薄暗い街灯の下、帰路につく朝倉湊の足音だけが静かに響いていた。
いつもの帰り道のはずだったが、視界の隅でふと、動きを止める。
公園のベンチにぽつんと座る、見覚えのある少女。
肩をすくめ、下を向いている姿が夜の闇に溶け込みそうだった。
「……紬か?」
湊が近づいて声をかけると、少女は顔を上げて驚いたように目を見開いた。
だが、すぐにその目は少しだけほっとしたように和らいだ。
「湊さん……」
声はかすかに震えていた。
暗がりの中でも、その表情には疲労が色濃く滲んでいる。
「どうしたんだ? こんなところで」
湊は静かに訊ねる。
紬は小さく息をつき、言葉を選ぶようにぽつりと答えた。
「最近、いろいろうまくいかなくて……」
沈黙が二人の間を満たす。
湊は慰めの言葉はかけず、ただ静かに「そっか」とだけ返した。
紬はそのまま視線を落とし、かすかに震える唇を押し殺す。
彼女の中で何かがこぼれそうになりながらも、必死に堪えているようだった。
夜の冷たい空気が紬の肩を震わせた。
「家に帰っても、あまり居心地が良くなくて……」
ぽつりと零れたその言葉に、湊は黙って頷く。
「今日は、よかったら俺の家に来るか?」
湊の声は優しく、無理強いはしない。
一瞬驚いたように目を見開いた紬だったが、やがて安心したように小さく頷いた。
二人は静かな夜道を歩き出す。
街灯の下、紬の表情は少しずつ和らぎ、肩の力が抜けていくのがわかった。
やがて湊の部屋に到着する。
こじんまりとしているが、温かみのある空間だった。
「今日はゆっくり休めよ」
湊はそう告げて、部屋の灯りを控えめに落とした。
紬は疲れ切った表情のまま、「ありがとうございます」と静かに答えた。
初めて、自分をさらけ出せる場所を見つけたように見えた。
湊はそんな彼女を見つめながら、自分の胸の奥にざわつく何かを感じていた。
街灯の明かりがぽつりぽつりと続く夜道を、二人は静かに歩いていた。
言葉は少なく、しかし沈黙が気まずいわけではなかった。
紬は少し前を歩き、時折足元の小石を蹴るように蹴り上げる。
湊はその後ろ姿をぼんやりと見つめていたが、あえて距離を詰めようとはしなかった。
「寒くないか?」
やがて湊が静かに尋ねる。
紬は振り返らずに、わずかに肩をすくめて答えた。
「少しだけ……でも、大丈夫」
風が頬を撫で、二人の間を冷たく通り抜ける。
湊は持っていたカバンから折り畳み傘を取り出し、さりげなく紬に差し出した。
「使うか?」
紬は一瞬戸惑ったように目を伏せたが、そっと受け取った。
「ありがとう」
そのやり取りに、わずかながら互いの距離が縮まったように感じられた。
歩みを再び進める二人の間に、ほのかな温もりが差し込むような静かな時間が流れた。
◇◇◇
湊の家の前に着く頃には、時刻はもう十時をまわっていた。
いつものように、と言うほど馴染んでいるわけではないが、これが二度目だということが互いの態度に少しだけ滲んでいた。
紬は何も言わずに頷き、先にドアを開けて中に入る。
部屋の空気は前と変わらず、すこしひんやりしていた。
「ただいま、って言っていいのかな、こういうのって」
靴を脱ぎながら紬がぽつりと言うと、湊はキッチン側から苦笑まじりに返した。
「言ってくれても、まあ……悪くはないかな」
「……ふふ、なんか、変だね」
「変だな」
笑い合うほどの軽さではないが、前よりもほんの少しだけ自然なやり取り。
初めてこの部屋に来たときの、あの張り詰めた沈黙とは違っていた。
「水でいい? コーヒーとかもあるけど」
「水で、お願い」
ペットボトルから注がれたグラスを受け取り、紬はいつものようにテーブルの前に腰を下ろした。
リュックを足元に置き、姿勢を整えるその動作に、どこか「慣れてしまいたくない」意志のようなものが感じられる。
「……また、来ちゃった」
「うん。来てくれてよかったと思ってる」
「本当に?」
「本当」
湊の答えは短く、だがまっすぐだった。
そのまましばらく視線が交わり、けれどまた自然に逸らされていく。
「……お風呂、借りてもいい?」
「うん。タオルはそこ。着替えも……この前と同じでいい?」
「ありがとう」
タオルとシャツを受け取り、紬はすっと立ち上がった。
湊の部屋に慣れてきたようでいて、やはりどこか他人行儀なままなのは、彼女自身の中に越えられない一線があるからなのかもしれない。
ドアが閉まる音がして、湊はソファに背をあずけた。
二度目の来訪――それだけのことなのに、自分の心は前よりずっと複雑に動いている。
風呂場のドアが小さく開く音がして、湊は自然とそちらに目を向けた。
湯気とともに現れた紬は、湊が貸したシャツを着ていた。裾が膝にかかるほど長くて、袖も指先を覆い隠してしまっている。
「……ごめん、長くなって」
「いや、大丈夫。ゆっくりしていいって言ったし」
湊はそう言って、彼女の手にした濡れたタオルを受け取ると、玄関脇のフックにかけた。
ふわりと香るシャンプーの匂いが、部屋の空気に新しく溶け込んでくる。
「寒くない?」
「ちょっとだけ。でも……平気」
言いながら、紬はいつもの位置――テーブル前のクッションに腰を下ろした。
ソファに座る湊とのあいだに、小さな距離がある。その距離を埋めようとせずに、でも目線だけはそらさずに。
「ねえ」
「ん?」
「……さっき、私、泣いてたよね」
「うん。無理に聞かないって言ったけど」
「……ううん。今なら、ちゃんと話せるかも」
紬は静かにそう言って、自分の髪の先を指でつまんだ。濡れた髪がぽとりと水滴を落とす。
その音すらも、妙に耳に残るほど、部屋は静かだった。
「いつもバイト先では、誰かの顔色を見ながら動いてて……。急にシフト代わってって言われても断れなかったり、店長に変なこと言われても笑ってやりすごしたり。……そうしないと、居場所がなくなりそうで」
「……」
「でも、たぶん私、自分のこと、ちょっと見失ってた。誰のために頑張ってるのかも、わからなくなってて」
紬は言葉を止めて、小さく息を吐いた。
「湊くんの顔を見たら、なんか、安心しちゃって……緊張が切れて、一気に崩れた。……恥ずかしいな、ほんと」
「恥ずかしくなんかないよ」
湊の声は柔らかかった。
けれどそれはただの慰めではなく、どこか核心に触れるものだった。
「泣ける場所があるのって、大事なことだと思う。泣ける人がいるってことも」
紬は、ゆっくりと湊を見た。
その目には、もう涙は浮かんでいなかったけれど、深いところにあったものが少しだけほどけたような、そんな静けさがあった。
「……ねえ、もう少しそっち、行ってもいい?」
「もちろん」
紬はクッションを手に持ち、湊の隣のスペースへとにじり寄った。
背もたれに軽くもたれて、湊の隣に腰を下ろす。少し肌寒い空気のなかで、彼の体温がじんわりと伝わってくる。
「湊くんって、あったかいね」
「体温だけは高いって、昔から言われてた」
「ふふ、なんかそれ、わかる気がする」
自然な笑みが、紬の口元に浮かんだ。
沈黙はもう、気まずさではなく、安心の余白になっていた。
そしてその静けさの中で、湊は紬の髪にそっと手を伸ばした。
「……乾かす? ドライヤー持ってくるよ」
「ううん。……もう少し、こうしててもいい?」
「わかった」
背中を預け、少しずつ呼吸を合わせるように寄り添う二人。
まだ言葉にしきれない何かが、この部屋の空気に溶けていた。
◇◇◇
シーツの擦れる音が、静かな部屋に微かに響いた。
湊がまどろみに沈みかけたそのとき——肩に、ふわりと何かが重なる。
目を開けると、すぐ近くに紬の顔があった。
髪が濡れている。まだ完全には乾いていないまま、そっと布団に潜り込んできたらしい。
「……眠れなくて」
囁くような声。
そのまま紬は、ゆっくりと湊の胸のあたりに顔を寄せた。
指先が、シャツの生地の上からそっと触れる。
触れるだけ。それ以上は何もしていない。でも、十分に伝わる。
その距離の近さも、呼吸の浅さも、彼女の心が揺れていることを。
「……お願い。今日だけでいいから、優しくして」
ぽつりと、そう零した。
湊は静かに目を閉じて、短く息を吐く。
紬の頭に手を添えて、その動きを止めるように軽く撫でる。
「……紬」
その名前を呼ぶと、彼女の指が微かに震えた。
「気持ちは、嬉しい。でも……それは違うと思う」
紬は顔を上げた。
闇の中でもわかる、潤んだ瞳。まるで、何かを試されているような気さえした。
「……どうして」
その問いは、非難ではなく、ただ真剣だった。
「俺、今ここで紬を抱いたら……紬のこと、ちゃんと見られなくなる気がするんだ」
「……見られなくなる?」
「うん。寂しいから、傷ついてるから……そういう理由で体を重ねるのは、俺にはできない。
俺は……紬が笑ってるところが好きなんだ。無理に笑ってるんじゃなくて、ちゃんと、自分で笑えてる紬が」
言葉を選びながら、それでもまっすぐに伝える。
紬はしばらく黙っていた。
けれど、やがて彼の胸に顔を戻し、ぎゅっと服をつかんだ。
「……ほんとに、バカみたいだよね。私」
「そんなことないよ」
「だって、わかってるのに、こうして誰かのぬくもりに縋ろうとしちゃって。……どうしようもないのに」
「……じゃあ、俺が代わりにぎゅってしてる。ぬくもりが欲しいなら、それでいいだろ?」
冗談めかしたような言い方。
でもその腕は、確かに優しく彼女を包んでいた。
「……うん」
紬はようやく、静かに頷いた。
そのまま、彼の胸元で目を閉じる。
重なり合ったのは、肌じゃない。
心のどこかにある、深い場所のあたたかさだった。
湊もまた、彼女の背を撫でながら、ゆるやかな呼吸のリズムに身を委ねていく。
ただ、それだけでよかった。
いまはそれ以上、求め合わなくてもいいと思えた。
◇◇◇
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
湊が目を覚ましたとき、紬はすでに起きていた。
キッチンの方で、小さな音を立てて何かしている。
味噌汁の香りと、トーストが焼ける匂いが、ゆっくりと部屋に満ちていた。
——まるで、昔からこうしていたみたいな、自然な朝だった。
けれど、ふたりの間には、ほんのわずかに昨日の夜の余韻が残っていた。
湊がリビングに入ると、紬はちょうどカップにコーヒーを注いでいるところだった。
彼に気づいて、ちらりと視線を上げる。
「……おはよう」
「おはよう」
返事はあったけれど、どこか声がよそよそしい。
湊はテーブルにつきながら、その雰囲気を感じ取っていた。
コップが置かれる音。
味噌汁の湯気が、ふわりと湯気の輪を描く。
「勝手に作っちゃった。余ってた野菜、味噌汁にしただけだけど」
「ああ……ありがとう。助かる」
言葉を交わしても、どこかよそよそしい温度。
昨夜の、あの距離感のまま、どちらもまだ立ち止まっている。
しばらく、黙って食事が続いた。
スプーンの音、箸の音、咀嚼する音だけが、静かに空気を満たす。
そんな沈黙を破ったのは、紬だった。
「……ごめんね、昨日。変なことして」
そう言って、コーヒーカップを両手で包むように持ちながら、視線はカップの中に落としたまま。
湊は、少し考えてから、穏やかな声で応えた。
「……別に、変なことなんかじゃないよ。紬の気持ち、ちゃんと受け取ったつもり」
「でも……」
「俺の方こそ、ごめん。拒むみたいな形になって」
「……ううん、わかってた。ああいうのって、どっちかが無理してても意味ないって、ちゃんと知ってる。でも……やっぱりちょっと、恥ずかしいな」
苦笑のような微笑みを浮かべる紬。
それは、昨夜の真剣さとはまた違う、日常に戻ろうとする彼女の表情だった。
湊は、それを見てようやく息を吐く。
重苦しかった空気が、すこしずつほどけていくのを感じながら。
「今日、仕事?」
「ううん、休み。昼からバイトの面接あるけど、それまで暇」
「そっか……じゃあ、せっかくだし、散歩でもする?」
「え?」
「駅の近くに、新しいパン屋できてたよ。こないだ、ちょっと並んでた」
紬は、ほんの一瞬目を丸くしたあと、ふわりと笑った。
「……うん。じゃあ、それまで少しだけ付き合ってよ」
まだ少し、照れくささが混じるけれど——
それでも、ふたりの距離は少しだけ、夜より近づいた気がした。
駅の改札前。
紬は立ち止まり、ちらりと湊を見上げた。
「……昨日はありがと。迷惑かけたよね」
「いや。俺のほうこそ、ごめん。ちゃんと聞いてやれなくて」
「ううん、聞いてくれてたよ」
そう言って、紬は小さく笑う。けれどその目元には、どこか迷いのような影があった。
「……また、どこかで話せる?」
少しの間、湊は黙って頷いた。
「うん。気が向いたら、連絡して」
それだけを言って、彼は改札の向こうへと消えていった。
紬はその背中を見送りながら、胸の奥がふわりと揺れるのを感じていた。