空気が、乾いていた。
週明けのオフィス。いつも通りのざわつきのはずなのに、すべてが妙に遠く感じる。
早川はエントランスを抜けるとすぐ、視線に気づいた。
真正面から見られているわけではない。けれど、誰かが背中越しに囁いている気配。息を潜めて、目だけで人を追う気配。
そういうものに、彼女は敏感だった。
何も考えないようにして、デスクに向かう。
けれど、パソコンを立ち上げる指先が、ほんのわずかに震えていた。
コーヒーを取りに立ち、休憩室に入ると、その気配はさらに濃くなった。
数人の男性社員が、スマホの画面を見ながら、声を潜めて話している。
「……◯◯通りのラブホ、あそこだろ?ちょっと奥まったとこ」
「金曜の夜、見たって。時間も遅かったらしい」
「湊さんと、早川さん……確定、っぽいよな」
耳が熱くなった。
でも足は、動かさなかった。
逃げるのは、もっと惨めな気がして。
せめて“聞いていないふり”を、貫きたかった。
コーヒーのカップを手に取り、無言で休憩室を出る。
背中に刺さるような視線と、神経をすり減らす沈黙。
この世界のどこにも、自分の居場所がないような気がした。
◇◇◇
昼前、庶務の女性から「部長が」と伝えられたとき、直感で理由はわかっていた。
ガラス張りの会議室。
通されたときには、湊もすでに中にいた。
表情はいつも通りで、でも、どこか覚悟のようなものがにじんでいた。
部長は、椅子にもたれず、少し身を乗り出して口を開いた。
「君たちのことが、社内で噂になっている」
「週末の行動について、確認させてほしい。誤解があれば、それを訂正するためにも」
何かを言わなければならない――
でも、何を言っても、すべてが言い訳に聞こえる気がした。
早川は、唇を噛んだまま、下を向いた。
なぜ自分はあのとき、ついて行ったのか。
なぜ、こんなに簡単に“特別”が壊れてしまうのか。
視線が、湊に向く。
お願い、何か言って。
でも、守ろうとしないで。庇われたくない。
ただ、あなたの本音だけを――
沈黙の中、湊がまっすぐに部長の目を見て口を開いた。
「……事実です」
その声は、やわらかく、でも強かった。
「金曜の夜、仕事終わりに早川さんと会って、ふたりで時間を過ごしました。ホテルに入ったのも、互いの意思です」
「業務時間外の行動であり、業務には影響を与えていません」
部長は短く頷き、少しだけ表情を緩めた。
「……君たちが真剣であるなら、それ以上は言わない。だが、周囲への配慮は忘れないように。これは忠告だ」
湊は、真剣なまなざしのまま頭を下げた。
その姿を見ながら、早川の胸にふと、得体の知れない温度が灯った。
彼は、自分を庇わなかった。
隠しも、ごまかしもしなかった。
ただ、自分の行動に責任を持った。――それが、どれほど尊いことか。
でも、それでも今すぐ、ありがとうとは言えなかった。
心がまだ、揺れていたから。
「……戻るね」
そう告げて、会議室を出た。
◇◇◇
屋上の扉を開けた瞬間、強い風が頬を打った。
空は曇っていて、空気は重く、でもどこか、広がりがあった。
柵に寄りかかり、深く息を吐く。
心の中で、何かが音を立てて崩れていくのを感じる。
「……何が正解だったんだろうね」
誰にも知られたくなかった。
誰にも踏み込まれたくなかった。
でも、自分で選んだ。あの夜、湊のそばにいたかった。
少しだけ、誰かに許されてみたかった。
それがこんな形で広まって、好奇の目で見られるなんて。
たった一歩、誰かに心を預けただけで――こんなに、痛い。
足音が聞こえたのは、そのときだった。
反射的に振り返ると、湊が立っていた。
「……なんで来たの」
声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
湊は少しだけ歩み寄って、立ち止まった。
「君がここにいる気がしたから言いに来た。部長には、本当のことを話したって」
「……どうして?黙ってたほうが楽だったでしょう。面倒も避けられたし」
湊は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「俺は……君に“守られた”ままでいたくなかったんだ」
風が止まり、時が凍る。
「君が一人で背負うのを見てるだけなんて、もう嫌だった」
「俺は、自分の意思で選んだ。あの夜も、君の隣も」
「誰にどう思われても構わない。後悔なんて、してないよ」
その言葉が、静かに胸の奥に届いて、痛かった。
でもそれは、懐かしい痛みだった。誰かを信じて、期待して、裏切られて――それでも、信じてみたくなる痛み。
「……変な人」
そう言った自分の声が、少しだけ震えていた。
「でも、少しだけ……救われたかも」
湊は、照れたように微笑んだ。
その顔が、夕暮れの光の中で、やけにあたたかく見えた。
曇った空の隙間から、やわらかな光が差していた。