午前中から、不思議なほど仕事が捗っていた。
書類の整理も、進行中の案件の進捗確認も、どれも滞りなく進んでいく。気づけば、午後の時点で明日に回そうとしていた仕事まで手をつけていた。
こういう日はめったにない。でも、今日はどこか心が澄んでいた。
——理由は、わかっていた。
数日前、帰りがけに先輩に声をかけられた。
ごく短く、少しだけ迷うような間を挟んで告げられた、あの一言。
「今度、飲みに行こうか」
そのとき自分が、驚くほどすぐに「……はい」と返していたことを思い出す。
たいしたことじゃないのに、ずっと胸のどこかが落ち着いていた。
それだけのことで、あんなに重たかった日々が、少しだけ軽くなっていた。
◇◇◇
「……じゃあ、ちょっとだけ行きます」
そう言ったとき、先輩は一瞬だけ驚いたような顔を見せたけれど、それ以上は何も言わなかった。ふと視線を落として、静かにうなずく。
向かったのは、駅から少し離れた路地にある居酒屋だった。
間接照明がやわらかく灯り、話し声も穏やかで、賑やかすぎない落ち着いた空気が流れていた。思っていたよりも、ずっと居心地がよかった。
最初のうちは緊張もあって、会話は途切れがちだった。けれど、グラスが進むにつれて少しずつ笑いがこぼれるようになり、気づけばふたりの間に、自然なリズムが生まれていた。
彼は多くを語らない。でも、話を遮らずに聞いてくれる人だった。黙っていても、安心できる沈黙というのがあるのだと初めて知った。
夜風に頬を撫でられながら、店を出る。
賑やかな通りを抜けて、ふたりで並んで歩いていた。
◇◇◇
「タクシー、呼ぶか?」
先輩がふと立ち止まり、静かにそう言った。
その声に、早川は首を横に振る。
「……ううん、大丈夫です。でも」
言いながら、なぜか心がざわついていることに気づいた。
「ちょっとだけ、歩いてもいいですか」
そう言ったあと、自分でも少し驚いた。
終わらせたくなかった。まだ、もう少しだけこの時間が続いてほしかった。
先輩は何も言わず、歩き出す。
それがまるで「いいよ」と言ってくれたようで、あやねは後を追うように並んで歩いた。
◇◇◇
人気のない道を、一定の歩幅で歩く。
肩と肩の間に流れる空気が、気持ちを静かに整えていく。
「……私、東京に出てきたの、三年前なんです」
自分でも不思議だった。こんな話、ふだんなら誰にも話さないのに。
「実家が厳しかったんです。門限とか、交友関係とか……何もかも親の管理下で」
遠い記憶が口からこぼれていく。
「だから、早く出たかった。自由になりたくて、仕方なかった。でも、出てきてみたら——」
足元を見つめる。
「自由って、こんなに怖いんだって、思い知らされました」
沈黙。けれど、その沈黙が痛くない。
「でも、先輩といると……少しだけ、自分の輪郭がわかる気がするんです」
それは、誰にも話したことのない言葉だった。
先輩は空を仰いで、ふと静かに息を吐く。
「……じゃあ、帰るの、送っていくよ」
あやねは喉の奥が熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。
◇◇◇
タクシーの中。
夜の街並みが、窓の外を静かに流れていく。
「……今日、楽しかったです」
あやねはぽつりと、窓に向かって呟いた。
「……先輩って、ずるいですね」
「俺が?」
「うん。優しいくせに、知らないふりする」
「何を」
沈黙が落ちる。
あやねは迷いながら、それでも目をそらしたまま言った。
「……私が、こうして誘ってること」
タクシーのエンジン音が、息の間を埋める。
やがて、先輩の声が落ちるように響いた。
「……あやね。うちに来るか?」
名前で呼ばれたことが、胸の奥を強く揺らした。
あやねは小さく頷いた。逃げたくなかった。今だけは。
◇◇◇
湊の部屋。
ジャケットを脱ぎ、そっとソファに腰を下ろす。
「……こんなの、ほんとはしたくなかったのに」
視線は床に落ちたまま。だけど、指先は震えていなかった。
「でも……先輩に、ちゃんと見てほしいって思ったのは、本当です」
言葉を口にした瞬間、どこかで肩の力が抜けた気がした。
湊がそっと近づいてくる。
その気配があたたかくて、あやねは目を閉じた。
頬に触れる指先が、静かに熱を届けてくる。
このまま、流されてもいいと思った。