朝のオフィス。
冷房の風が静かに机の間を通り抜ける。
早川は席に着くなり、そっと視線を向かわせた。少し離れた向かいのデスクに、湊が既にパソコンを開いているのが見えた。
目が合う。
いつもなら軽く手を挙げて「おはよう」と言うはずだった。
けれど、今朝はその言葉が喉の奥で引っかかったまま出てこない。
湊は、一瞬だけ視線を止めたが、何も言わずにモニターに戻った。
その横顔は、何かを押し込めているように見えた。
早川は、昨夜のメッセージを思い出す。
「もし、寂しいときがあったら——」
あの一文は、余計だったんじゃないか。
言葉にする前は確信があったのに、送ったあとから不安がつきまとう。
午前10時。
営業部の課長が声をかけてくる。
「早川、朝倉と一緒に例の新規のクライアント先行ってくれるか? 二人とも案件の経緯は押さえてるよな」
思わず、隣に目をやる。
湊がわずかに眉を動かしたが、すぐに無表情に戻って「承知しました」と答えた。
会社を出ると、むわっとした外の空気がまとわりつく。
梅雨の合間、曇り空の下で湿気が肌にまとわりつく。
タクシーに乗り込む。
前後の座席に分かれて座り、しばらく無言のまま車が動き出す。
信号待ちのタイミングで、早川が意を決して口を開いた。
「……昨日の、あれさ」
湊が少しこちらに顔を向ける。
だが、早川はうまく続けられない。
「なんか、変に思ったらごめん」
湊はほんのわずかに口元を緩めた。
「別に。変じゃないよ」
そう言って、窓の外へと視線を戻した。
◇◇◇
午後。
クライアント訪問を終えた帰り、電車の中で並んで立つ。
吊り革を握る湊の手が、早川の肩のすぐ横にある。
距離にすれば、50センチもない。
言葉を交わさなくても、意識してしまう。
湊はときどきスマホを見つめ、ふっとため息をついては画面を閉じる。
「大丈夫?」と声をかけたくなる。
でも、彼女が何にため息をついているのか、自分には知る権利がない気がして、そのまま飲み込んだ。
夕方。
社に戻ると、そのまま報告書作成に追われた。
◇◇◇
夜、オフィスの照明が間引かれ、ほとんどの社員が帰った後。
キーボードの音が断続的に響く静かな空間。
湊のスマホが突然鳴った。
ディスプレイに一瞬だけ光る名前——「母」。
湊はすぐに着信を切る。
けれど、切ったあとも画面をじっと見つめていた。
早川は隣の席からそっと湊を見る。
表情は平静に見えたが、指先だけが落ち着きなく動いていた。
その時だった。
プリンターのトナー切れに気づき、二人で同時に立ち上がる。
「じゃあ俺、替えてきます」
「ううん、私も使うから——」
一緒にプリンターまで向かう。
狭いスペースで、自然と体が近づく。
肩が少し、触れたか触れないか。
その一瞬で、空気が少しだけ変わる。
湊が香水のような、けれど柔らかな香りを纏っていたことに初めて気づく。
湊も気づいたようで、目が合い、でもすぐ逸らした。
けれど、距離はそのままだった。
◇◇◇
夜11時過ぎ。
二人で駅まで歩く。
会話はなかったけれど、歩幅は自然と揃っていた。
ホームで電車を待つ湊の横顔を、早川はしばらく見ていた。
何か言わなきゃ、と思ったが、言葉はまた喉の奥に沈んだ。
家に帰り、シャワーを浴びたあと、スマホを手に取る。
「今日、なんか言いたかったけど言えなかった。大丈夫だった?」
送信ボタンを押す指に、少しだけ力が入った。
返事は来なかった。
そのまま、午前0時が過ぎようとしたとき、通知音が鳴る。
「ありがとう。たぶん、大丈夫」
画面を見つめながら、早川はソファに身を沈めた。
“たぶん”の奥にある気持ちを、もっと知りたくなっていた。