金曜日の夜。
終業時間を少し過ぎた頃、オフィスの空気には、残務を片付ける音と、週末を目前にした安堵の気配が混ざっていた。
湊は書類をファイルに収め、ディスプレイの電源を落とすと、さりげなく斜め後ろの席に視線をやる。
早川はまだキーボードに手を置いたまま、何か確認しているようだった。
その横顔は、いつもよりどこか柔らかく見えた。
自分のことを意識してくれている——そんな予感が、くすぐったくもあり、妙に落ち着く。
「早川。……そろそろ行くか」
呼びかけると、早川は顔を上げ、小さく頷いた。
「はい。お疲れさまでした、先輩」
外に出ると、夜の帳が街をすっかり包んでいた。
街灯の明かりが歩道にぽつりぽつりと灯り、会社帰りの人々がそれぞれの帰路へと歩いていく。
いつもの金曜日とは、どこか違う空気だった。
特別な約束があるわけでも、はっきりした理由があるわけでもない。
けれど、胸の奥に静かに漂う期待のようなものが、ふたりの歩幅を自然とそろえていく。
駅へ向かう途中、早川がふと立ち止まった。
「……あの、ちょっと寄り道してもいいですか?」
「買い物?」
「はい。すぐ済ませますので」
その言葉通り、小さな生活雑貨店での買い物はさっと終わった。けれど、ふとした瞬間、早川が手に取った一着の部屋着に、湊の視線が止まる。
「それ……可愛い系だな」
「やっぱり、そう見えます?」
ちょっと困ったように笑う彼女の横顔に、湊は「誰か来るの?」と聞こうとして、やめた。
——そんなこと、今さら聞くまでもない。自分がその“誰か”なのだから。
◇◇◇
彼女の部屋に入るのは、今日が初めてだった。
ドアが開いた瞬間、ふわりと甘い香りが鼻をかすめ、湊は無意識に足を止める。
室内は整っていて、どこか柔らかい空気に包まれていた。淡い色のカーテン、小さな観葉植物、写真立てや雑貨たち。そうしたひとつひとつに、早川の気配が宿っている。
「どうぞ、荷物そこに置いてください。お茶、入れますね」
湊は「ありがとう」と応え、そっとジャケットを脱いでソファの背にかける。ネクタイを緩めると、ようやく息がひとつ楽になった。
「よかったら、軽く何か食べます? あんまり凝ったものはできないんですけど」
そう言って、早川が冷蔵庫の方へと向かう。
数分後、テーブルには簡単なサラダとスープ、それにトーストが並んだ。まるで、夜遅くのブランチのような、どこか心がほっとする献立。
「家族以外の人にご飯つくるの初めてだから緊張しますね……」
「いや。……美味しそうだ」
ひと口運ぶと、温かなスープの香りが広がった。具材はシンプルだが、しっかりと出汁が取られていて、丁寧な味がした。
「ほんとに料理できるんだな」
「えっ、それ、驚いてます?」
「ちょっとだけ」
くすっと笑い合う。
ごく自然に交わされる会話。食器の触れ合う音。そうしたひとつひとつが、かえって湊の中に静かな高鳴りを生んでいた。
早川とこうして向き合っていると、どこか“普通”が心地よくなる。
そして同時に——この“普通”が、なんだか妙に愛おしい。
食事を終えると、早川はキッチンで手早く片付けを始めた。
その背中を、湊は少しだけ長く見つめていた。
いつの間にか、彼女のことを「見ている」時間が増えている。
そう気づいたときには、もう視線を戻せなくなっていた。
「少しだけ……着替えてきますね」
早川は脱衣所へと向かっていく。残された湊は、ぼんやりと部屋を見渡した。
まだよく知らないはずのこの空間は、不思議と落ち着く。だが、同時に、ほんのわずかな緊張が胸の奥をくすぐる。
視線を移すと、ベッドの横に置かれた大きめのぬいぐるみが目に入った。
丸いフォルム。どこかやさしげな目。早川の部屋にあるには、少しだけ幼い印象を受ける——が、不思議と違和感はない。
自分が今、異性の部屋にいるという現実が、静かに意識の水面に広がっていく。
やがて、脱衣所のドアが開く。柔らかな足音とともに、早川が戻ってくる。
その姿に、湊の視線がふと止まった。
着ていたのは、淡いラベンダー色のルームワンピース。
肩まわりはふんわりとしたパフスリーブで、素材も柔らかなニット地。ゆったりとしたシルエットながら、女性らしい輪郭をさりげなく引き立てている。
胸元には小さなリボンがついていて、全体的に“可愛い”という言葉がしっくりくる。職場では見たことのない、私的で、柔らかな一面。
「お待たせしました」
「……似合ってる」
そう言うと、早川は一瞬だけ驚いたように目を丸くし、それから照れたように笑った。
「ありがとうございます……ちょっと、張り切りすぎたかも」
「いや、そんなことない。……むしろ、似合いすぎてて、困る」
その一言で、早川は小さく笑いながら、そっとベッド脇のぬいぐるみに目をやった。
「あ、気づきました? ……この子、ずっとここにいるんです。小学生のときに、母が買ってくれて」
「へえ。名前、あるの?」
「……恥ずかしいんですけど、『もこ』です」
「もこ」
湊は小さく呟き、再びそのぬいぐるみに目を向ける。
壁際にちょこんと座る“もこ”は、どこか神妙な顔でこちらを見つめているようだった。
「なんか、こっちを見てるみたいだな」
「ふふっ……でしょ? だから、あんまり変なことできないんですよ、あの子の前だと」
言葉の終わりと同時に、微かに漂う柔らかい空気。
その空気が、ふたりの距離を少しだけ、でも確かに近づけていた。
◇◇◇
ふたりはソファに並んで腰を下ろし、静かに映画を楽しんでいた。
画面に映る物語に一喜一憂しながら、時折視線が交わる。
お互いの存在を身近に感じつつも、まだ緊張感が漂う夜だった。
映画が終わると、湊は口を開いた。
「……そろそろシャワー浴びるよ」
「うん、ゆっくりしていって」
脱衣所に入ると、自分の歯ブラシは持ってきていなかったことに気づく。
だが、早川が予備の歯ブラシを用意してくれていたため、遠慮なく借りることにした。
シャンプーやボディソープは自分のものは持ってきておらず、早川の使っているものを使うことに。
香りは柔らかく、少し甘みを帯びていて、湊は思わず目を閉じて深く吸い込んだ。
シャワーを浴びている間、湊は心の中で思う。
「ここは、いつも早川が使っている場所なんだ」
その実感が胸の奥をじんわりと刺激し、ほんの少しだけ心拍が速くなった。
シャワーを終え脱衣所へ戻ると、きれいに畳まれた着替えが用意されていた。
淡い色合いのシャツとパンツ。どこか優しい印象のルームウェアに、湊は照れくさそうに手を伸ばす。
ゆっくりと身に纏い、再びリビングへと戻った。
髪をタオルでざっと拭きながら、湊は言った。
「もうこれで大丈夫かな……タオルだけで」
しかし、早川はすぐに首を振って、優しくたしなめるように言う。
「ダメだよ、それじゃ風邪ひいちゃう。ちゃんと乾かさせて」
そう言うと、早川はドライヤーのスイッチを入れ、湊の髪に風を当て始めた。
湊は最初、少し恥ずかしそうに目を伏せていたが、次第にその温かさと柔らかな音に安心していく。
早川は髪の根元から丁寧に風を送りながら、
「こうすると早く乾くんだよ」と、自然な笑顔を浮かべていた。
髪がふんわりと乾いていくのを感じながら、湊はいつの間にか心が穏やかになっていくのを覚えた。
ドライヤーの温かい風が髪を優しく乾かしていく中、湊は徐々に緊張がほぐれていくのを感じていた。
早川の指先が髪をかき分けるたびに、心の中のざわつきが静まっていく。
「もう大丈夫、乾いたよ」
早川がそっとドライヤーを止めると、湊は軽く笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、助かった」
「どういたしまして。気持ちよかった?」
「うん、すごく」
ふたりはそのままリビングに戻り、ソファに並んで腰を下ろした。
ふわりとしたブランケットが二人を包み込み、静かな夜の時間がゆっくり流れていく。
「今日は、ありがとう。来てくれて」
「こっちこそ、呼んでくれてありがとう」
言葉は少ないが、互いの存在を確かめ合うように視線が交わる。
「……こうしてると、なんだか安心する」
湊がぽつりと呟くと、早川は優しく笑いながら彼の手を握った。
「私も同じ気持ち。最初は緊張したけど、今は自然にいられる」
しばらくそのまま静かな時間が続いた。
やがて湊が目を細めて、穏やかな声で囁く。
「おやすみ、早川」
「おやすみなさい、せんぱい」
夜の静寂に包まれ、ふたりはゆっくりと目を閉じた。