true 1話
夜のコンビニは、妙に静かだった。
駐車場の端に車を停め、買い物を終えた湊が店を出たところで、視界の隅に人影が映った。
軒下。
雨は降っていない。それなのに、制服姿の少女がぽつんと立っている。
左手にはレジ袋ひとつ。白い靴下は薄く汚れ、視線は下に落ちたままだ。
いつものように見過ごすこともできた。
だが彼女の顔には、どこか見覚えがあった。正確には、「よく見る顔」だった。
このあたりの高校に通う生徒で、時間帯は違えど、何度かこのコンビニで見かけた記憶がある。
名前も、何をしているのかも知らない。ただ、顔だけが妙に記憶に残っていた。
湊は戸惑いながら、声をかけた。
「……こんな時間に、どうしたの?」
少女はぴくりと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。
一瞬だけ湊を見たが、すぐに目を逸らす。だが逃げようとはしなかった。
「家、近いんじゃないの?」
少し間を空けて、少女が答えた。
「……帰る場所、ないんです」
言葉は平坦だった。感情がこもっていないというより、感情を押し込めているような――そんな印象だった。
湊は数秒黙り、少女の足元と表情を交互に見た。
ずぶ濡れでもなく、スマホをいじっているでもなく、ただ立っている。
高校生が、夜の九時過ぎに一人でコンビニの軒下に。理由がなければおかしい。
だが、そうとしか言いようのない佇まいだった。
「……誰かに声かけられるの、待ってたって感じかな」
「運が悪かったな。俺、こう見えて放っておけないタイプでさ」
そんな冗談じみた言葉に、少女はほとんど反応しなかったが――しばらくして、微かにうなずいた。
◇◇◇
部屋までの道のりで、ほとんど会話はなかった。
湊自身も状況をうまく整理できていなかった。
見知らぬ女子高生を、自宅に連れ帰っている。
我ながら理解不能な行動だと思う。だが、それでも足は自然に動いていた。
マンションの玄関で、少女は黙って靴を脱ぎ、丁寧に揃えた。
そして、ごく自然に頭を下げる。その仕草には礼儀があるが、どこかぎこちない。
緊張というより、「慣れていない」ことの表れに見えた。
「ベッド使う? ソファでもいいけど」
湊が問いかけると、少女は首を横に振った。
「ソファで大丈夫です。……というか、こんな知らない子、家に上げちゃっていいんですか?」
その言い方はまるで、自分のことではないようだった。
湊は苦笑しながら、頭をかいた。
「自分でも不思議に思ってるよ」
◇◇◇
湊はキッチンで湯を沸かしていた。
カップ麺にしようか、インスタントスープにしようか迷った末に、結局どちらも出してテーブルに置く。
少女はソファに座ったまま、小さく礼を言った。
「……ありがとうございます」
声は小さいが、はっきりしている。
そうして膝の上で指を組みながら、彼女はどこか所在なさげに部屋を見渡していた。
「この時間にさ、誰かに声かけられたら危ないと思わなかった?」
湊がそう言うと、少女はわずかに眉を寄せた。
けれど、反論も、肯定もしなかった。ただ少し、口元を引き結ぶだけ。
「まあ……俺が言える立場じゃないか。連れて帰ってきたし」
湊はカップを少女の前に置き、ソファの向かいに腰を下ろした。
湯を注ぐ音だけが部屋に響く。
しばらくの沈黙のあと、少女がぽつりと口を開いた。
「……別に、助けてほしいと思ってたわけじゃないんです」
「うん、そういう顔してた」
湊は軽く笑って、カップのふたを抑えたまま言った。
「でも、ちょっとだけでも誰かに声かけてもらえたら――って、思ってたんじゃない?」
少女は何も言わなかった。
けれどその目は、まるで答えを認めているように見えた。
湯気がふわりと昇る。
その向こうで、少女がふいに顔を上げた。
「……紬って言います。名前だけ、ですけど」
湊は少しだけ目を細めて、その言葉を受け取った。
「名前だけ、ね」
「苗字は……言いたくないです。今は」
その言い方は、どこか覚悟のような響きを含んでいた。
湊はそれ以上何も聞かず、静かにうなずいた。
「朝倉湊。こっちはフルネームで失礼」
少女――紬は、その名前を聞いて、一瞬だけまばたきをした。
だが、何かを悟った様子はなかった。ただ、また静かにうなずいた。
「……湊さん、ですね」
◇◇◇
カップ麺のふたを開ける音が、やけに大きく響いた。
テレビはつけていない。音楽も流していない。
ふたりの間にあるのは、コンビニの袋とスープの湯気と、それから妙に居心地の悪い沈黙だけだった。
「……おいしいです」
紬がそっとそう言った。
「それはよかった」
湊も手を止めずに言う。
向かいに座る少女の存在が、どこか現実感を持たないままだった。ついさっきまで、あのコンビニの軒下に立っていたのに、今は自分の部屋のソファでスープをすする声を聞いている。
「本当は……どこかに帰るつもりだったの?」
「ううん」
紬はかすかに首を横に振った。
その動きが、小動物のように控えめで、どこか危うい。
「帰れる場所がないって言ってたけど」
「そう、ですね……家族には、知られたくないから。今日のことも」
「家出?」
「そういうつもりじゃなかったんですけど……結果的に、そうなってるかも」
紬の声は淡々としていたが、ふとした瞬間に言葉が揺れる。
何かを隠しているというより、言葉を整理できていないまま話しているように見えた。
湊はそれ以上、踏み込まなかった。
問い詰めたところで、少女の肩を縮こまらせるだけだと思ったからだ。
代わりに、紙コップを指先で回しながら、少しだけ視線を逸らして言った。
「……家、わりと狭いから。今日はここで寝てもらって、明日の朝になったら……」
言いかけて、言葉を濁した。
紬は、静かにうなずいた。
「朝になったら、ちゃんと出ていきます」
「そうじゃない。無理しないで、って意味」
紬が、ふっと表情を緩めた。
「……優しいんですね、湊さん」
「いや、そういうんじゃなくて」
「じゃあ、変わってます。女の子連れて帰ってきて、何もしないんですから」
その一言で、湊は言葉を失った。
たしかに、そう言われればそうだった。
知らない女子高生を自分の部屋に泊めて、ただスープを飲ませている男など、冷静に考えればまともじゃない。
「なんか……俺も、自分が何やってんのかよくわかんないわ」
「でも、ありがとうございます」
その声は、今までよりもほんの少しだけ近かった。
湊はそれ以上何も言わず、ぬるくなったスープを口に運んだ。
◇◇◇
翌朝。
湊が目を覚ますと、カーテンの隙間からやわらかな朝日が差し込んでいた。
狭い部屋に、見慣れない違和感が残っている。
リビングのほうから、湯を沸かす音が聞こえた。
身を起こして、寝ぼけた頭で時計を確認する。午前七時。
遅くとも八時には出社しなければいけない。
Tシャツのままリビングへ行くと、紬がケトルの前に立っていた。
学校の制服ではなく、昨夜のままの私服にパーカーを羽織っている。
「おはようございます」
「……おはよう。早いんだな」
「もう出ていきます。ご迷惑かけました」
紬の声ははっきりしていたが、目の下には少しだけクマができていた。
眠れなかったのかもしれない。
テーブルの上には、スーパーの菓子パンが二つと、インスタントのドリップコーヒーが置かれている。
たぶん、湊が買い置きしていたものを見つけて用意したのだろう。
「パン、食べませんか?」
「……ありがとう。でも俺、朝はコーヒーだけでいいタイプだから」
湊は笑って、椅子に腰を下ろした。
紬も小さく笑った。
「じゃあ、これは私がもらいますね」
その仕草が、ほんの少しだけ「普通の女の子」っぽく見えた。
夜の沈黙と無防備さが、ほんの少し和らいでいた。
このまま別れてもきっと忘れるはずだった――そう、湊は思っていた。
だがその夜から、少女の顔が妙に頭に残るようになる。