小さな物音がして、美遥はゆっくりと目を開けた。
薄暗い室内。窓の外はすっかり夜に包まれている。
玄関のほうで、扉が閉まる音がした。
わずかに乱れた視界の中に、湊の姿が見える。
「……ただいま」
その声が、部屋の空気を静かに震わせた。
美遥はソファに横たわったまま、まぶたを持ち上げる。
「おかえり……」
声はまだ眠たげで、喉に少し引っかかった。
湊は鞄を置き、ゆっくりと靴を脱ぐ。
そのまま、何も言わずにこちらに歩いてきて、ソファの隣に腰を下ろした。
美遥との距離が、すっと、ひと呼吸ぶん近づいた。
「何か食べた?」
「……ううん」
「今から作ろうか?」
「……あとででいいよ」
囁くような声に、湊は小さく笑った。
「そう。じゃあ、少しだけ、こうしてようか」
湊の腕が、ゆっくりとソファの背にまわる。
そこに甘えるように美遥が身を寄せた。
肩と肩が触れ合い、二人の呼吸が、静かに重なる。
「今日は……ずっと、ここにいたの」
「うん」
「紬ちゃんも、帰ってこなかった」
「うん。たぶん、気をつかってくれたんだと思う」
湊の声は穏やかだった。
その優しさに、返す言葉を見つけられないまま、美遥は目を閉じる。
すっと髪に指が触れる。
濡れてもいないのに、そっと拭うような動きだった。
額に落ちた前髪を、丁寧に払ってくれる。
それだけの仕草が、どうしようもなく愛しかった。
美遥は、湊の胸元に顔をうずめた。
シャツ越しに伝わる体温。穏やかな鼓動。
その一拍ごとに、自分の輪郭が溶けていくような気がした。
唇が触れる。
ほんのわずか、確かめるように。
目を閉じたまま、美遥は応える。
重なった熱が、次第に深くなる。
肩口をそっと撫でる手。
すこしだけ力を抜いて、美遥の背中を引き寄せる。
シーツの上とは違う、ソファの狭さが、ふたりの距離をさらに近づける。
もう、言葉はいらなかった。
シャツの裾に指がかかる。
脱がせるというより、そっとほどくような仕草で、湊は服の隙間に触れる。
肌に触れた指先が、驚くほど静かで、だからこそ息が詰まりそうだった。
「……湊くん」
その名前を呼んだ瞬間、ふたりの空気が変わった。
それは合図でも、許しでもなく、ただ、いま確かにここにいるという証だった。
湊の手が、美遥の腰を抱く。
頬に触れ、首筋をなぞり、ゆっくりと背中にまわる。
美遥は湊にしがみつくようにして、微かに身体を揺らす。
くちづけが何度も重なり、呼吸の隙間に吐息が落ちていく。
ソファからベッドへ、ふたりの動きは自然で、迷いがなかった。
ベッドの上で、シーツの音が小さく響く。
ふたりの影が重なり、布越しの体温が、夜の闇にゆっくりと溶けていく。
灯りはまだついたまま。
けれど、もう何も見えなくてもいいと思った。
――こんな夜が来るなんて、知らなかった。
心の奥で、そうつぶやいた。
◇◇◇
目を覚ましたとき、窓の外はもう明るかった。
でも、カーテンが閉じられているせいで、部屋の中はまだ夜の名残を残していた。
布団の中に、もうひとつの呼吸がある。
すぐ隣で、湊が眠っていた。
仰向けの姿勢のまま、穏やかな寝息を立てている。
その胸が、ゆっくりと上下するたびに、昨夜のことがよみがえる。
指先の触れ方も、唇の熱さも、確かに全部そこにあったのに――
まるで夢の中で交わしたもののように、儚くて遠い。
自分の指先が、どこか熱を帯びたままだった。
そっと動かして、湊のシャツの端に触れる。
触れただけなのに、そこからまた何かが始まりそうな気がして、慌てて引っ込める。
……怖くはなかった。
けれど、まだ少し、息の仕方がわからない。
こんな朝が来たあと、どうやって振る舞えばいいのか。
布団から出ようとすると、後ろから腕が伸びてきた。
気づかれないように静かに動いたつもりだったのに、湊は起きていた。
「……おはよう」
「……うん、おはよう」
囁くような声が、耳のすぐそばで落ちる。
腕が、美遥の腰にそっと回される。
抱き寄せるというよりは、ふわりと包むような力加減だった。
「もうちょっとだけ、こうしてていい?」
そう言われて、うんとも言えず、美遥は頷いた。
首の後ろに額を預けられたまま、ふたりはまた沈黙する。
でもその沈黙は、昨夜とは違う。
言葉がなくても、何かを伝え合っている気がした。
「……お腹すいたね」
「うん。ちょっとだけ」
「何が食べたい?」
一瞬、答えを考える。
でもすぐには出てこなくて、代わりにこう言った。
「……湊くんが食べたいもの、でいいよ」
「それだと、たぶん……また時間かかるけど」
「……え?」
ふいに、湊が笑った。
あたたかい笑い声だった。
肩が、少しだけ揺れた。
その振動が美遥の背中にも伝わって、つられて笑ってしまう。
こんなふうに、笑える朝が来るなんて。
昨夜とはちがう種類の、柔らかい幸福が、胸の奥を静かに満たしていく。
目を閉じる。
もう一度だけ、深く呼吸をしてみる。
何かが少しだけ変わった朝。
でも、それは――怖くない。