※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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maybe 19話

朝のオフィスはまだ薄暗く、冷房の風が静かに机の間を通り抜けていた。

だが、その静寂の中に、何か重苦しいものが漂い、職場全体が微かにざわめいているのを感じ取れる。

 

フロアのあちこちから、小さく囁く声が波紋のように広がっていた。

「例の案件、資料にミスがあったらしい」

「朝倉さんが関わってるって聞いたけど……」

「クライアントにバレたら、相当ヤバいらしいよ」

 

湊は自席に着くと、パソコンの画面を開いたまま、周囲を見渡す。

視線が自分に向けられていることを肌で感じ、胸の奥がずっしりと重く締め付けられる。

関わっていた案件のトラブルが、社内に微妙な空気を作り出しているのだった。

 

そんな時、課長の声が静かに響いた。

「朝倉、少し来てくれるか?」

 

その一言で、周囲のざわつきが一瞬で静まり返る。

湊は言葉もなく立ち上がり、重たい足取りで課長のもとへ向かった。

 

◇◇◇

 

会議室の空気は冷たく、息が詰まりそうなほど重苦しかった。

部のリーダーたちが資料の不備や経緯を厳しく問いただす。

 

「どの段階でミスが起きたのか説明してくれ」

「クライアントにはもう報告済みか?」

 

湊は感情を押し殺し、冷静さを保とうと必死に答える。

だがその表情の奥には、深い疲労と焦燥が隠しきれずに浮かんでいた。

 

「……確認不足でした。すぐに訂正の連絡は入れてあります」

 

言葉は淡々としているのに、胸の中は波のように揺れていた。

感情的になれば状況は悪化する。だから冷静を装うしかなかったのだ。

 

会議が終わり自席に戻ると、湊は無意識に斜め向かいの早川の視線を感じ取った。

彼女は何か言おうとして口を開くが、湊が小さく首を振る。

その沈黙のやりとりに、早川は言葉を飲み込み、ただ頷くだけだった。

 

その静かなやりとりが、湊の心にじわりと温かな灯をともした。

 

◇◇◇

 

午後の休憩スペース。

缶コーヒーを両手で握りしめ、壁に寄りかかって佇む湊。

感情を表に出すことは彼にとって大きなリスクだった。

 

それは、かつての恋人・伊吹が教えてくれた生き方だった。

「感情を見せることは弱さにつながる」と。

その教えに従い、彼は自分を強く保ってきたのだ。

 

けれど心の奥底では「これでいいのか」という問いが静かに渦巻いている。

孤独と不安が時折、重たく胸を押しつぶしそうになる。

 

湊は深く息を吐いた。

「もう一度、やり直せるのなら」——誰にも言えない、胸の奥の願いをそっと呟いた。

 

◇◇◇

 

夕方、戻ったデスクで、早川が静かに声をかけてきた。

 

「ほうじ茶、だったよね?」

 

差し出された紙コップを受け取り、湊は微かな笑みを返す。

「ありがとう。でも、大丈夫」

 

声が震えたことに気づきつつも、視線は下へ落とした。

早川は言葉なくその場に立ち続ける。

その存在だけが、湊の心の支えだった。

 

◇◇◇

 

夜、二人で歩く帰り道。

街灯に伸びた影が長く二人を包む。

歩幅を揃え、沈黙の時間が続く。

 

湊がぽつりと言った。

「こういうの、慣れてるから」

 

早川は足を止め、彼の顔をじっと見つめる。

 

「慣れないでほしい」

「湊くんに、そういう顔をしてほしくない」

 

震える声は真っ直ぐで、迷いはなかった。

 

驚いた湊は視線を逸らす。

そしてかすかに笑みを浮かべて、

「ありがとう」と返した。

 

その言葉の重みを胸に、二人はまた歩き出した。

 

◇◇◇

 

静かな部屋で鍵をかけ、湊は深く息をつく。

シャワーを浴びて身を清めると、ソファに沈み込んだ。

 

無意識に手にしたスマホを開き、早川とのメッセージ画面を呼び出す。

指先が震え、慎重に文字を打った。

 

「今日、言いたかったことがあったけど、言えなかった。大丈夫だった?」

 

送信ボタンを押すと、しばらく胸の鼓動が速くなる。

やがて届いた返信には短いけれど温かさがあった。

 

「ありがとう。たぶん、大丈夫」

 

「たぶん」という言葉の裏に秘められた想いをもっと知りたい。

だがそれはまだ、言葉にはできない。

 

ゆっくりと目を閉じて、今日一日の疲れが体と心に染み渡るのを感じた。

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