朝のオフィスはまだ少し静かだった。
冷房の風が書類の角をわずかにめくり、天井の蛍光灯の明かりがぼんやりと反射している。
湊は定時ぴったりに出社し、無言のまま席に着いた。
PCの電源を入れ、昨日のデータを開いては、しばらくそれをじっと見つめている。
その目に映るのは、数字でもグラフでもなかった。
——自分の中に残った、あの会議室での空気。責められる声。視線。沈黙。
斜め向かいの席から、その姿をそっと見ていた早川は、声をかけることができなかった。
言葉は喉の奥まで上がってくるのに、出てこない。
「こういうとき、どうすればよかったんだっけ」
自問しながら、それでもキーボードを叩く指を止めなかった。
◇◇◇
昼休み。社内の人影がまばらになるタイミングを見計らって、早川はスマホを取り出した。
ディスプレイに表示された“登録されていない番号”を見て、ほんのわずか眉をしかめる。
短いバイブのあと、すぐに通話ボタンを押す。
「……今さら、何の用なの?」
抑えた声。息を飲むような沈黙の向こうで、低い声が返ってくる。
内容は聞き取れなかったが、早川の表情が一瞬だけ凍りついた。
「……もう関係ないでしょ。こっちのことは、気にしないで」
そう言って通話を切ると、スマホを伏せて息を吐く。
意識しないうちに、握りしめた手が汗ばんでいた。
——もう何年も前の話。
上京して最初に就職した会社。
最初のうちは夢みたいだった。
新しい環境、制服、都会の景色。
けれど現実は、理不尽と孤独に満ちていた。
上司からの距離の近すぎる指導。
「女の子なんだから愛嬌でなんとかして」
「少しくらい飲み会に付き合わないと、評価下がっちゃうよ?」
一言一言が小さな針のように突き刺さり、気づけば身体の奥まで毒が回っていた。
誰にも言えなかった。
父に話しても、「そんなの、おまえが外に出るからだ」と返された。
——自分で選んだ道だから、黙って耐えるしかなかった。
けれど、何かが決定的に壊れた日、退職届を置いて逃げるように会社を去った。
その時、何かも一緒に手放してしまった気がしている。
「誰かに守られたい」とか、「弱音を吐いてもいい」という当たり前の感覚を。
◇◇◇
夕方。
湊が、オフィスの冷蔵庫からお茶を取り出して戻ってくる。
すれ違いざまに、早川が言葉をかける。
「……まだ、疲れてるでしょ。無理しないでね」
湊は少し驚いたような顔をしたが、すぐに小さく頷いた。
「うん……ありがとう」
ほんのわずかに目を伏せたその顔に、早川はかつての自分を見た気がした。
「無理しないで、なんて……簡単に言えるわけないのにね」
誰かに言われたかった言葉を、自分が誰かにかけていた。
それが、少しだけ胸を痛めた。
◇◇◇
夜。
一人暮らしの部屋に戻った早川は、照明もつけずにカーテンの隙間から街灯の光だけを頼りにソファに座っていた。
スマホを手に取り、メッセージアプリを開く。
湊の名前をタップする。
しばらく迷ったあと、文章を打っては消すを繰り返す。
「今日、変なこと言ってたらごめん」
「……話したいこと、あるんだけど」
「でも今じゃないかもしれない」
すべて消して、深く息を吐いた。
——もう誰かに期待するのはやめたはずなのに。
そのとき、通知音が鳴った。
湊からの短いメッセージ。
「今日は、ありがとう」
それだけの言葉が、なぜか心に染みた。
じんわりと、熱が胸の奥に広がる。
スマホの画面を見つめたまま、早川は目を閉じた。
この感情をどうすればいいのか、まだわからない。
でも、ほんの少しだけ誰かを信じてみたいと思った夜だった。