※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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maybe 25話

社内の空気は、あの日を境に確実に変わっていた。

騒がしい好奇心は消え、周囲はまるで何事もなかったかのように日常を取り戻している。

早川自身も、以前と同じように淡々と仕事をこなしていた。

 

けれど、すべてが元通りというわけではなかった。

 

ふとコピー機の前で出くわした女性社員が、ぽつりと口にする。

 

「……本気なら、曖昧にしないであげてくださいね」

 

その言葉に、一瞬だけ足が止まった。

 

「え……?」

 

「湊さん、あなたのことすごく大事にしてると思うんです。ちゃんと見てれば、わかる。

だから……怖くても、ちゃんと向き合ってあげてください」

 

それは攻撃ではなく、むしろ静かな励ましのようだった。

 

早川は何も言えないまま、軽く頭を下げてその場を離れる。

けれどその一言は、心の奥に静かに降り積もっていった。

 

(……ちゃんと向き合う)

 

それが今の自分にとって、どれだけ難しいことなのか。

でも、それを避け続けている限り、いつまでも「半分だけの関係」にしかなれない。

 

心の中に湧き上がる不安と、微かな光。

どちらも確かに存在していた。

 

◇◇◇

 

昼休み、早川はひとりで屋上に出た。

空は高く、風が強い。薄い雲が流れ、街のビルの上を駆け抜けていく。

 

金網越しに街を見下ろしながら、風に揺れる髪を抑える。

 

ワンピースの裾が舞い上がりそうになり、片手で押さえると、胸の奥に広がる感情の渦に気づいた。

いつからか、心の奥で、誰かに“本気で求められること”が怖くなっていた。

 

触れられることはできても、信じきることができない。

「守ってあげる」と言われるたびに、それは自由を奪われることだと思っていた。

 

だから、あの夜も、あの朝も――踏み切れなかった。

 

「……ここにいるかと思った」

 

背後から声がして、振り返ると、湊がいた。

風に髪を乱されながら、スーツの上着を手にかけている。

屋上にふたりきり。誰もいない静けさのなか、足音もなく近づいてきた。

 

「どうして……ここに?」

 

「なんとなく、君が屋上にいる気がした」

 

自然な言い方だった。

でも、どこか迷いのない目をしていた。

 

早川は、数歩だけ金網から離れ、湊と向き合う。

そして、少しだけ間を空けて、口を開いた。

 

「最初は、自分がこんなふうになるなんて思ってなかったの」

 

風がふたりの間をすり抜けていく。

それでも、彼は何も言わずに待ってくれていた。

 

「誰にも期待しないって、決めてた。

何かを求めたら、きっと裏切られるって、思ってたから」

 

早川はゆっくりと言葉を繋いでいく。

そのたびに、胸の奥がかすかに軋む。

 

「でも……今は違う。

怖いのに、期待してる自分がいる。

君に、ちゃんと好きでいてもらいたいって思ってる自分が、いるの」

 

湊は微かに目を伏せたあと、彼女の目をまっすぐ見つめ返した。

 

「俺も……同じだよ」

 

「……え?」

 

「最初は、君を追いかけるのも怖かった。

君にとって、俺が“縛る存在”になったらどうしようって」

 

沈黙が落ちる。

その静けさは、不安ではなく、言葉の意味を噛みしめるための時間だった。

 

「でも、もう逃げないって決めた。

中途半端な気持ちじゃなくて、ちゃんと――好きになる。

そういうふうに、君の隣にいたいって思ってる」

 

それは、真っ直ぐな告白だった。

胸の奥が、熱くなる。

ぐしゃぐしゃに張っていた心の膜が、音もなくほどけていく感覚。

 

風がまた吹き抜ける。

でももう、怖くなかった。

 

「……わたしも、ちゃんと好きになる」

 

声が震えていた。

それでも、湊は何も言わず、そっと歩み寄ってきた。

 

そして、言葉もなく、静かに抱きしめられる。

強くない。

でも、確かにそこにいるという重さだった。

 

背中に回された腕のあたたかさが、早川の頬に静かに涙を落とさせた。

 

◇◇◇

 

数日後。

朝のオフィスは、いつもと変わらない光景だった。

 

パソコンの起動音。書類を運ぶ音。どこかで鳴る内線電話のベル。

 

早川はいつものように出社し、静かに椅子に腰かけた。

隣の席に座る湊も、特別な素振りは見せない。

 

けれど、何も言わなくても伝わる。

もう、同じ方向を見て歩き出しているということが。

 

昼休み。ふと、湊と視線が重なる。

どちらともなく、微笑み合う。

それだけで、胸の奥が少しだけあたたかくなる。

 

(誰かの隣にいるって、こんなにあたたかいことだったんだ)

 

(自分で選んで、信じて、進む。そんな日々を、これからちゃんと積み重ねていきたい)

 

◇◇◇

 

夜。

改札口を抜けていく人々の波のなか、ふたりが並んで歩いていた。

 

湊は、自然な手つきで彼女の手を取る。

指と指が絡むように、だけど、きつくは握らない。

ただ、離さない。そういう強さだった。

 

早川は、その手にそっと指を返す。

もう、怖くなかった。

 

街灯が二人の影を並べ、夜の駅前に溶けていく。

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