maybe 1話
最初に気づいたのは、声だった。
朝倉先輩の声は低くて、どこか乾いていて、それでいて静かに耳に残る。怒るわけでも、笑うわけでもなく、淡々とした口調に私は少しずつ惹かれていった。
先輩は誰に対しても一定の距離を保っている。優しいのに冷たい。話しかけられれば応えるけど、自分からは決して踏み込まない。
たぶん、それが心地よかった。
深く関わらないことで守られるものがある。そう思っていた。
でも、あの日――先輩が誰かと話しているのを見てしまってから、違った。
理由はわからないけど、胸の奥に引っかかるものができた。
◇◇◇
昼休み、早川あやねはコーヒーを片手にデスクへ戻った。
窓際の席、左斜め向かいに座る朝倉湊は、今日も黙々と画面を見つめている。
少し長めの前髪が伏せた目元を隠し、その表情は硬い。
時折、小さく息を吐き、疲れを隠そうと肩をすくめるその仕草に、どこか優しさが滲んでいるように見えた。
「あ……」
思わず声が出そうになったのを慌てて飲み込む。
先輩は気づいていないようだった。あるいは、気づいていても無視しているのかもしれない。
(このあいだの、あの光景)
あやねは数日前の夜のことを思い返す。
駅へ向かう途中、コンビニ前で偶然、湊を見かけた。
制服姿の見知らぬ少女と話していた。
彼はただ静かに聞いているだけだった。
会話の内容も、関係もわからない。
ただ、先輩があんな表情を見せるのは初めてだった。
あれ以来、その少女の姿は見ていない。
気にすることじゃないと思いつつ、胸の奥に小さなざわめきが残った。
胸のざわめきは、何度考えても理由がわからなかった。ただ、どうしようもなく気になってしまう。
それは嫉妬なのか、期待なのか、自分でもまだわからない。
(私には、あんな顔見せたことないのに)
コーヒーはすっかり冷めていた。
◇◇◇
仕事が一段落した頃、あやねは意を決して声をかけた。
「先輩、今日は残業ですか?」
湊は顔を上げ、短く頷く。
「じゃあ、少しだけ付き合ってください」
あやねの誘いに、湊は一瞬目を細めたが、黙って頷いた。
二人は近くの居酒屋へ向かう。
店内は落ち着いた照明に包まれ、静かなざわめきが広がっていた。
あやねは軽く枝豆を注文した。仕事帰りのささやかな楽しみだ。
ぷちぷちと弾ける豆の食感と、程よい塩気が疲れた身体に染み渡る。
湊は迷わず冷やしトマトを選んだ。
瑞々しい酸味が、彼のさっぱりした嗜好を物語っている。
お酒が進むにつれ、あやねの声は少しずつ柔らかくなった。
「先輩って、ずるいですよね」
ぽつりと漏らした言葉に、あやねは視線を伏せ、指先でコップの縁をそっと撫でる。
湊は一瞬眉をひそめたが、すぐに軽く笑みを浮かべた。
「そうか? まあ、距離感は大事だからな」
いつもの冷たさは消え、どこか気遣うようなニュアンスが含まれている。
その反応に、あやねは少し心をくすぐられた。
「優しいようで、全然優しくない。距離を保ったままで、近づけないんです」
頬を赤らめながら続けると、湊は少し表情を和らげ、軽くからかうように返した。
「お前が勝手に近づこうとしてるだけだろ」
あやねは戸惑いながらも、思わず笑ってしまった。
酔い覚ましに外へ出る。
夜風がひんやりと肌を撫でる。
二人並んで歩く足音だけが、静かな街に響いた。
あやねは隣にいることの不思議さと、これからのことを考えていた。
「先輩、今日はありがとうございました!また一緒に飲んでください!」
「……ああ」
その言葉に、湊は視線をすっと遠くに向けた。
まだ何かを隠しているような気配を感じながらも、あやねはわずかにほっとした。
ぎこちない会話のなか、二人の距離はほんの少し縮まった気がした。