朝、湊は静かに出ていった。
「無理しないでね」とだけ残して。
玄関の扉が閉まる音のあと、世界が急に、音を失ったような気がした。
ベッドに横たわったまま、しばらく天井を見つめていた。
まぶたを閉じても開いても、残っているのは、昨夜の名残。
首筋に感じた呼吸のぬくもり。指先が触れたときの、わずかな緊張と、それを越えた何か。
確かに近づいたはずの距離が、今は夢の続きのようにふわふわしている。
左手を枕の下に伸ばすと、薄くしっとりとした温度が残っていた。
冷めかけたそれに、すこしだけ切なさが滲む。
こんなふうに、静けさって沁みてくるんだ。
紬の姿は見かけなかった。
湊が出かける前に、「昼までは戻らないって言ってた」とだけ教えてくれた。
どこへ行ったのかは聞かなかった。
理由も、聞けなかった。
なんとなく、その話題に触れると、何かをこぼしてしまいそうだったから。
身体を起こし、足元に投げ出してあったシャツを羽織る。
少し大きめの袖が手の甲にかかって、くすぐったかった。
キッチンへ向かいながら、カップをふたつ取り出してしまった。
あ、と気づいて、片方だけ元に戻す。
この家で誰かの生活音を聞くのが、もう当たり前になったような錯覚。
そんなはずないのに。
湯を注ぐ。
漂い始めたコーヒーの香りが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。
リビングに戻ると、まだ淡い光のままの部屋がそこにあった。
ソファの隅には、昨夜使ったブランケットが無造作に折り重なっている。
その近く、ローテーブルの上には読みかけの文庫本が伏せられていた。
カバーには喫茶店のロゴ。湊がきっと、どこかの休憩中に手に取ったのだろう。
冷蔵庫を開ける。
ヨーグルト、ミニトマト、食べかけのパックご飯。
几帳面な割に、冷蔵庫の中はやや雑然としていた。
でもその不揃いさが、なんだか人間らしくて、息がしやすかった。
この部屋には、湊の「ひとりで生きてきた感じ」がきちんと詰まっている。
そう思うと、胸の奥に、軽い波のようなざわつきが広がっていく。
そこに今、自分は――いて、いいのだろうか?
カーテンを開けると、雲にうっすらと覆われた空が広がっていた。
風が一度だけ入り込み、レースのカーテンをふわりと持ち上げる。
それが静かに落ち着くまで、目で追っていた。
ソファに腰を下ろし、カップを両手で包む。
何も言わなくても伝わったこと。
目が合ったときに、なにも言えなかったこと。
言わなかったことと、言えなかったことの間にある、細くて柔らかい膜みたいなもの。
それが破れてしまわないようにと、そっと呼吸する。
テーブルに置いたままのスマホが震える。
その音が、やけに大きく聞こえた。
画面には、母からのメッセージが一行。
「今日は帰ってくるの?」
文面はやさしいのに、問われている感じがした。
帰る、という行為が今の自分にとって、ひどく重たく感じられる。
どこまでが「うち」で、どこからが「よそ」なのか。
わからなくなる。
スマホを伏せると、音がまた消える。
ソファに座りなおして、足を抱える。
昼なのに、部屋は少し肌寒くて、それが心地よかった。
温かくなりすぎると、泣きたくなる気がしたから。
「……もう少しだけ」
自分の声が、まるで誰かのもののように遠かった。
午後の部屋は、やさしく、ひとりの時間を受け止めてくれていた。