社内の空気は、あの日を境に確実に変わっていた。
騒がしい好奇心は消え、周囲はまるで何事もなかったかのように日常を取り戻している。
早川自身も、以前と同じように淡々と仕事をこなしていた。
けれど、すべてが元通りというわけではなかった。
ふとコピー機の前で出くわした女性社員が、ぽつりと口にする。
「……本気なら、曖昧にしないであげてくださいね」
その言葉に、一瞬だけ足が止まった。
「え……?」
「湊さん、あなたのことすごく大事にしてると思うんです。ちゃんと見てれば、わかる。
だから……怖くても、ちゃんと向き合ってあげてください」
それは攻撃ではなく、むしろ静かな励ましのようだった。
早川は何も言えないまま、軽く頭を下げてその場を離れる。
けれどその一言は、心の奥に静かに降り積もっていった。
(……ちゃんと向き合う)
それが今の自分にとって、どれだけ難しいことなのか。
でも、それを避け続けている限り、いつまでも「半分だけの関係」にしかなれない。
心の中に湧き上がる不安と、微かな光。
どちらも確かに存在していた。
◇◇◇
昼休み、早川はひとりで屋上に出た。
空は高く、風が強い。薄い雲が流れ、街のビルの上を駆け抜けていく。
金網越しに街を見下ろしながら、風に揺れる髪を抑える。
ワンピースの裾が舞い上がりそうになり、片手で押さえると、胸の奥に広がる感情の渦に気づいた。
いつからか、心の奥で、誰かに“本気で求められること”が怖くなっていた。
触れられることはできても、信じきることができない。
「守ってあげる」と言われるたびに、それは自由を奪われることだと思っていた。
だから、あの夜も、あの朝も――踏み切れなかった。
「……ここにいるかと思った」
背後から声がして、振り返ると、湊がいた。
風に髪を乱されながら、スーツの上着を手にかけている。
屋上にふたりきり。誰もいない静けさのなか、足音もなく近づいてきた。
「どうして……ここに?」
「なんとなく、君が屋上にいる気がした」
自然な言い方だった。
でも、どこか迷いのない目をしていた。
早川は、数歩だけ金網から離れ、湊と向き合う。
そして、少しだけ間を空けて、口を開いた。
「最初は、自分がこんなふうになるなんて思ってなかったの」
風がふたりの間をすり抜けていく。
それでも、彼は何も言わずに待ってくれていた。
「誰にも期待しないって、決めてた。
何かを求めたら、きっと裏切られるって、思ってたから」
早川はゆっくりと言葉を繋いでいく。
そのたびに、胸の奥がかすかに軋む。
「でも……今は違う。
怖いのに、期待してる自分がいる。
君に、ちゃんと好きでいてもらいたいって思ってる自分が、いるの」
湊は微かに目を伏せたあと、彼女の目をまっすぐ見つめ返した。
「俺も……同じだよ」
「……え?」
「最初は、君を追いかけるのも怖かった。
君にとって、俺が“縛る存在”になったらどうしようって」
沈黙が落ちる。
その静けさは、不安ではなく、言葉の意味を噛みしめるための時間だった。
「でも、もう逃げないって決めた。
中途半端な気持ちじゃなくて、ちゃんと――好きになる。
そういうふうに、君の隣にいたいって思ってる」
それは、真っ直ぐな告白だった。
胸の奥が、熱くなる。
ぐしゃぐしゃに張っていた心の膜が、音もなくほどけていく感覚。
風がまた吹き抜ける。
でももう、怖くなかった。
「……わたしも、ちゃんと好きになる」
声が震えていた。
それでも、湊は何も言わず、そっと歩み寄ってきた。
そして、言葉もなく、静かに抱きしめられる。
強くない。
でも、確かにそこにいるという重さだった。
背中に回された腕のあたたかさが、早川の頬に静かに涙を落とさせた。
◇◇◇
数日後。
朝のオフィスは、いつもと変わらない光景だった。
パソコンの起動音。書類を運ぶ音。どこかで鳴る内線電話のベル。
早川はいつものように出社し、静かに椅子に腰かけた。
隣の席に座る湊も、特別な素振りは見せない。
けれど、何も言わなくても伝わる。
もう、同じ方向を見て歩き出しているということが。
昼休み。ふと、湊と視線が重なる。
どちらともなく、微笑み合う。
それだけで、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
(誰かの隣にいるって、こんなにあたたかいことだったんだ)
(自分で選んで、信じて、進む。そんな日々を、これからちゃんと積み重ねていきたい)
◇◇◇
夜。
改札口を抜けていく人々の波のなか、ふたりが並んで歩いていた。
湊は、自然な手つきで彼女の手を取る。
指と指が絡むように、だけど、きつくは握らない。
ただ、離さない。そういう強さだった。
早川は、その手にそっと指を返す。
もう、怖くなかった。
街灯が二人の影を並べ、夜の駅前に溶けていく。