朝の光は、やっぱり少し意地悪だった。
まぶたの裏からぐいぐいと押されるようで、早川あやねは自然に目を開けた。
枕元のスマホの充電コードが絡まっているのが見える。
起き上がっても、頭のどこかに霞がかかったままで、昨夜のことを思い出しかけては途切れる。
昨夜、彼女は先輩・朝倉湊と飲みに行った。
会社近くの少し洒落た居酒屋。先輩が店を選び、あやねは黙ってついていった。
仕事の話も、愚痴も交えた会話は特別ではなかったが、あやねにとっては初めての少し特別な時間だった。
だが、帰り道の夜風が冷たくて、先輩の横顔がいつもより少しだけ寂しそうに見えたとき、胸の奥に芽生えた気持ちがあった。
──もう少しだけ、一緒にいたい。
その思いを声に出せず、ただ胸の奥にしまい込んだ。
先輩はいつものように言った。
「じゃあ、また会社で」
それはまるで「これ以上はない」と線引きをするようで、あやねは頷き、笑いながら家路についた。
◇◇◇
人混みの中の満員電車。
吊革を握る手が少し汗ばんでいるのに気づく。
朝から自己嫌悪の波が静かに広がっていく。
どうしてあんなに素直になれなかったのだろう。
たった一言、「帰りたくない」と言えたら、何かが変わったのだろうか。
言葉にしなかったことを悔やみながら、あやねは自分の無力さに小さくため息をついた。
会社に着き、タイムカードを押す。
普段通りの顔で席に着き、メールチェックを始める。
周囲はいつも通りに賑やかで、誰も何も気づかない。
あやねだけが、心の中で大きな一歩を踏み出したことを誰にも言えずにいる。
そのとき、何気なく視線を上げると、遠くのデスクに先輩の姿があった。
先輩はちらりとこちらを見てすぐ視線を逸らす。
その自然な仕草が、あやねの胸に深く刺さった。
昨日と同じ、いつもと同じ光景。
先輩にとっては何もなかったかのように見えるけれど、あやねの心はまだざわめいていた。
昼休み、自販機の前で偶然先輩と鉢合わせる。
気まずい空気が流れ、あやねが先に軽く会釈する。
先輩は「お疲れ」とだけ返し、少しだけ缶コーヒーを手にして言葉を紡ぐ。
「水曜、業務改善チームのミーティング、来れる?」
「あ、はい。大丈夫です」
思ったより明るい声に、自分でも驚く。
でも嬉しかった。仕事を通してまた関われることに、どこか救われた気がした。
あの夜の出来事は、決してなかったことにはされていないと感じたから。
自販機のガラス越しに映る先輩の横顔は、変わらず静かで優しい。
でも、どこか遠くにいるような気もした。
夕暮れ時。
歩きながらふとスマホを取り出し、昨日の写真フォルダを開く。
特別な意味はない。誰かと写った写真はほとんどないけれど、なぜかそれでも見たくなった。
昨日よりも今日の方が、少しだけ寂しいのはきっと──
「言わなかったからだ」