会社を出ると、夕暮れの空は穏やかに柔らかな色彩をまとっていた。
街灯の灯りがまだ薄くとも、暮れゆく空に溶け込んで静かに輝く。
冷たい風が頬を撫で、肌を刺すような感触が季節の移ろいを知らせていた。
その時だった。
「今日、飲みに行かないか?」
静かな声で話しかけてきたのは、湊だった。
いつもよりも少しだけ柔らかく響くその声に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
あやねは一瞬戸惑いながらも、自然と答えを返した。
「はい、いいですね」
二人は歩いて近くの居酒屋へと向かった。
店の扉を開けると、木の香りと温かな灯りが迎えてくれる。
テーブルに着くと、店員がメニューを差し出した。
「何にしますか?」
あやねはメニューをじっと見つめながらも、迷わず言った。
「まずは生ビールをお願いします。それと、枝豆と唐揚げも」
湊も軽く頷き、彼はゆっくりとした口調で注文を続けた。
「じゃあ、俺は焼酎の水割りで。あとは、冷やしトマトと出し巻き卵を」
注文が通り、二人はひと息ついた。
湊は少しだけ疲れたように肩を落とし、仕事の話をぽつりと始める。
「最近、残業続きでさ。正直、ちょっと参ってるんだよね」
あやねはそれを聞きながら、真剣な眼差しで頷いた。
「わかります。私も先週は終電近くまで残ってました」
二人は少しずつ仕事の愚痴や日々の小さなストレスを共有しながら、言葉を交わした。
しかし、湊の口調はどこか落ち着いていて、どんなに疲れていても、責任感の強さがにじみ出ていた。
注文した料理が次々に運ばれてくる。
熱々の唐揚げは外はカリッと、中はジューシーで、あやねは思わず笑みを浮かべた。
「美味しいですね」
彼女の笑顔に湊も穏やかに応える。
グラスが触れ合う音が店内のざわめきに混じって響く。
ふとした瞬間、湊の手がそっとあやねの肩に触れた。
その温もりは、言葉では言い表せないほどの安心感をもたらし、あやねの心臓は静かに波打った。
店を出ると、夜の闇に包まれた街並みがふたりを迎える。
昼間とはまったく違う静謐な空気の中、ふたりは並んで歩いた。
冷たい風が肌を刺すたびに、隣にいる湊の存在があやねの心を支えてくれているのを感じる。
そして、すれ違うときに偶然にも手が触れ合った。
その刹那の感覚が胸の奥を鮮やかに疼かせ、彼女は思わず息を呑んだ。
「また誘うよ」
湊の低い声が優しく響き、あやねの頬は熱を帯びていく。
照れくささに胸がいっぱいになりながら、頷くことしかできなかった。
◇◇◇
帰り道、一人で夜空を見上げていると、胸の中がざわざわと落ち着かなくて仕方がなかった。
──正直、怖いんだ。
こんなに誰かのことを気にしてしまう自分に戸惑ってる。
ずっと感情を押し込めてきたのに、どうして今になってこんなにも熱くなってしまうんだろうって。
でも、同時に嬉しくてたまらない。
湊さんと過ごした時間が何度も頭の中をよぎる。
彼の笑顔も、仕草も、優しさも、全部が心に沁みていく。
どうしようもなく、心が求めているんだ。
私はもう、彼のことが気になって気になって仕方がない。
こんな自分を、少しだけ認めてあげようと思った。
そして、夜空の星にそっと願いをかけた。