※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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maybe 17話

朝のオフィス。

冷房の風が静かに机の間を通り抜ける。

早川は席に着くなり、そっと視線を向かわせた。少し離れた向かいのデスクに、湊が既にパソコンを開いているのが見えた。

 

目が合う。

いつもなら軽く手を挙げて「おはよう」と言うはずだった。

けれど、今朝はその言葉が喉の奥で引っかかったまま出てこない。

 

湊は、一瞬だけ視線を止めたが、何も言わずにモニターに戻った。

その横顔は、何かを押し込めているように見えた。

 

早川は、昨夜のメッセージを思い出す。

 

「もし、寂しいときがあったら——」

 

あの一文は、余計だったんじゃないか。

言葉にする前は確信があったのに、送ったあとから不安がつきまとう。

 

午前10時。

営業部の課長が声をかけてくる。

 

「早川、朝倉と一緒に例の新規のクライアント先行ってくれるか? 二人とも案件の経緯は押さえてるよな」

 

思わず、隣に目をやる。

湊がわずかに眉を動かしたが、すぐに無表情に戻って「承知しました」と答えた。

 

会社を出ると、むわっとした外の空気がまとわりつく。

梅雨の合間、曇り空の下で湿気が肌にまとわりつく。

 

タクシーに乗り込む。

前後の座席に分かれて座り、しばらく無言のまま車が動き出す。

信号待ちのタイミングで、早川が意を決して口を開いた。

 

「……昨日の、あれさ」

 

湊が少しこちらに顔を向ける。

だが、早川はうまく続けられない。

 

「なんか、変に思ったらごめん」

 

湊はほんのわずかに口元を緩めた。

 

「別に。変じゃないよ」

 

そう言って、窓の外へと視線を戻した。

 

◇◇◇

 

午後。

クライアント訪問を終えた帰り、電車の中で並んで立つ。

吊り革を握る湊の手が、早川の肩のすぐ横にある。

距離にすれば、50センチもない。

 

言葉を交わさなくても、意識してしまう。

湊はときどきスマホを見つめ、ふっとため息をついては画面を閉じる。

 

「大丈夫?」と声をかけたくなる。

でも、彼女が何にため息をついているのか、自分には知る権利がない気がして、そのまま飲み込んだ。

 

夕方。

社に戻ると、そのまま報告書作成に追われた。

 

◇◇◇

 

夜、オフィスの照明が間引かれ、ほとんどの社員が帰った後。

キーボードの音が断続的に響く静かな空間。

湊のスマホが突然鳴った。

 

ディスプレイに一瞬だけ光る名前——「母」。

 

湊はすぐに着信を切る。

けれど、切ったあとも画面をじっと見つめていた。

 

早川は隣の席からそっと湊を見る。

表情は平静に見えたが、指先だけが落ち着きなく動いていた。

 

その時だった。

プリンターのトナー切れに気づき、二人で同時に立ち上がる。

 

「じゃあ俺、替えてきます」

 

「ううん、私も使うから——」

 

一緒にプリンターまで向かう。

狭いスペースで、自然と体が近づく。

肩が少し、触れたか触れないか。

 

その一瞬で、空気が少しだけ変わる。

湊が香水のような、けれど柔らかな香りを纏っていたことに初めて気づく。

湊も気づいたようで、目が合い、でもすぐ逸らした。

 

けれど、距離はそのままだった。

 

◇◇◇

 

夜11時過ぎ。

二人で駅まで歩く。

会話はなかったけれど、歩幅は自然と揃っていた。

 

ホームで電車を待つ湊の横顔を、早川はしばらく見ていた。

何か言わなきゃ、と思ったが、言葉はまた喉の奥に沈んだ。

 

家に帰り、シャワーを浴びたあと、スマホを手に取る。

 

「今日、なんか言いたかったけど言えなかった。大丈夫だった?」

 

送信ボタンを押す指に、少しだけ力が入った。

 

返事は来なかった。

そのまま、午前0時が過ぎようとしたとき、通知音が鳴る。

 

「ありがとう。たぶん、大丈夫」

 

画面を見つめながら、早川はソファに身を沈めた。

“たぶん”の奥にある気持ちを、もっと知りたくなっていた。

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