オフィスの明かりが少しずつまばらになる頃、早川あやねは最後のメールを送信し終えた。
横を見ると、まだ画面に向かって書類をチェックしている朝倉湊がいる。
ちらりと目が合い、彼は少しだけ肩をすくめてから顔をほころばせた。
「お疲れ、遅くまで頑張ってるな」
あやねは軽く頭を下げる。
「はい、今日はちょっと調べものがあって……でも、これで大丈夫です」
その言葉に、湊は胸の内を察するようにうなずいた。
「じゃあ、先に帰るか?」
エレベーターの内部は二人きりだ。
あやねは足元の靴音を聞きながら、少しだけ勇気を出して口を開いた。
「昨日は、先輩の言葉にすごく助けられました。ありがとうございます」
湊は一瞬照れたように目を細める。
「そう言ってもらえると、俺も救われるよ」
そんなふうに笑う先輩の横顔を、あやねはじっと見つめた。
(この人は、本当に――どこまでも自然なんだな)
社屋を出て、二人は並んで夜道を歩き始める。
目の前にはコンビニの灯り。湊はふと思い立ったように中に入っていった。
ガラス扉の向こうで、彼は手にした弁当を棚に戻しながらつぶやく。
「夕飯、いつもコンビニで済ませちゃうんだよな」
あやねは驚いて肩をすくめる。
「そうなんですか?」
湊は少し照れ笑いを浮かべ、缶コーヒーと小さなデザートを手にレジ前に立った。
「甘いもの、好きだったよな? コーヒーと一緒にどうぞ」
差し出されたスイーツの包装紙を見て、あやねは胸が温かくなるのを感じた。
──職場の先輩が、こんなふうに自分を気遣ってくれるなんて。
「ありがとうございます、先輩……」
ぽつり呟いたその言葉は、自分でも驚くほど小さかった。
駅前の改札前。夜風が頬を撫でる中、二人はスイーツの袋を小脇に抱えて立ち止まった。
あやねは名残惜しげに足を踏み出せずにいる。
「そろそろ、時間だな」
湊がぽんとあやねの肩に軽く触れる。
「気をつけて帰れよ」
あやねはひとつ大きく息を吐き、笑顔を返した。
「はい。おやすみなさい、朝倉先輩」
改札を抜けた背中を見送ると、あやねはスマホのロックを解除した。
小さなスイーツの袋を開けながら胸の中で、
──もっと、この人のことを知りたい。
という気持ちが、ほんのりと滲んでいた。
◇◇◇
駅を出て、静かな自室のドアを閉めると、ふっと肩の力が抜けた。
カバンをソファに置き、窓の外の夜景をぼんやりと眺める。
湊の言葉が繰り返し頭の中で響いた。
「気をつけて帰れよ」
その穏やかな声の響きが、まだ胸の奥で柔らかく余韻を残している。
鼓動が少しだけ速くなり、体の内側からじんわりと熱が広がっていくのを感じた。
浴室のドアを開け、温かなシャワーが肌を包み込む。
水の流れが冷えた身体をじんわりほぐしていく中、ふと思い出すのは、先輩のあの自然な微笑みと優しいまなざし。
髪を洗いながら、身体のすみずみまで意識が巡る。
胸の辺りに触れたとき、ふっと甘いざわめきが走った。
シャワーを終え、タオルで身体を包みながら鏡の前に立つ。
瞳の奥に見えるのは、ほんのりとした熱と、言葉にならない感情の輝きだった。
ベッドルームへ戻り、静かに腰を下ろす。
柔らかい布の感触に包まれながら、ゆっくりと指を胸元へ滑らせた。
肌の温かさと、少しの恥じらいが交差する。
目を閉じると、湊の声が耳元で囁かれるように蘇った。
その響きに誘われるように、あやねの指は胸の感触を確かめ、身体の奥に眠っていた想いを少しずつ解き放っていく。
静かな部屋に、小さな吐息と指先の動きが織りなす音だけが響いていた。
甘くて、けれどどこか切ないそのひととき。
あやねは、自分自身の身体に触れながら、名前のつかない想いがじわりと広がっていくのを感じていた。
その夜、彼女の心は初めて、ただの“先輩”ではなく、特別な存在へと変わっていったのだった。