夜の静けさが部屋を包み込んでいた。
カーテンの向こうには街灯の淡い光が滲み、ソファに並んで座る二人の影を、部屋の明かりが静かに落としている。
早川のスマートフォンが、テーブルの上で小さく震えた。
画面に映った番号を見た早川は、湊に視線を向け、少し申し訳なさそうに口を開く。
「……ごめん。ちょっと、実家から」
「うん」と湊は短く答える。
早川はその場で通話に出た。
「もしもし? うん、元気にしてるよ。ちゃんと食べてるし、寝不足もしてないって。……うん、うん、そっちは?」
笑い声が漏れる。母親か、あるいは祖母か。
早川の表情は、職場ではあまり見せないほど自然で、柔らかかった。
「え? うん、えっと……その、特にそういう話はしてないかな……いや、別に焦ってるとかじゃなくて……お見合い!? ないない、そういうのは大丈夫。間に合ってるから」
苦笑交じりにそう言って、そっと目を泳がせる。
湊はその様子を黙って見つめていた。
日常の中にある、当たり前のやり取り。
自分の中では遠くなった世界。
「……うん、またね。うん。おやすみなさい」
電話を切ると、早川はスマホを伏せたまま、湊の方をちらと見た。
「……なんか、ああいうの、湊の前で初めてだったかも」
「……仲、いいんだな。家族」
ぽつりと湊が呟く。
それは羨望とも、過去の名残を抱くような響きとも取れた。
「うん、まあ……前より少し、話すようになったかな。私が離れて暮らすようになってから、ちょっと頻繁に」
「寂しがりなんじゃないか」
「たぶん。……でも、私も、ああいうのちょっと嬉しかったりするから」
微笑む早川の声は、穏やかだった。
沈黙が少しだけ流れる。
そして早川は、ふと思い出したように口を開いた。
「……湊は、ご両親とは話さないの?」
その問いに、湊の指がピクリと止まった。
彼はわずかに眉を動かし、目を逸らす。
「……してないよ。何年も」
「そっか……なんとなく、気持ち、わかる気がする」
その言葉に、湊は湯飲みを持つ手をゆっくり下ろし、わずかに声のトーンを落とした。
「……何が“わかる”って?」
空気が一瞬ひりついた。
早川は一瞬言葉を失い、視線を揺らす。
「いや……ごめん。うまく言えない。でも、無理にとは思ってないから……」
湊は何も言わず、ただ湯飲みを“コトン”とテーブルに戻した。
少し強めに響いたその音が、部屋に残る。
しばらくの沈黙のあと、早川が控えめに問いかける。
「……そんなに、私に話したくない?」
「話す意味があると思えないだけだよ」
目を合わせず、静かに返されるその声に、早川の表情がわずかに曇る。
「私は……湊のこと、もっと知りたいだけなのに」
「それで? 知って、何か変わるのか?」
口調は淡々としている。だが、その奥に潜む苛立ちは、早川にも伝わった。
「わかってる。あんたは優しいし、ちゃんと向き合おうとしてくれてる。でも……それが逆につらい」
「つらい……?」
「……ごめん。言い方が悪かったな」
湊は小さく息を吐き、続けた。
「そうやって向き合ってくれるのが、お前にとっては自然なんだろう。でも俺は——それが、怖いんだよ」
「……」
「前に、一度だけ“家族になれた”と思ったことがあった。ほんの一瞬だった。でも、すぐに壊れた。……些細なすれ違いが、積もって、気づいたときにはもうバラバラだった」
湊の指が、テーブルの縁をなぞる。
「信じてたんだ、ちゃんと向き合えたって。でも……俺が勝手にそう思ってただけだった」
その言葉には、どうしようもない虚無感があった。
「それ以来、踏み込むのも踏み込まれるのも、怖くなった。……けど、お前がいると、それが揺らぐ」
声が、わずかに震える。
「揺らいで、また壊れるんじゃないかって……びびってるんだよ。ずっと」
その言葉がこぼれた瞬間、早川はゆっくりと手を伸ばした。
隣に座ったまま、そっと湊の肩に腕をまわす。
「——っ……やめ、……」
湊の体が一瞬だけこわばる。
拒もうとした。反射的に身を引こうとした。
けれど、早川の腕は強くなかった。
ただそこに“ある”だけの、温かくて、静かな抱擁。
湊の肩から、少しずつ力が抜けていく。
「……なんで、そんなに……」
絞り出すような声に、早川が答える。
「湊が怖がるのも、疑うのも、無理ないって思った。でも……私は離れないよ」
「……」
「全部わかるなんて思ってない。でも、それでもここにいたい。湊のそばに」
湊は息を吐くように言う。
「……重たいな、お前」
「うん。でも、軽くなろうとは思ってないよ」
早川の声は、どこまでも優しかった。
湊の腕が、ゆっくりと早川の背に回る。
ぎこちない動作。けれど、確かにそれは“受け入れる”という意思だった。
「……めんどくさい男だよな、俺」
「知ってる。でも……そういうとこ、嫌いじゃない」
小さく笑うような声が、肩越しに響いた。
湊もまた、目を細めて、ふっと鼻で笑う。
しばらく、言葉も交わさず、ただ隣同士で、静かに寄り添っていた。
——この夜、ふたりの距離は、確かに少しだけ近づいていた。