朝から重たい空気が続いていた。
社内の噂は完全に消えたわけではない。
一部の視線はまだ、無言のまま早川を追う。
けれど、その視線は以前のような好奇心や冷笑ではなく、
少しだけ慎重で、遠慮がちなものに変わっていた。
早川は自分でも気づかぬうちに、心の緊張を少しずつほどいていった。
あの日、湊が事実を認めたことで、どこか空気が変わったのだ。
彼の覚悟が、周囲に波紋を落とし、いくらかの沈静化をもたらしていた。
けれどまだ、言葉にしづらい違和感が胸にくすぶっている。
誰かに寄りかかりたいけれど、同時に自分の殻を破ることが怖い。
その狭間で、早川の心は揺れ続けていた。
◇◇◇
昼休み。
窓から柔らかな日差しが差し込み、オフィスの片隅をぽかぽかと照らしている。
空調の冷気が心地よく、カーテンがふわりと揺れた。
静かな空気の中、湊が早川のデスクへゆっくり歩み寄った。
彼のシャツは白く、袖を少しまくっている。涼しげだが、どこか落ち着かない様子もあった。
「……この週末、時間ある?」
短い声。
けれど、その声のトーンはいつもより優しく、どこか特別に響いた。
早川は驚いた。
いつもだったら、こういう誘いに何時間も悩んでいたはずだったのに。
今日は、迷いなく首を縦に振っていた。
「うん、あるよ」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しざわついた。
言葉にならない戸惑いと、わずかな期待が入り混じっている。
心のどこかで「また傷つくんじゃないか」と警戒しながらも、
同時に「もう少しだけ、誰かに近づいてもいい」と思っている自分がいた。
湊はそれ以上何も言わず、微かに笑った。
その笑顔が、意外と優しくて、早川は少しだけ肩の力を抜いた。
◇◇◇
土曜日。
空は薄く雲が広がっていて、柔らかな光が街を包み込んでいた。
風は穏やかで、時折すっと涼しい空気が頬を撫でていく。
ふたりは電車に揺られて、会社から数駅離れた静かな街へ向かった。
早川は淡いブルーのワンピースに、白いカーディガンを軽く羽織っている。
歩くたびに、スカートの裾がそっと揺れた。
大きなショッピングモールではなく、木漏れ日の差す小さな公園や古本屋、昔ながらの喫茶店をゆっくり歩く。
お互いに緊張しているのが伝わる。
だけど、無理に恋人らしく振る舞おうとはしていなかった。
古本屋の店内は薄暗く、木の香りと紙の匂いが満ちている。
湊が一冊の文庫本を手に取り、静かに呟いた。
「昔、母親が好きだった本なんだ」
早川はその言葉に、胸の内が少しだけ柔らかくなった気がした。
公園のベンチに腰掛け、薄い風に髪を揺らされながら、膝の上のスカートをそっと撫でる。
ゆっくりと、口を開いた。
「……自分のことを話すのは、あまり得意じゃない」
間を置いて、小さく息をつく。
「でも、もし聞いてくれるなら……少しだけ。上京した理由とか」
湊はゆっくり頷いて、ただ一言だけ答えた。
「聞きたい」
その一言が、早川の心の固く閉ざされた扉を、少しずつ開けていくようだった。
◇◇◇
夕暮れ。
オレンジ色の光が街を染めていく。
空は淡い紫と茜色が入り混じり、ゆっくりと夜の帳が降り始めていた。
駅へ戻る道を歩きながら、ふと気づく。
自分たちの歩幅が、自然とぴったりと合っていることを。
湊がふいに、声をひそめてつぶやいた。
「また、こんな時間が持てたらいいな」
早川は一瞬迷い、視線を逸らす。
けれど、すぐに小さく頷いた。
「うん、私も」
湊は笑顔で手を振り、ゆっくりと電車のホームへ向かっていく。
窓ガラスに映る自分の姿を見つめながら、早川は小さく息を吐いた。