※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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maybe 18話

冷房の風が静かにフロアを通り抜けていく。

 

朝のオフィスは、いつものように始まり、そしていつもと少しだけ違っていた。

 

湊が席についたとき、早川はすでにPCを立ち上げていた。

彼女の視線が、ほんの一瞬こちらに向けられる。

普段なら軽く手を上げて「おはよう」と言ってくれるのに、今朝はその言葉が届かなかった。

けれど湊もまた、それに何も返せなかった。

 

あの返事のことが、頭から離れない。

 

——「ありがとう。たぶん、大丈夫」

 

なぜあのとき、そんな言い方をしてしまったのか。

そう言ってしまったあと、自分でも気づいた。“たぶん”なんて言葉は、何一つ説明になっていなかった。

本当は、もっと他の言葉があったはずだったのに。

 

モニターに映るはずの数字が、今朝はまるで頭に入ってこない。

少し離れた席から、キーボードを打つ早川の音がリズムのように響いていた。

不思議とそれが、落ち着く。けれど、それと同時に妙な距離も感じる。

——自分がつくった距離かもしれない、と思う。

 

◇◇◇

 

昼過ぎ。会議のあと、コピー機の前で書類を整理していたときのことだった。

 

誰かがすれ違う。

ふと、淡い花の香りが鼻先をかすめた。

一瞬、時間が止まる。

 

その香りに、覚えがあった。

昔、よく一緒にいた人が使っていた香水と、同じ匂いだった。

記憶が、唐突に波紋のように広がる。

 

付き合っていた頃のこと。

笑っていた横顔や、寝ぐせを気にしてた朝や、駅まで送った雨の夜。

それが、たった一瞬の香りで、鮮やかに蘇ってしまうなんて思わなかった。

 

「……はあ」

 

息を吐くようにして、香りを押し出す。

もう終わったこと。ずいぶん前に手放したはずのこと。

けれど、それが今の自分の中にまだ残っていることに、湊は気づいてしまっていた。

 

そっと顔を上げると、早川の姿が視界に入る。

彼女は誰かと話していて、小さく笑っていた。

自分とはまるで違う、素直で、真っ直ぐな笑い方だった。

 

その笑顔が、今の自分にとってどれほど眩しく見えるか。

そして、その分だけ自分がくすんでいるような気がすることを、湊は否定できなかった。

 

◇◇◇

 

午後。コーヒーを淹れに給湯スペースへと向かう。

こういう時間は好きだった。小休止のような静けさが、フロアの喧騒から一線を引いてくれる。

 

ポットにお湯を注いでいると、背後に気配を感じた。

振り返ると、早川が紙コップを手に持って立っていた。

 

「……ごめん、使う?」

 

「あ、ううん、大丈夫。もう淹れてたから」

 

お互いに、わずかに距離を取るように体をずらす。

それでも、この狭さではすれ違いざまに肩が触れそうになる。

 

湊が新しいカップを差し出す。

「ブラックでよかった?」

 

「うん。覚えてたんだね」

 

「なんとなく」

 

カップを手渡すとき、指先がほんの一瞬だけ触れ合った。

早川の指先は少し冷たくて、それが胸の奥にひゅっと風が通るような感覚を残した。

 

たったそれだけの接触なのに、自分が意識してしまっていることに気づくと、湊は静かに目を伏せた。

 

◇◇◇

 

夕方。会社全体の空気が少し緩み始める頃。

早川が他の社員と談笑している声が耳に入る。

 

内容はくだらない小ネタのようで、楽しそうに笑い合っていた。

その輪の中に入れない自分が、遠くに感じる。

 

けれど、そこに嫉妬や羨望があるわけじゃなかった。

ただ、自分にはああいう「軽さ」がないのだと、改めて知っただけだった。

 

それでも、彼女のそういう部分に救われていたのも確かだった。

沈んだ日や、何も言えなかった日。そばにいてくれるだけで、少しだけ肩の力を抜けるようになった。

だからこそ、あの“たぶん”は、やっぱり違った。

 

◇◇◇

 

夜、帰り道。

並んで歩くのは、何度目だろう。

言葉がなくても、歩幅が自然と揃う。それだけで安心できる気がしていた。

 

湊は立ち止まりそうになる気持ちを押して、口を開く。

 

「……あの返事、うまく言えなくて、ごめん」

 

早川は少し驚いたように湊を見る。

そのまま、口元に静かに笑みを浮かべる。

 

「……大丈夫だよ」

 

その言葉に、どこかでほっとする。

 

電車が来て、二人は乗り込む。

座席はひとつしか空いておらず、湊が座るよう促すが、早川は頷くだけで隣に立った。

 

車窓を眺めながら、吊り革を握る早川の手に、湊の指がそっと触れる。

 

一瞬だけ。それだけで十分だった。

言葉にできない気持ちが、触れた指先からこぼれ落ちそうだった。

 

◇◇◇

 

夜、自宅。シャワーのあと、スマホを手に取る。

画面には、湊からのメッセージが届いていた。

 

「さっきはありがとう。……あの距離、安心した」

たった一行の短い文。

だけど、その“距離”に込められたものを、早川は静かに受け止める。

 

嬉しさと切なさが同時に胸に広がる。

まだ全部は見せてくれていない。けれど、たしかに少しずつ、湊のなかに自分の居場所ができている。

 

スマホを胸に抱き、早川はそっと目を閉じた。

今はまだ、これでいい。

でも、いつかきっと——そう思えるようになっていた。

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