朝からどこか落ち着かなかった。
資料をまとめる手にもわずかに力が入りすぎて、ページの端がくしゃっと折れる。
「……まただ」
ため息と一緒に、折れた書類を机の端に置いた。
昼過ぎに予定されているクライアントとの打ち合わせに向けての準備は済んでいるはずなのに、どうにも集中できない。
営業部のオフィスは今日もざわざわとした空気に満ちていて、視線を上げれば、湊が少し向かいの席でパソコンに向かっているのが見えた。
真正面ではないけれど、ふとした拍子に視線がぶつかることもある距離。私たちは、あまりに自然に、日常の中に共にいる。
でも、昨日の夜のメッセージのことが頭から離れない。
いつもどおりを装っているけど、どうしてもどこかぎこちない気がして、自分の表情がこわばっていないか不安になった。
◇◇◇
夜、自宅。
ベッドに腰かけ、制服から部屋着に着替えた私は、スマホを手に取る。
無意識に開いたのは、湊とのトーク画面だった。
「元気?」
打っては消し、また打って……ようやく送信。
今日も一日顔を合わせていたのに、どうしてこんなメッセージを送っているんだろうと、送ったあとで少し後悔する。
オフィスで話せば済むようなことを、わざわざ夜に、プライベートな時間にやり取りする意味――それを自分自身で整理できないままだ。
スマホが震えて、湊からの返信が届く。
「普通に。早川は?」
「うん、まあね」
そう返したあと、思わず小さく笑ってしまう。業務報告かってくらい、素っ気ない。
でも、そこににじむ少しの照れや遠慮が、なんとなく分かる気がした。
他愛もない話がいくつか続いた。
今日の営業先の話、上司の機嫌が最悪だったこと、帰りに寄ったコンビニで買ったアイスが妙に美味しかったこと。
オフィスでは何気なく流れてしまうような話も、こうして一対一でやり取りすると、ほんの少しだけ意味が変わる。
「今度、またどっかで飲むか」
湊からの言葉に、指が一瞬止まった。
それは“誘い”であって、“確認”でもあるような響きだった。
私たちは同僚で、営業帰りに何度も飲みに行ったことはある。特別な意味を持たせようとしなければ、ただの気軽な誘いにも受け取れる。
でも、私の中で何かが変わりはじめている。
それを一番よく分かっているのは、自分自身だ。
「うん、いいね」
短く返したあと、スマホを握りしめるようにして、深く息をついた。
「じゃあ来週、金曜とか空いてる?」
「空いてるよ」
テンポよく続くやりとりが、妙に心地よかった。
けれど、次のメッセージが届いた瞬間、私は少しだけ固まった。
「じゃあ……うち来る?」
その言葉を見たとたん、あの夜の記憶が鮮やかによみがえる。
彼の部屋、淡い照明、触れられた指先、熱、呼吸の重なり……。
すぐに「行く」と返せるほど、私は大胆でも軽くもない。
けれど、嫌だとも思わなかった。
むしろ、期待している自分がいることに気づいて、少しだけ怖くなる。
ほんの少し、境界線をまたいでしまえば、何かが変わる。
それが怖い。でも、変わらないことのほうが、もっと怖い。
「……うん」
指先で入力し、送信ボタンを押す。
それだけのことで、胸の奥にじわっと熱がにじんだ。
まるで自分の意思が、はじめて声になったような感覚だった。
深夜。電気を落とした部屋の中で、私はスマホを胸に抱いたまま目を閉じた。
外では虫が鳴いていて、夏の夜が静かに続いている。
明日もまた、営業部のフロアで、湊とは向かい合わせの席に座る。
今日と変わらないふりをして、打ち合わせに行き、笑って、報告書を書いて……その合間に、ふと視線がぶつかるかもしれない。
でも、その視線の奥には、昨日までとは違う、かすかな灯りがある気がした。
名前のない関係、名前のない気持ち。
その曖昧さすら、今は少しだけ愛おしい。