から“心地いい”に変わっていくのを感じていた。

けれど、その変化に名前をつけてしまうと、何かが壊れてしまいそうで、まだ黙っている。

 

食卓に器を並べ終えたとき、玄関の鍵が回る音がした。

胸の奥が、ふっと跳ねる。

 

◇◇◇

 

部屋に入ると、すぐに匂いでわかった。

出汁の香り。味噌。柔らかい煮物の湯気。

その全部が、記憶の底に結びついていて、言葉にする前に懐かしさが喉を満たした。

 

「ただいま」

 

そう言うと、美遥がふり返った。

エプロンをつけたまま、どこか誇らしげに微笑んでいる。

台所の光が彼女の頬を照らし、湯気がその輪郭を柔らかく曇らせていた。

 

「今日も、おつかれさま。ちょっと早めに来ちゃって、ごめんね」

 

「いや……助かるよ。こういうの、ありがたい」

 

そう言って椅子に座ると、彼女が小鉢を並べる音がやけに静かに響いた。

箸を取ってひとくち。舌に馴染む味が、すっと身体の奥まで染み渡る。

 

「なんか……懐かしいな。こういうの」

 

ぽつりと漏らした言葉に、美遥はうれしそうに頷いた。

 

「兄さんが小さい頃、よく母さんに言ってたでしょ。『今日の味噌汁、うまい』って。私、それ、いつも聞いてたから」

 

「ああ……そうだっけな」

 

記憶が曖昧なまま、けれど不思議と違和感はなかった。

その頃の美遥の姿が、ぼんやりと浮かぶ。少し離れたところから、自分のことをじっと見ていた小さな影。

 

あのとき気づかなかったまなざしに、今になって追いつきそうになる。

でも、それを明確な意味にすることが怖くて、湊は味噌汁に視線を落とした。

 

「……兄さん、私、ここにいてもいいのかな」

 

ふいに、美遥が呟いた。

 

言葉に詰まる。

どう答えれば正しいのかがわからなかった。

 

「……助かってるよ。ほんとに」

 

それが限界だった。

 

◇◇◇

 

ドアを開けたとき、もう湯気の匂いがしていた。

出汁と味噌の混ざった、あたたかくて、居場所をつくる匂い。

それだけで、もう“自分のいない時間”があったことを悟る。

 

玄関にスニーカー。小さくて、白くて、よく見慣れたやつ。

 

リビングから聞こえてくる談笑。

声の調子。間の取り方。

笑っている。美遥も、湊も。

二人の距離は見えないのに、声だけでその“近さ”が伝わってくる。

 

わざと音を立てずにドアを閉める。

靴を脱いで、鞄を置き、部屋着にも着替えないまま、窓際に立った。

 

外は、雨が上がっていた。

 

湿った空気がガラス越しに肌を撫でる。

部屋の奥から食器が重なる音、湯を流す音、そして、笑い声の残響。

 

「……いなくても、いいのかもしれないな」

 

誰にも聞かれないように呟いた。

 

言葉にしてしまうと、本当になってしまいそうで、すぐに口を噤む。

美遥のことが嫌いなわけじゃない。ただ、彼女の“自然さ”が、今の自分の位置をあらわにする。

 

自分だけが、余っている。

それが、いちばんつらかった。

 

ふと、湊の笑い声が止まった。

 

その沈黙の先に、何かが起きていたのか、それとも何もなかったのか。

紬は確かめようとしなかった。ただ、窓の外を見つめていた。

 

雲の切れ間から、わずかに光がこぼれていた。

でもその光は、自分には届いていない気がした。

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