朝のオフィスはまだ薄暗く、冷房の風が静かに机の間を通り抜けていた。
だが、その静寂の中に、何か重苦しいものが漂い、職場全体が微かにざわめいているのを感じ取れる。
フロアのあちこちから、小さく囁く声が波紋のように広がっていた。
「例の案件、資料にミスがあったらしい」
「朝倉さんが関わってるって聞いたけど……」
「クライアントにバレたら、相当ヤバいらしいよ」
湊は自席に着くと、パソコンの画面を開いたまま、周囲を見渡す。
視線が自分に向けられていることを肌で感じ、胸の奥がずっしりと重く締め付けられる。
関わっていた案件のトラブルが、社内に微妙な空気を作り出しているのだった。
そんな時、課長の声が静かに響いた。
「朝倉、少し来てくれるか?」
その一言で、周囲のざわつきが一瞬で静まり返る。
湊は言葉もなく立ち上がり、重たい足取りで課長のもとへ向かった。
◇◇◇
会議室の空気は冷たく、息が詰まりそうなほど重苦しかった。
部のリーダーたちが資料の不備や経緯を厳しく問いただす。
「どの段階でミスが起きたのか説明してくれ」
「クライアントにはもう報告済みか?」
湊は感情を押し殺し、冷静さを保とうと必死に答える。
だがその表情の奥には、深い疲労と焦燥が隠しきれずに浮かんでいた。
「……確認不足でした。すぐに訂正の連絡は入れてあります」
言葉は淡々としているのに、胸の中は波のように揺れていた。
感情的になれば状況は悪化する。だから冷静を装うしかなかったのだ。
会議が終わり自席に戻ると、湊は無意識に斜め向かいの早川の視線を感じ取った。
彼女は何か言おうとして口を開くが、湊が小さく首を振る。
その沈黙のやりとりに、早川は言葉を飲み込み、ただ頷くだけだった。
その静かなやりとりが、湊の心にじわりと温かな灯をともした。
◇◇◇
午後の休憩スペース。
缶コーヒーを両手で握りしめ、壁に寄りかかって佇む湊。
感情を表に出すことは彼にとって大きなリスクだった。
それは、かつての恋人・伊吹が教えてくれた生き方だった。
「感情を見せることは弱さにつながる」と。
その教えに従い、彼は自分を強く保ってきたのだ。
けれど心の奥底では「これでいいのか」という問いが静かに渦巻いている。
孤独と不安が時折、重たく胸を押しつぶしそうになる。
湊は深く息を吐いた。
「もう一度、やり直せるのなら」——誰にも言えない、胸の奥の願いをそっと呟いた。
◇◇◇
夕方、戻ったデスクで、早川が静かに声をかけてきた。
「ほうじ茶、だったよね?」
差し出された紙コップを受け取り、湊は微かな笑みを返す。
「ありがとう。でも、大丈夫」
声が震えたことに気づきつつも、視線は下へ落とした。
早川は言葉なくその場に立ち続ける。
その存在だけが、湊の心の支えだった。
◇◇◇
夜、二人で歩く帰り道。
街灯に伸びた影が長く二人を包む。
歩幅を揃え、沈黙の時間が続く。
湊がぽつりと言った。
「こういうの、慣れてるから」
早川は足を止め、彼の顔をじっと見つめる。
「慣れないでほしい」
「湊くんに、そういう顔をしてほしくない」
震える声は真っ直ぐで、迷いはなかった。
驚いた湊は視線を逸らす。
そしてかすかに笑みを浮かべて、
「ありがとう」と返した。
その言葉の重みを胸に、二人はまた歩き出した。
◇◇◇
静かな部屋で鍵をかけ、湊は深く息をつく。
シャワーを浴びて身を清めると、ソファに沈み込んだ。
無意識に手にしたスマホを開き、早川とのメッセージ画面を呼び出す。
指先が震え、慎重に文字を打った。
「今日、言いたかったことがあったけど、言えなかった。大丈夫だった?」
送信ボタンを押すと、しばらく胸の鼓動が速くなる。
やがて届いた返信には短いけれど温かさがあった。
「ありがとう。たぶん、大丈夫」
「たぶん」という言葉の裏に秘められた想いをもっと知りたい。
だがそれはまだ、言葉にはできない。
ゆっくりと目を閉じて、今日一日の疲れが体と心に染み渡るのを感じた。