※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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maybe 3話

朝の通勤電車は、いつものようにぎゅうぎゅう詰めだった。

早川あやねは無言で吊革につかまり、周囲の人々の体温や息遣いを感じながら、心をできるだけ無にしようとしていた。

だが、その静けさは長く続かなかった。

 

背後から、誰かの肘が彼女の肋骨のあたりに強く押し当てられた。

はっと息を呑み、思わず身を震わせる。

 

「また……」

 

心の奥がざわつく。

 

触れられたわけではない。だが、その「押し付けられた感覚」がじわじわと嫌悪感と恐怖を広げていく。

誰かがわざと肘を当てていることはわかる。通勤ラッシュの混雑に紛れての、あのいやらしい行為。

 

周囲の誰も気づいていない。

気づこうとしない。

 

あやねの手は自然とぎゅっと吊革を握り直し、目は伏せたままだった。

 

「言えたらいいのに……でも、言ったら迷惑かもしれないし」

 

いつも自分の気持ちを押し殺してきた。

 

次の駅で人が入れ替わるとき、肘は離れた。

その瞬間に、彼女はほっと息をついたが、心はざわざわと収まらなかった。

 

◇◇◇

 

会社に着き、自席に着くと、あやねは何度もその朝のことを思い返していた。

自分の胸に渦巻く、説明しきれない嫌悪と孤独感。

誰にも言えずに抱え込むのは、もう限界に近い。

 

でも、どう切り出せばいいのだろうか。

誰かに話すことは、弱さを見せることなのか。

それとも――

 

昼休み、社内の廊下ですれ違った湊と目が合う。

あやねは一歩足を止め、深呼吸をしてから口を開いた。

 

「朝倉先輩、ちょっと相談があるんです」

 

湊は驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐに落ち着いた表情に戻った。

 

「どうした、早川?」

 

あやねは少し俯きながらも、勇気を振り絞って言葉を紡いだ。

 

「今朝の電車で、誰かの肘が強く当たってきて……触られたわけじゃないんですけど、すごく嫌な気持ちになって」

 

湊は黙ってあやねの顔をしっかり見つめる。

その真剣なまなざしが、あやねの胸に少しずつ安心を与えていった。

 

「そうか……それは嫌だったな。怖かっただろう」

 

彼はゆっくりと息をついてから続ける。

 

「無理に我慢する必要はない。もしまた同じようなことがあったら、誰かに助けを求めてもいいし、遠慮せずに言ってくれ」

 

あやねは小さく頷いた。

 

「焦らず、早川のペースでいいんだ。急いで何か決めなくても大丈夫だから」

 

湊の言葉は穏やかで、強制感が一切なかった。

 

「何か力になれることがあれば、遠慮せず言ってくれ」

 

その一言が、あやねの心に柔らかな灯りをともした。

 

夕暮れの駅前。

あやねは人波に揉まれながら、足早に改札へ向かっていた。

混雑は朝ほどではないが、それでもまだ多くの人が行き交い、体がぶつかることも珍しくなかった。

 

突然、また肘が彼女の背中にぐっと押し当てられた。

思わず息を呑み、身をすくめる。

「また……」胸の奥でざわつく不快感に、ほんの少し恐怖も混じった。

 

けれど、その瞬間に思い出したのは、昼間に朝倉先輩が言ってくれた言葉だった。

 

「無理に我慢しなくていい。何かあったら遠慮せずに言ってくれ」

 

その言葉が、心の盾になった。

いつものようにただ耐えるだけの自分とは違い、あやねの中にわずかな強さが芽生えているのを感じた。

 

小さく深呼吸をし、押してきた人から視線を逸らしながらも、何かあったら声をあげられる自分を信じていた。

 

◇◇◇

 

家に帰り着くと、あやねはスマホの写真フォルダを開いた。

特に意味はない。誰かと一緒の写真はほとんどない。

けれど、なぜかその写真たちを見返すことで、少しだけ心が落ち着いた。

 

「今日も、言いたかったことを話せてよかった」

小さな安堵が、彼女の胸を満たしていた。

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