※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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maybe 23話

朝から重たい空気が続いていた。

社内の噂は完全に消えたわけではない。

一部の視線はまだ、無言のまま早川を追う。

 

けれど、その視線は以前のような好奇心や冷笑ではなく、

少しだけ慎重で、遠慮がちなものに変わっていた。

 

早川は自分でも気づかぬうちに、心の緊張を少しずつほどいていった。

 

あの日、湊が事実を認めたことで、どこか空気が変わったのだ。

彼の覚悟が、周囲に波紋を落とし、いくらかの沈静化をもたらしていた。

 

けれどまだ、言葉にしづらい違和感が胸にくすぶっている。

誰かに寄りかかりたいけれど、同時に自分の殻を破ることが怖い。

 

その狭間で、早川の心は揺れ続けていた。

 

◇◇◇

 

昼休み。

 

窓から柔らかな日差しが差し込み、オフィスの片隅をぽかぽかと照らしている。

空調の冷気が心地よく、カーテンがふわりと揺れた。

 

静かな空気の中、湊が早川のデスクへゆっくり歩み寄った。

彼のシャツは白く、袖を少しまくっている。涼しげだが、どこか落ち着かない様子もあった。

 

「……この週末、時間ある?」

 

短い声。

けれど、その声のトーンはいつもより優しく、どこか特別に響いた。

 

早川は驚いた。

 

いつもだったら、こういう誘いに何時間も悩んでいたはずだったのに。

 

今日は、迷いなく首を縦に振っていた。

 

「うん、あるよ」

 

その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しざわついた。

言葉にならない戸惑いと、わずかな期待が入り混じっている。

 

心のどこかで「また傷つくんじゃないか」と警戒しながらも、

同時に「もう少しだけ、誰かに近づいてもいい」と思っている自分がいた。

 

湊はそれ以上何も言わず、微かに笑った。

その笑顔が、意外と優しくて、早川は少しだけ肩の力を抜いた。

 

◇◇◇

 

土曜日。

 

空は薄く雲が広がっていて、柔らかな光が街を包み込んでいた。

風は穏やかで、時折すっと涼しい空気が頬を撫でていく。

 

ふたりは電車に揺られて、会社から数駅離れた静かな街へ向かった。

早川は淡いブルーのワンピースに、白いカーディガンを軽く羽織っている。

歩くたびに、スカートの裾がそっと揺れた。

 

大きなショッピングモールではなく、木漏れ日の差す小さな公園や古本屋、昔ながらの喫茶店をゆっくり歩く。

 

お互いに緊張しているのが伝わる。

だけど、無理に恋人らしく振る舞おうとはしていなかった。

 

古本屋の店内は薄暗く、木の香りと紙の匂いが満ちている。

 

湊が一冊の文庫本を手に取り、静かに呟いた。

 

「昔、母親が好きだった本なんだ」

 

早川はその言葉に、胸の内が少しだけ柔らかくなった気がした。

公園のベンチに腰掛け、薄い風に髪を揺らされながら、膝の上のスカートをそっと撫でる。

 

ゆっくりと、口を開いた。

 

「……自分のことを話すのは、あまり得意じゃない」

 

間を置いて、小さく息をつく。

 

「でも、もし聞いてくれるなら……少しだけ。上京した理由とか」

 

湊はゆっくり頷いて、ただ一言だけ答えた。

 

「聞きたい」

 

その一言が、早川の心の固く閉ざされた扉を、少しずつ開けていくようだった。

 

◇◇◇

 

夕暮れ。

 

オレンジ色の光が街を染めていく。

空は淡い紫と茜色が入り混じり、ゆっくりと夜の帳が降り始めていた。

 

駅へ戻る道を歩きながら、ふと気づく。

自分たちの歩幅が、自然とぴったりと合っていることを。

 

湊がふいに、声をひそめてつぶやいた。

 

「また、こんな時間が持てたらいいな」

 

早川は一瞬迷い、視線を逸らす。

 

けれど、すぐに小さく頷いた。

 

「うん、私も」

 

湊は笑顔で手を振り、ゆっくりと電車のホームへ向かっていく。

 

窓ガラスに映る自分の姿を見つめながら、早川は小さく息を吐いた。

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