朝の光がゆっくりと部屋を満たし、カーテンの隙間から柔らかな日差しが差し込んでいる。
テーブルの上には昨夜の名残の皿が残り、煮物の微かな匂いが空気に溶けていた。
湊はコーヒーカップを手に取り、カップの縁から立ち上る蒸気をじっと見つめた。
ふっと、鼻先に漂うコーヒーの苦味が、一日の始まりを告げるように感じられた。
「ありがとう、美遥」
ぽつりと言ったその言葉は自然で、重くもなく軽くもない、どこか安心に満ちていた。
美遥は洗い物を終え、流しの前で手を拭きながら、ふと横の鏡に映った自分の姿を見た。
淡い色のカットソーは柔らかく肌に馴染み、その質感に触れるたびに指先がそっと動く。
髪を整える指は少し震えていて、普段なら気にしないはずの服の皺を何度も手で伸ばしていた。
「これ、母さんの匂いがした気がする……」
彼女の胸の奥に、小さな胸騒ぎが芽生えていた。無意識のうちに、湊に見られる自分を意識し始めていた。
「そんなに気を遣わなくていいのに」
そう笑いながらも、内心では自分の変化に戸惑いを感じている。
胸のあたりがざわついて、落ち着かず、どうしていいかわからなかった。
湊はその無意識の変化に気づきながらも、目を逸らすことはしなかった。
彼女の横顔を照らす柔らかな朝の光が、透明感を帯びて見え、一瞬見とれた自分に気づいて慌てて目線をテーブルに戻す。
胸の奥が熱くなり、視線をそらせばそらすほど彼女への想いが膨らんでいくのを感じた。
「……助かるよ」
短く言った言葉には、感謝の気持ちと、どこか寂しさを紛らわせる安堵が入り混じっていた。
湊は無理に強がろうとせず、美遥の存在に甘えてしまう自分を認めていた。
それは心地よく、日常の欠けた部分を埋めてくれるようで、同時に少し怖さも感じていた。
◇◇◇
リビングの片隅で、紬はじっと窓の外を見つめていた。
青空の下、街路樹がさわさわと葉を揺らし、爽やかな風が部屋の中に流れ込む。
しかし、その景色は彼女の心の中の嵐とは対照的だった。
スマートフォンの画面は暗く、指先は細かく震えている。
何度も画面を開こうとしては閉じ、送信をためらい、結局何も送らずにそっと置いた。
湊と美遥の笑い声が隣の部屋から漏れてきて、まるで遠い世界のことのように感じられた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、うっすらと涙がにじんだ。
冷たい涙をそっと拭いながら、紬は心の中で繰り返す。
「これは、私だけの問題じゃない」
けれどその言葉はどこか空虚で、胸の苦しみは一向に薄まらなかった。
彼女は自分の存在が、部屋の隅に追いやられたような感覚に苛まれていた。
視界の隅で湊と美遥が笑い合う姿を見ては、胸が引き裂かれるような痛みを覚えた。
聴覚は過敏になり、隣の声がいつもより大きく響く一方で、自分の声は遠く消えてしまうように感じられた。
「もう……限界かもしれない」
その小さな呟きは、誰にも届かないまま夜の静寂に溶けていった。
◇◇◇
夜が更け、家の中は静寂に包まれていた。
美遥はリビングの小さなテーブルに座り、開いた手帳のページを指でそっとなぞる。
昨日作った料理のメモや、次に挑戦したい献立が淡々と書き連ねられていた。
ペンの感触、紙のざらつき、ページをめくる音が静かな部屋に小さく響く。
携帯電話を手に取り、画面を何度も開いたり閉じたりする指先は微かに震えていた。
送信ボタンに指をかけては躊躇い、押すことができずにまた迷いを繰り返す。
「このままじゃ、だめだよね……」
小さな声で自分に言い聞かせ、深く息を吐いた。
窓の外からは夜風が吹き込み、薄いカーテンが揺れる。
街灯の光が壁にゆらゆらと揺れ、淡い影を映し出していた。
その光の揺れがまるで、自分の心の動きを映し出しているかのようで、胸が締めつけられた。
「兄さんのこと、もっと知りたい」
胸の奥からこぼれたその言葉は、まだ誰にも言えない秘密の願いだった。
目を閉じて、揺れる光の中で自分の決意を静かに固めていった。