朝の通勤電車は、いつものようにぎゅうぎゅう詰めだった。
早川あやねは無言で吊革につかまり、周囲の人々の体温や息遣いを感じながら、心をできるだけ無にしようとしていた。
だが、その静けさは長く続かなかった。
背後から、誰かの肘が彼女の肋骨のあたりに強く押し当てられた。
はっと息を呑み、思わず身を震わせる。
「また……」
心の奥がざわつく。
触れられたわけではない。だが、その「押し付けられた感覚」がじわじわと嫌悪感と恐怖を広げていく。
誰かがわざと肘を当てていることはわかる。通勤ラッシュの混雑に紛れての、あのいやらしい行為。
周囲の誰も気づいていない。
気づこうとしない。
あやねの手は自然とぎゅっと吊革を握り直し、目は伏せたままだった。
「言えたらいいのに……でも、言ったら迷惑かもしれないし」
いつも自分の気持ちを押し殺してきた。
次の駅で人が入れ替わるとき、肘は離れた。
その瞬間に、彼女はほっと息をついたが、心はざわざわと収まらなかった。
◇◇◇
会社に着き、自席に着くと、あやねは何度もその朝のことを思い返していた。
自分の胸に渦巻く、説明しきれない嫌悪と孤独感。
誰にも言えずに抱え込むのは、もう限界に近い。
でも、どう切り出せばいいのだろうか。
誰かに話すことは、弱さを見せることなのか。
それとも――
昼休み、社内の廊下ですれ違った湊と目が合う。
あやねは一歩足を止め、深呼吸をしてから口を開いた。
「朝倉先輩、ちょっと相談があるんです」
湊は驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐに落ち着いた表情に戻った。
「どうした、早川?」
あやねは少し俯きながらも、勇気を振り絞って言葉を紡いだ。
「今朝の電車で、誰かの肘が強く当たってきて……触られたわけじゃないんですけど、すごく嫌な気持ちになって」
湊は黙ってあやねの顔をしっかり見つめる。
その真剣なまなざしが、あやねの胸に少しずつ安心を与えていった。
「そうか……それは嫌だったな。怖かっただろう」
彼はゆっくりと息をついてから続ける。
「無理に我慢する必要はない。もしまた同じようなことがあったら、誰かに助けを求めてもいいし、遠慮せずに言ってくれ」
あやねは小さく頷いた。
「焦らず、早川のペースでいいんだ。急いで何か決めなくても大丈夫だから」
湊の言葉は穏やかで、強制感が一切なかった。
「何か力になれることがあれば、遠慮せず言ってくれ」
その一言が、あやねの心に柔らかな灯りをともした。
夕暮れの駅前。
あやねは人波に揉まれながら、足早に改札へ向かっていた。
混雑は朝ほどではないが、それでもまだ多くの人が行き交い、体がぶつかることも珍しくなかった。
突然、また肘が彼女の背中にぐっと押し当てられた。
思わず息を呑み、身をすくめる。
「また……」胸の奥でざわつく不快感に、ほんの少し恐怖も混じった。
けれど、その瞬間に思い出したのは、昼間に朝倉先輩が言ってくれた言葉だった。
「無理に我慢しなくていい。何かあったら遠慮せずに言ってくれ」
その言葉が、心の盾になった。
いつものようにただ耐えるだけの自分とは違い、あやねの中にわずかな強さが芽生えているのを感じた。
小さく深呼吸をし、押してきた人から視線を逸らしながらも、何かあったら声をあげられる自分を信じていた。
◇◇◇
家に帰り着くと、あやねはスマホの写真フォルダを開いた。
特に意味はない。誰かと一緒の写真はほとんどない。
けれど、なぜかその写真たちを見返すことで、少しだけ心が落ち着いた。
「今日も、言いたかったことを話せてよかった」
小さな安堵が、彼女の胸を満たしていた。