※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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maybe 20話

朝のオフィスはまだ少し静かだった。

冷房の風が書類の角をわずかにめくり、天井の蛍光灯の明かりがぼんやりと反射している。

 

湊は定時ぴったりに出社し、無言のまま席に着いた。

PCの電源を入れ、昨日のデータを開いては、しばらくそれをじっと見つめている。

その目に映るのは、数字でもグラフでもなかった。

——自分の中に残った、あの会議室での空気。責められる声。視線。沈黙。

 

斜め向かいの席から、その姿をそっと見ていた早川は、声をかけることができなかった。

言葉は喉の奥まで上がってくるのに、出てこない。

 

「こういうとき、どうすればよかったんだっけ」

自問しながら、それでもキーボードを叩く指を止めなかった。

 

◇◇◇

 

昼休み。社内の人影がまばらになるタイミングを見計らって、早川はスマホを取り出した。

ディスプレイに表示された“登録されていない番号”を見て、ほんのわずか眉をしかめる。

 

短いバイブのあと、すぐに通話ボタンを押す。

 

「……今さら、何の用なの?」

 

抑えた声。息を飲むような沈黙の向こうで、低い声が返ってくる。

内容は聞き取れなかったが、早川の表情が一瞬だけ凍りついた。

 

「……もう関係ないでしょ。こっちのことは、気にしないで」

 

そう言って通話を切ると、スマホを伏せて息を吐く。

意識しないうちに、握りしめた手が汗ばんでいた。

 

——もう何年も前の話。

上京して最初に就職した会社。

最初のうちは夢みたいだった。

新しい環境、制服、都会の景色。

けれど現実は、理不尽と孤独に満ちていた。

 

上司からの距離の近すぎる指導。

「女の子なんだから愛嬌でなんとかして」

「少しくらい飲み会に付き合わないと、評価下がっちゃうよ?」

 

一言一言が小さな針のように突き刺さり、気づけば身体の奥まで毒が回っていた。

誰にも言えなかった。

父に話しても、「そんなの、おまえが外に出るからだ」と返された。

 

——自分で選んだ道だから、黙って耐えるしかなかった。

けれど、何かが決定的に壊れた日、退職届を置いて逃げるように会社を去った。

 

その時、何かも一緒に手放してしまった気がしている。

「誰かに守られたい」とか、「弱音を吐いてもいい」という当たり前の感覚を。

 

◇◇◇

 

夕方。

湊が、オフィスの冷蔵庫からお茶を取り出して戻ってくる。

すれ違いざまに、早川が言葉をかける。

 

「……まだ、疲れてるでしょ。無理しないでね」

 

湊は少し驚いたような顔をしたが、すぐに小さく頷いた。

 

「うん……ありがとう」

 

ほんのわずかに目を伏せたその顔に、早川はかつての自分を見た気がした。

 

「無理しないで、なんて……簡単に言えるわけないのにね」

 

誰かに言われたかった言葉を、自分が誰かにかけていた。

それが、少しだけ胸を痛めた。

 

◇◇◇

 

夜。

一人暮らしの部屋に戻った早川は、照明もつけずにカーテンの隙間から街灯の光だけを頼りにソファに座っていた。

 

スマホを手に取り、メッセージアプリを開く。

湊の名前をタップする。

しばらく迷ったあと、文章を打っては消すを繰り返す。

 

「今日、変なこと言ってたらごめん」

「……話したいこと、あるんだけど」

「でも今じゃないかもしれない」

 

すべて消して、深く息を吐いた。

 

——もう誰かに期待するのはやめたはずなのに。

 

そのとき、通知音が鳴った。

湊からの短いメッセージ。

 

「今日は、ありがとう」

それだけの言葉が、なぜか心に染みた。

じんわりと、熱が胸の奥に広がる。

 

スマホの画面を見つめたまま、早川は目を閉じた。

この感情をどうすればいいのか、まだわからない。

でも、ほんの少しだけ誰かを信じてみたいと思った夜だった。

 

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