週明けの朝。
早川は自席に座り、カップに注いだばかりのコーヒーに口をつけた。
窓の外は曇り空。週末のあのやわらかい陽射しは、どこか遠い景色のようだった。
社内の空気は、以前よりずっと静かだった。
それでも、ごく一部の視線や声にならない噂が、完全に消えたわけではない。
けれど、早川の中で、何かが少し変わっていた。
いつものように湊が出社してきて、彼女の視界の中に自然に入ってくる。
その姿を見るだけで、不思議と呼吸が落ち着いた。
何も言葉は交わさなくても、隣にいるというだけで――少しだけ、安心できる。
「おはよう」
背後から届いた声に、少し驚いて振り返る。
湊だった。鞄を持ったまま、柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
「あ……おはよう」
思わず顔を上げると、彼の目がまっすぐ自分を見ていた。
そのまなざしに、一瞬、胸がふっと温かくなる。
◇◇◇
午後。営業先から戻る途中、小さなトラブルが起きた。
クライアントとの納品日程に齟齬があり、先方から強めのクレームが入る。
その場にいたのは湊と早川のふたりだけ。上司は外出中で、判断は自分たちに委ねられていた。
「どうする?」
小声で尋ねる早川に、湊は一瞬だけ迷った後、はっきりと答えた。
「……俺が話すよ。君は、必要なデータだけ手元に準備してくれ」
頷くと同時に、早川は無言で端末を操作しはじめた。
怒鳴り声が飛ぶ場で、湊はまっすぐ先方を見据え、必要以上に下手に出ず、だが冷静に説明を続ける。
「こちらの伝達不足は否めません。ただ、おっしゃる通りすぐにでも再調整可能です」
「……信頼を損ねたことは、必ず挽回します。約束します」
声を荒らげた担当者が一息ついたタイミングで、早川が静かに資料を差し出した。
ぴたりとタイミングが合った。
互いの呼吸を感じて動けたことに、早川はふと驚く。
クライアントの表情がやがて和らぎ、話は一応の収束を見た。
「……ありがとう。助かった」
オフィスに戻る道すがら、湊がそう言って頭を下げた。
「こっちこそ。すごかったね……あの切り返し」
「いや、内心めっちゃ焦ってたよ」
ふっと笑い合う。
この距離が、いまの二人にはちょうどいい。そう思えた。
◇◇◇
その夜。
早川は湊と、駅前の小さな居酒屋にいた。
明るすぎず、落ち着いた照明の店内。
木目のテーブルに湯気を立てる出汁巻き卵と、揚げたての天ぷら。
ビールのグラスがカチリと軽く鳴った。
「……ああ、久しぶりに、外でゆっくりできたかも」
湊が息を吐きながら、目を細める。
「お疲れさま。今日の対応、本当に助かった」
「……あの場にいたのが湊でよかった」
「俺も。君と一緒じゃなかったら、どうなってたか」
目が合って、自然と笑みがこぼれる。
少しして、沈黙の間。
その静けさが、どこか心地よかった。
箸を置き、早川はグラスを持ったまま、ぽつりと口を開いた。
「……私、家を出てから、誰かに頼るのがすごく苦手になった」
「うん」
湊は、急かさず、ただ耳を傾ける。
「地元では、“女は結婚して落ち着け”って、ずっと言われてて。
だから、上京して自立することが自分を守る唯一の手段だった」
言いながら、自分でも驚いた。
こんなふうに、誰かに過去を話すなんて。
湊はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……俺も、実家はあまり居心地よくなかった」
「自分がどうありたいかって、あの頃は誰にも言えなかったな。言ったら、否定される気がして」
「……わかる」
小さく、頷く。
共通する部分が、ほんの少しだけ触れ合った気がした。
◇◇◇
夜の駅前。
夜風がすこし涼しく、シャツの袖を揺らしていく。
街灯が並ぶ歩道を、ふたりは言葉少なに並んで歩いていた。
「今日は……ありがとう」
早川がぽつりと言うと、湊は少し立ち止まり、彼女の横顔を見つめた。
「俺ね、たぶん……これからも君の隣にいたいって思ってる」
心臓が、少しだけ跳ねた。
唐突でも、重くもなかった。
まっすぐで、ただ誠実な言葉だった。
早川は言葉を探すようにうつむいて、そして、目を合わせずに言った。
「……私も、たぶん。そう思ってる」
肩が少しだけ触れた。
でもその距離感が、ちょうどよかった。
そのまま、駅の改札まで。
並んで歩きながら、ふたりは何も言わず、それぞれの心に、あたたかなものを灯していた。