※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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maybe 7話

午前中から、不思議なほど仕事が捗っていた。

 

 書類の整理も、進行中の案件の進捗確認も、どれも滞りなく進んでいく。気づけば、午後の時点で明日に回そうとしていた仕事まで手をつけていた。

 

 こういう日はめったにない。でも、今日はどこか心が澄んでいた。

 

 ——理由は、わかっていた。

 

 数日前、帰りがけに先輩に声をかけられた。

 ごく短く、少しだけ迷うような間を挟んで告げられた、あの一言。

 

 「今度、飲みに行こうか」

 

 そのとき自分が、驚くほどすぐに「……はい」と返していたことを思い出す。

 

 たいしたことじゃないのに、ずっと胸のどこかが落ち着いていた。

 それだけのことで、あんなに重たかった日々が、少しだけ軽くなっていた。

 

◇◇◇

 

 「……じゃあ、ちょっとだけ行きます」

 

 そう言ったとき、先輩は一瞬だけ驚いたような顔を見せたけれど、それ以上は何も言わなかった。ふと視線を落として、静かにうなずく。

 

 向かったのは、駅から少し離れた路地にある居酒屋だった。

 

 間接照明がやわらかく灯り、話し声も穏やかで、賑やかすぎない落ち着いた空気が流れていた。思っていたよりも、ずっと居心地がよかった。

 

 最初のうちは緊張もあって、会話は途切れがちだった。けれど、グラスが進むにつれて少しずつ笑いがこぼれるようになり、気づけばふたりの間に、自然なリズムが生まれていた。

 

 彼は多くを語らない。でも、話を遮らずに聞いてくれる人だった。黙っていても、安心できる沈黙というのがあるのだと初めて知った。

 

 夜風に頬を撫でられながら、店を出る。

 

 賑やかな通りを抜けて、ふたりで並んで歩いていた。

 

◇◇◇

 

 「タクシー、呼ぶか?」

 

 先輩がふと立ち止まり、静かにそう言った。

 

 その声に、早川は首を横に振る。

 

「……ううん、大丈夫です。でも」

 

 言いながら、なぜか心がざわついていることに気づいた。

 

「ちょっとだけ、歩いてもいいですか」

 

 そう言ったあと、自分でも少し驚いた。

 

 終わらせたくなかった。まだ、もう少しだけこの時間が続いてほしかった。

 

 先輩は何も言わず、歩き出す。

 

 それがまるで「いいよ」と言ってくれたようで、あやねは後を追うように並んで歩いた。

 

◇◇◇

 

人気のない道を、一定の歩幅で歩く。

 

 肩と肩の間に流れる空気が、気持ちを静かに整えていく。

 

「……私、東京に出てきたの、三年前なんです」

 

 自分でも不思議だった。こんな話、ふだんなら誰にも話さないのに。

 

「実家が厳しかったんです。門限とか、交友関係とか……何もかも親の管理下で」

 

 遠い記憶が口からこぼれていく。

 

「だから、早く出たかった。自由になりたくて、仕方なかった。でも、出てきてみたら——」

 

 足元を見つめる。

 

「自由って、こんなに怖いんだって、思い知らされました」

 

 沈黙。けれど、その沈黙が痛くない。

 

「でも、先輩といると……少しだけ、自分の輪郭がわかる気がするんです」

 

 それは、誰にも話したことのない言葉だった。

 

 先輩は空を仰いで、ふと静かに息を吐く。

 

「……じゃあ、帰るの、送っていくよ」

 

 あやねは喉の奥が熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。

 

◇◇◇

 

タクシーの中。

 

 夜の街並みが、窓の外を静かに流れていく。

 

「……今日、楽しかったです」

 

 あやねはぽつりと、窓に向かって呟いた。

 

「……先輩って、ずるいですね」

 

「俺が?」

 

「うん。優しいくせに、知らないふりする」

 

「何を」

 

 沈黙が落ちる。

 

 あやねは迷いながら、それでも目をそらしたまま言った。

 

「……私が、こうして誘ってること」

 

 タクシーのエンジン音が、息の間を埋める。

 

 やがて、先輩の声が落ちるように響いた。

 

「……あやね。うちに来るか?」

 

 名前で呼ばれたことが、胸の奥を強く揺らした。

 

 あやねは小さく頷いた。逃げたくなかった。今だけは。

 

◇◇◇

 

湊の部屋。

 

 ジャケットを脱ぎ、そっとソファに腰を下ろす。

 

「……こんなの、ほんとはしたくなかったのに」

 

 視線は床に落ちたまま。だけど、指先は震えていなかった。

 

「でも……先輩に、ちゃんと見てほしいって思ったのは、本当です」

 

 言葉を口にした瞬間、どこかで肩の力が抜けた気がした。

 

 湊がそっと近づいてくる。

 

 その気配があたたかくて、あやねは目を閉じた。

 

 頬に触れる指先が、静かに熱を届けてくる。

 

 このまま、流されてもいいと思った。

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