午後の光は穏やかに、テーブルの上に落ちていた。
湊の部屋の窓辺、ほんの少し開いたガラスの隙間から風が入り、カーテンが微かに揺れる。
その揺れを見つめながら、美遥は指先で湯飲みの縁をなぞっていた。
「……ありがとう、わざわざ時間つくってくれて」
紬が微笑む。その声は、日向のようにやわらかかった。
「ううん、こっちこそ……」
美遥はゆっくりと首を振る。少しだけ、言葉を選ぶような間があった。
湯気の立つ緑茶の香りが、ほのかに鼻をくすぐる。
ふたりの間には長い沈黙が流れ、しかしその静けさは居心地の悪さというよりも、互いを探るような呼吸の重なりだった。
「美遥さんって、すごく丁寧にお料理作るんですね」
「……好きなんです、黙々と切ったり、煮たりするの」
「やさしい味でした。湊くん、ほんとうれしそうだった」
「……うれしかったんです。久しぶりに“おかえり”って言えたから」
小さく、けれど確かに、美遥の声は熱を帯びていた。
カップを置く指先がほんの少し震えているのを、紬は見逃さなかった。
その震えは、感情の種がゆっくりと芽吹いていることの表れのように見えた。
「ねぇ、美遥さん」
紬の声が、少しだけ空気の重さを変えた。
「3人じゃダメかな?」
美遥は、ぴたりと動きを止めた。
湯飲みの中の影が静かに揺れ、彼女の視線がそこに沈み込んでいく。
「……どうして、そんなことを?」
「私ね、うまく言えないけど……置いていかれるのが怖いの」
紬の声には無理に笑うような響きがあった。けれど、それは崩れそうな防波堤のようでもあった。
美遥は、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳の奥に宿る感情は、最初こそ曇りガラスのようにぼんやりとしていたが、次第に光が差し込むように、ある形を持ちはじめていた。
「3人で一緒に、なんて……きっとできない」
言葉を選ぶように、美遥はゆっくりと話しはじめた。
「私は……兄さんを見ているだけで幸せだった。昔からずっと。でも、それだけじゃだめだって思うようになった」
唇がわずかに震え、けれどその言葉は真っ直ぐだった。
「私、兄さんを誰かと分け合うなんてできない」
「……」
「友達としても、妹としても……もう、その枠の中じゃいられないの」
その声は決して大きくはなかった。
けれど、確かに心の奥深くに咲いた想いが、初めて地上に顔を出した瞬間だった。
紬は微かに瞬き、視線をそらした。
「そう、だよね……。ごめん、変なこと聞いた」
笑みを浮かべようとして、けれどその端がほんの少しだけ下がった。
それが精一杯のやさしさであり、敗北の予感でもあった。
部屋の空気は、風が通ったように静かに揺れた。
やがて、何事もなかったかのように、美遥は立ち上がった。
「……そろそろ、台所借りてもいいですか? 今日は兄さんに食べさせたいものがあるんです」
そう言った美遥の声は、ごく自然で、それでいてどこか胸の奥からあふれたような響きがあった。
紬は一瞬だけ目を伏せ、それから笑みを返す。
「うん、いいよ。お皿も、いつもの場所にあるから」
それきり、二人は多くを語らなかった。
リビングの空気が、どこか静かに沈んでいくようだった。
日が傾き、家の中には柔らかな灯りがともる。
湊が帰宅した頃には、すでに台所からいい香りが漂っていた。
「おかえり、兄さん」
振り向いた美遥の笑顔は、どこか少し照れたようだった。
台所には炒めた春巻きが並び、脇にはきれいに盛られた副菜が置かれている。
テーブルクロスの端をさりげなく整えている姿を、湊はしばらく見つめていた。
「……これ、美遥が?」
「うん。ちょっとアレンジしてみた。懐かしいかなって」
湊はひとつ春巻きを口に運び、咀嚼する。
香ばしい衣の中に、やさしい味がじんわりと広がっていく。
「これ、美味しいな……なんか懐かしい味がする」
「よかった……」
美遥は安心したように息を吐き、湊の向かいに座った。
紬も席につき、笑顔を見せていた。
けれど、その笑顔の奥に宿るものは、ふたりには見えなかった。
湊と美遥の会話が自然と弾んでいく。
けれど、そのやりとりの端々に、紬の心は少しずつ遠ざかっていった。
春巻きの香ばしい匂いに包まれながらも、自分の居場所だけがふわふわと浮いているような、そんな感覚。
自分の声だけが、食卓の空気に溶け込まず、宙に残っているような、そんな感覚。
しばらく箸を動かしていた紬は、ふいに手を止めた。
目の前に並ぶ小皿をぼんやりと見つめたまま、ふっと席を立つ。
「……ちょっと、風に当たってくるね」
ふたりが振り返る前に、紬は静かに部屋を出ていった。
その背中には、もう笑顔は残っていなかった。
玄関のドアが開く音と、閉じる音だけが、短く夜の空気に刻まれた。
テーブルの上に、春巻きの匂いだけが、まだ淡く残っていた。