※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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if 12話

朝、湊は静かに出ていった。

「無理しないでね」とだけ残して。

玄関の扉が閉まる音のあと、世界が急に、音を失ったような気がした。

 

ベッドに横たわったまま、しばらく天井を見つめていた。

まぶたを閉じても開いても、残っているのは、昨夜の名残。

首筋に感じた呼吸のぬくもり。指先が触れたときの、わずかな緊張と、それを越えた何か。

確かに近づいたはずの距離が、今は夢の続きのようにふわふわしている。

 

左手を枕の下に伸ばすと、薄くしっとりとした温度が残っていた。

冷めかけたそれに、すこしだけ切なさが滲む。

こんなふうに、静けさって沁みてくるんだ。

 

紬の姿は見かけなかった。

湊が出かける前に、「昼までは戻らないって言ってた」とだけ教えてくれた。

どこへ行ったのかは聞かなかった。

理由も、聞けなかった。

なんとなく、その話題に触れると、何かをこぼしてしまいそうだったから。

 

身体を起こし、足元に投げ出してあったシャツを羽織る。

少し大きめの袖が手の甲にかかって、くすぐったかった。

 

キッチンへ向かいながら、カップをふたつ取り出してしまった。

あ、と気づいて、片方だけ元に戻す。

この家で誰かの生活音を聞くのが、もう当たり前になったような錯覚。

そんなはずないのに。

湯を注ぐ。

漂い始めたコーヒーの香りが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。

 

リビングに戻ると、まだ淡い光のままの部屋がそこにあった。

ソファの隅には、昨夜使ったブランケットが無造作に折り重なっている。

その近く、ローテーブルの上には読みかけの文庫本が伏せられていた。

カバーには喫茶店のロゴ。湊がきっと、どこかの休憩中に手に取ったのだろう。

 

冷蔵庫を開ける。

ヨーグルト、ミニトマト、食べかけのパックご飯。

几帳面な割に、冷蔵庫の中はやや雑然としていた。

でもその不揃いさが、なんだか人間らしくて、息がしやすかった。

 

この部屋には、湊の「ひとりで生きてきた感じ」がきちんと詰まっている。

そう思うと、胸の奥に、軽い波のようなざわつきが広がっていく。

そこに今、自分は――いて、いいのだろうか?

 

カーテンを開けると、雲にうっすらと覆われた空が広がっていた。

風が一度だけ入り込み、レースのカーテンをふわりと持ち上げる。

それが静かに落ち着くまで、目で追っていた。

 

ソファに腰を下ろし、カップを両手で包む。

何も言わなくても伝わったこと。

目が合ったときに、なにも言えなかったこと。

言わなかったことと、言えなかったことの間にある、細くて柔らかい膜みたいなもの。

それが破れてしまわないようにと、そっと呼吸する。

 

テーブルに置いたままのスマホが震える。

その音が、やけに大きく聞こえた。

画面には、母からのメッセージが一行。

 

「今日は帰ってくるの?」

 

文面はやさしいのに、問われている感じがした。

帰る、という行為が今の自分にとって、ひどく重たく感じられる。

どこまでが「うち」で、どこからが「よそ」なのか。

わからなくなる。

スマホを伏せると、音がまた消える。

 

ソファに座りなおして、足を抱える。

昼なのに、部屋は少し肌寒くて、それが心地よかった。

温かくなりすぎると、泣きたくなる気がしたから。

 

「……もう少しだけ」

 

自分の声が、まるで誰かのもののように遠かった。

午後の部屋は、やさしく、ひとりの時間を受け止めてくれていた。

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