冷房の風が静かにフロアを通り抜けていく。
朝のオフィスは、いつものように始まり、そしていつもと少しだけ違っていた。
湊が席についたとき、早川はすでにPCを立ち上げていた。
彼女の視線が、ほんの一瞬こちらに向けられる。
普段なら軽く手を上げて「おはよう」と言ってくれるのに、今朝はその言葉が届かなかった。
けれど湊もまた、それに何も返せなかった。
あの返事のことが、頭から離れない。
——「ありがとう。たぶん、大丈夫」
なぜあのとき、そんな言い方をしてしまったのか。
そう言ってしまったあと、自分でも気づいた。“たぶん”なんて言葉は、何一つ説明になっていなかった。
本当は、もっと他の言葉があったはずだったのに。
モニターに映るはずの数字が、今朝はまるで頭に入ってこない。
少し離れた席から、キーボードを打つ早川の音がリズムのように響いていた。
不思議とそれが、落ち着く。けれど、それと同時に妙な距離も感じる。
——自分がつくった距離かもしれない、と思う。
◇◇◇
昼過ぎ。会議のあと、コピー機の前で書類を整理していたときのことだった。
誰かがすれ違う。
ふと、淡い花の香りが鼻先をかすめた。
一瞬、時間が止まる。
その香りに、覚えがあった。
昔、よく一緒にいた人が使っていた香水と、同じ匂いだった。
記憶が、唐突に波紋のように広がる。
付き合っていた頃のこと。
笑っていた横顔や、寝ぐせを気にしてた朝や、駅まで送った雨の夜。
それが、たった一瞬の香りで、鮮やかに蘇ってしまうなんて思わなかった。
「……はあ」
息を吐くようにして、香りを押し出す。
もう終わったこと。ずいぶん前に手放したはずのこと。
けれど、それが今の自分の中にまだ残っていることに、湊は気づいてしまっていた。
そっと顔を上げると、早川の姿が視界に入る。
彼女は誰かと話していて、小さく笑っていた。
自分とはまるで違う、素直で、真っ直ぐな笑い方だった。
その笑顔が、今の自分にとってどれほど眩しく見えるか。
そして、その分だけ自分がくすんでいるような気がすることを、湊は否定できなかった。
◇◇◇
午後。コーヒーを淹れに給湯スペースへと向かう。
こういう時間は好きだった。小休止のような静けさが、フロアの喧騒から一線を引いてくれる。
ポットにお湯を注いでいると、背後に気配を感じた。
振り返ると、早川が紙コップを手に持って立っていた。
「……ごめん、使う?」
「あ、ううん、大丈夫。もう淹れてたから」
お互いに、わずかに距離を取るように体をずらす。
それでも、この狭さではすれ違いざまに肩が触れそうになる。
湊が新しいカップを差し出す。
「ブラックでよかった?」
「うん。覚えてたんだね」
「なんとなく」
カップを手渡すとき、指先がほんの一瞬だけ触れ合った。
早川の指先は少し冷たくて、それが胸の奥にひゅっと風が通るような感覚を残した。
たったそれだけの接触なのに、自分が意識してしまっていることに気づくと、湊は静かに目を伏せた。
◇◇◇
夕方。会社全体の空気が少し緩み始める頃。
早川が他の社員と談笑している声が耳に入る。
内容はくだらない小ネタのようで、楽しそうに笑い合っていた。
その輪の中に入れない自分が、遠くに感じる。
けれど、そこに嫉妬や羨望があるわけじゃなかった。
ただ、自分にはああいう「軽さ」がないのだと、改めて知っただけだった。
それでも、彼女のそういう部分に救われていたのも確かだった。
沈んだ日や、何も言えなかった日。そばにいてくれるだけで、少しだけ肩の力を抜けるようになった。
だからこそ、あの“たぶん”は、やっぱり違った。
◇◇◇
夜、帰り道。
並んで歩くのは、何度目だろう。
言葉がなくても、歩幅が自然と揃う。それだけで安心できる気がしていた。
湊は立ち止まりそうになる気持ちを押して、口を開く。
「……あの返事、うまく言えなくて、ごめん」
早川は少し驚いたように湊を見る。
そのまま、口元に静かに笑みを浮かべる。
「……大丈夫だよ」
その言葉に、どこかでほっとする。
電車が来て、二人は乗り込む。
座席はひとつしか空いておらず、湊が座るよう促すが、早川は頷くだけで隣に立った。
車窓を眺めながら、吊り革を握る早川の手に、湊の指がそっと触れる。
一瞬だけ。それだけで十分だった。
言葉にできない気持ちが、触れた指先からこぼれ落ちそうだった。
◇◇◇
夜、自宅。シャワーのあと、スマホを手に取る。
画面には、湊からのメッセージが届いていた。
「さっきはありがとう。……あの距離、安心した」
たった一行の短い文。
だけど、その“距離”に込められたものを、早川は静かに受け止める。
嬉しさと切なさが同時に胸に広がる。
まだ全部は見せてくれていない。けれど、たしかに少しずつ、湊のなかに自分の居場所ができている。
スマホを胸に抱き、早川はそっと目を閉じた。
今はまだ、これでいい。
でも、いつかきっと——そう思えるようになっていた。