※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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maybe 22話

空気が、乾いていた。

週明けのオフィス。いつも通りのざわつきのはずなのに、すべてが妙に遠く感じる。

 

早川はエントランスを抜けるとすぐ、視線に気づいた。

真正面から見られているわけではない。けれど、誰かが背中越しに囁いている気配。息を潜めて、目だけで人を追う気配。

そういうものに、彼女は敏感だった。

 

何も考えないようにして、デスクに向かう。

けれど、パソコンを立ち上げる指先が、ほんのわずかに震えていた。

 

コーヒーを取りに立ち、休憩室に入ると、その気配はさらに濃くなった。

数人の男性社員が、スマホの画面を見ながら、声を潜めて話している。

 

「……◯◯通りのラブホ、あそこだろ?ちょっと奥まったとこ」

「金曜の夜、見たって。時間も遅かったらしい」

「湊さんと、早川さん……確定、っぽいよな」

 

耳が熱くなった。

でも足は、動かさなかった。

逃げるのは、もっと惨めな気がして。

せめて“聞いていないふり”を、貫きたかった。

 

コーヒーのカップを手に取り、無言で休憩室を出る。

背中に刺さるような視線と、神経をすり減らす沈黙。

 

この世界のどこにも、自分の居場所がないような気がした。

 

◇◇◇

 

昼前、庶務の女性から「部長が」と伝えられたとき、直感で理由はわかっていた。

 

ガラス張りの会議室。

通されたときには、湊もすでに中にいた。

表情はいつも通りで、でも、どこか覚悟のようなものがにじんでいた。

 

部長は、椅子にもたれず、少し身を乗り出して口を開いた。

 

「君たちのことが、社内で噂になっている」

「週末の行動について、確認させてほしい。誤解があれば、それを訂正するためにも」

 

何かを言わなければならない――

でも、何を言っても、すべてが言い訳に聞こえる気がした。

 

早川は、唇を噛んだまま、下を向いた。

なぜ自分はあのとき、ついて行ったのか。

なぜ、こんなに簡単に“特別”が壊れてしまうのか。

 

視線が、湊に向く。

お願い、何か言って。

でも、守ろうとしないで。庇われたくない。

ただ、あなたの本音だけを――

 

沈黙の中、湊がまっすぐに部長の目を見て口を開いた。

 

「……事実です」

 

その声は、やわらかく、でも強かった。

 

「金曜の夜、仕事終わりに早川さんと会って、ふたりで時間を過ごしました。ホテルに入ったのも、互いの意思です」

「業務時間外の行動であり、業務には影響を与えていません」

 

部長は短く頷き、少しだけ表情を緩めた。

 

「……君たちが真剣であるなら、それ以上は言わない。だが、周囲への配慮は忘れないように。これは忠告だ」

 

湊は、真剣なまなざしのまま頭を下げた。

その姿を見ながら、早川の胸にふと、得体の知れない温度が灯った。

 

彼は、自分を庇わなかった。

隠しも、ごまかしもしなかった。

ただ、自分の行動に責任を持った。――それが、どれほど尊いことか。

 

でも、それでも今すぐ、ありがとうとは言えなかった。

心がまだ、揺れていたから。

 

「……戻るね」

 

そう告げて、会議室を出た。

 

◇◇◇

 

屋上の扉を開けた瞬間、強い風が頬を打った。

空は曇っていて、空気は重く、でもどこか、広がりがあった。

 

柵に寄りかかり、深く息を吐く。

心の中で、何かが音を立てて崩れていくのを感じる。

 

「……何が正解だったんだろうね」

 

誰にも知られたくなかった。

誰にも踏み込まれたくなかった。

でも、自分で選んだ。あの夜、湊のそばにいたかった。

少しだけ、誰かに許されてみたかった。

 

それがこんな形で広まって、好奇の目で見られるなんて。

たった一歩、誰かに心を預けただけで――こんなに、痛い。

 

足音が聞こえたのは、そのときだった。

反射的に振り返ると、湊が立っていた。

 

「……なんで来たの」

 

声は、自分でも驚くほど弱々しかった。

 

湊は少しだけ歩み寄って、立ち止まった。

 

「君がここにいる気がしたから言いに来た。部長には、本当のことを話したって」

 

「……どうして?黙ってたほうが楽だったでしょう。面倒も避けられたし」

 

湊は、しばらく黙っていた。

そして、言った。

 

「俺は……君に“守られた”ままでいたくなかったんだ」

 

風が止まり、時が凍る。

 

「君が一人で背負うのを見てるだけなんて、もう嫌だった」

「俺は、自分の意思で選んだ。あの夜も、君の隣も」

「誰にどう思われても構わない。後悔なんて、してないよ」

 

その言葉が、静かに胸の奥に届いて、痛かった。

でもそれは、懐かしい痛みだった。誰かを信じて、期待して、裏切られて――それでも、信じてみたくなる痛み。

 

「……変な人」

 

そう言った自分の声が、少しだけ震えていた。

 

「でも、少しだけ……救われたかも」

 

湊は、照れたように微笑んだ。

その顔が、夕暮れの光の中で、やけにあたたかく見えた。

 

曇った空の隙間から、やわらかな光が差していた。

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