※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

53 / 83
true 2話

薄暗い街灯の下、帰路につく朝倉湊の足音だけが静かに響いていた。

いつもの帰り道のはずだったが、視界の隅でふと、動きを止める。

 

公園のベンチにぽつんと座る、見覚えのある少女。

肩をすくめ、下を向いている姿が夜の闇に溶け込みそうだった。

 

「……紬か?」

 

湊が近づいて声をかけると、少女は顔を上げて驚いたように目を見開いた。

だが、すぐにその目は少しだけほっとしたように和らいだ。

 

「湊さん……」

 

声はかすかに震えていた。

暗がりの中でも、その表情には疲労が色濃く滲んでいる。

 

「どうしたんだ? こんなところで」

 

湊は静かに訊ねる。

 

紬は小さく息をつき、言葉を選ぶようにぽつりと答えた。

 

「最近、いろいろうまくいかなくて……」

 

沈黙が二人の間を満たす。

湊は慰めの言葉はかけず、ただ静かに「そっか」とだけ返した。

 

紬はそのまま視線を落とし、かすかに震える唇を押し殺す。

彼女の中で何かがこぼれそうになりながらも、必死に堪えているようだった。

 

夜の冷たい空気が紬の肩を震わせた。

 

「家に帰っても、あまり居心地が良くなくて……」

 

ぽつりと零れたその言葉に、湊は黙って頷く。

 

「今日は、よかったら俺の家に来るか?」

 

湊の声は優しく、無理強いはしない。

 

一瞬驚いたように目を見開いた紬だったが、やがて安心したように小さく頷いた。

 

二人は静かな夜道を歩き出す。

街灯の下、紬の表情は少しずつ和らぎ、肩の力が抜けていくのがわかった。

 

やがて湊の部屋に到着する。

こじんまりとしているが、温かみのある空間だった。

 

「今日はゆっくり休めよ」

 

湊はそう告げて、部屋の灯りを控えめに落とした。

 

紬は疲れ切った表情のまま、「ありがとうございます」と静かに答えた。

初めて、自分をさらけ出せる場所を見つけたように見えた。

 

湊はそんな彼女を見つめながら、自分の胸の奥にざわつく何かを感じていた。

 

街灯の明かりがぽつりぽつりと続く夜道を、二人は静かに歩いていた。

言葉は少なく、しかし沈黙が気まずいわけではなかった。

 

紬は少し前を歩き、時折足元の小石を蹴るように蹴り上げる。

湊はその後ろ姿をぼんやりと見つめていたが、あえて距離を詰めようとはしなかった。

 

「寒くないか?」

 

やがて湊が静かに尋ねる。

 

紬は振り返らずに、わずかに肩をすくめて答えた。

 

「少しだけ……でも、大丈夫」

 

風が頬を撫で、二人の間を冷たく通り抜ける。

湊は持っていたカバンから折り畳み傘を取り出し、さりげなく紬に差し出した。

 

「使うか?」

 

紬は一瞬戸惑ったように目を伏せたが、そっと受け取った。

 

「ありがとう」

 

そのやり取りに、わずかながら互いの距離が縮まったように感じられた。

 

歩みを再び進める二人の間に、ほのかな温もりが差し込むような静かな時間が流れた。

 

◇◇◇

 

湊の家の前に着く頃には、時刻はもう十時をまわっていた。

 

いつものように、と言うほど馴染んでいるわけではないが、これが二度目だということが互いの態度に少しだけ滲んでいた。

紬は何も言わずに頷き、先にドアを開けて中に入る。

部屋の空気は前と変わらず、すこしひんやりしていた。

 

「ただいま、って言っていいのかな、こういうのって」

 

靴を脱ぎながら紬がぽつりと言うと、湊はキッチン側から苦笑まじりに返した。

 

「言ってくれても、まあ……悪くはないかな」

 

「……ふふ、なんか、変だね」

 

「変だな」

 

笑い合うほどの軽さではないが、前よりもほんの少しだけ自然なやり取り。

初めてこの部屋に来たときの、あの張り詰めた沈黙とは違っていた。

 

「水でいい? コーヒーとかもあるけど」

 

「水で、お願い」

 

ペットボトルから注がれたグラスを受け取り、紬はいつものようにテーブルの前に腰を下ろした。

リュックを足元に置き、姿勢を整えるその動作に、どこか「慣れてしまいたくない」意志のようなものが感じられる。

 

「……また、来ちゃった」

 

「うん。来てくれてよかったと思ってる」

 

「本当に?」

 

「本当」

 

湊の答えは短く、だがまっすぐだった。

そのまましばらく視線が交わり、けれどまた自然に逸らされていく。

 

「……お風呂、借りてもいい?」

 

「うん。タオルはそこ。着替えも……この前と同じでいい?」

 

「ありがとう」

 

タオルとシャツを受け取り、紬はすっと立ち上がった。

湊の部屋に慣れてきたようでいて、やはりどこか他人行儀なままなのは、彼女自身の中に越えられない一線があるからなのかもしれない。

 

ドアが閉まる音がして、湊はソファに背をあずけた。

二度目の来訪――それだけのことなのに、自分の心は前よりずっと複雑に動いている。

 

風呂場のドアが小さく開く音がして、湊は自然とそちらに目を向けた。

湯気とともに現れた紬は、湊が貸したシャツを着ていた。裾が膝にかかるほど長くて、袖も指先を覆い隠してしまっている。

 

「……ごめん、長くなって」

 

「いや、大丈夫。ゆっくりしていいって言ったし」

 

湊はそう言って、彼女の手にした濡れたタオルを受け取ると、玄関脇のフックにかけた。

ふわりと香るシャンプーの匂いが、部屋の空気に新しく溶け込んでくる。

 

「寒くない?」

 

「ちょっとだけ。でも……平気」

 

言いながら、紬はいつもの位置――テーブル前のクッションに腰を下ろした。

ソファに座る湊とのあいだに、小さな距離がある。その距離を埋めようとせずに、でも目線だけはそらさずに。

 

「ねえ」

 

「ん?」

 

「……さっき、私、泣いてたよね」

 

「うん。無理に聞かないって言ったけど」

 

「……ううん。今なら、ちゃんと話せるかも」

 

紬は静かにそう言って、自分の髪の先を指でつまんだ。濡れた髪がぽとりと水滴を落とす。

その音すらも、妙に耳に残るほど、部屋は静かだった。

 

「いつもバイト先では、誰かの顔色を見ながら動いてて……。急にシフト代わってって言われても断れなかったり、店長に変なこと言われても笑ってやりすごしたり。……そうしないと、居場所がなくなりそうで」

 

「……」

 

「でも、たぶん私、自分のこと、ちょっと見失ってた。誰のために頑張ってるのかも、わからなくなってて」

 

紬は言葉を止めて、小さく息を吐いた。

 

「湊くんの顔を見たら、なんか、安心しちゃって……緊張が切れて、一気に崩れた。……恥ずかしいな、ほんと」

 

「恥ずかしくなんかないよ」

 

湊の声は柔らかかった。

けれどそれはただの慰めではなく、どこか核心に触れるものだった。

 

「泣ける場所があるのって、大事なことだと思う。泣ける人がいるってことも」

 

紬は、ゆっくりと湊を見た。

その目には、もう涙は浮かんでいなかったけれど、深いところにあったものが少しだけほどけたような、そんな静けさがあった。

 

「……ねえ、もう少しそっち、行ってもいい?」

 

「もちろん」

 

紬はクッションを手に持ち、湊の隣のスペースへとにじり寄った。

背もたれに軽くもたれて、湊の隣に腰を下ろす。少し肌寒い空気のなかで、彼の体温がじんわりと伝わってくる。

 

「湊くんって、あったかいね」

 

「体温だけは高いって、昔から言われてた」

 

「ふふ、なんかそれ、わかる気がする」

 

自然な笑みが、紬の口元に浮かんだ。

沈黙はもう、気まずさではなく、安心の余白になっていた。

 

そしてその静けさの中で、湊は紬の髪にそっと手を伸ばした。

 

「……乾かす? ドライヤー持ってくるよ」

 

「ううん。……もう少し、こうしててもいい?」

 

「わかった」

 

背中を預け、少しずつ呼吸を合わせるように寄り添う二人。

まだ言葉にしきれない何かが、この部屋の空気に溶けていた。

 

◇◇◇

 

シーツの擦れる音が、静かな部屋に微かに響いた。

 湊がまどろみに沈みかけたそのとき——肩に、ふわりと何かが重なる。

 

 目を開けると、すぐ近くに紬の顔があった。

 髪が濡れている。まだ完全には乾いていないまま、そっと布団に潜り込んできたらしい。

 

「……眠れなくて」

 

 囁くような声。

 そのまま紬は、ゆっくりと湊の胸のあたりに顔を寄せた。

 

 指先が、シャツの生地の上からそっと触れる。

 触れるだけ。それ以上は何もしていない。でも、十分に伝わる。

 その距離の近さも、呼吸の浅さも、彼女の心が揺れていることを。

 

「……お願い。今日だけでいいから、優しくして」

 

 ぽつりと、そう零した。

 

 湊は静かに目を閉じて、短く息を吐く。

 紬の頭に手を添えて、その動きを止めるように軽く撫でる。

 

「……紬」

 

 その名前を呼ぶと、彼女の指が微かに震えた。

 

「気持ちは、嬉しい。でも……それは違うと思う」

 

 紬は顔を上げた。

 闇の中でもわかる、潤んだ瞳。まるで、何かを試されているような気さえした。

 

「……どうして」

 

 その問いは、非難ではなく、ただ真剣だった。

 

「俺、今ここで紬を抱いたら……紬のこと、ちゃんと見られなくなる気がするんだ」

 

「……見られなくなる?」

 

「うん。寂しいから、傷ついてるから……そういう理由で体を重ねるのは、俺にはできない。

 俺は……紬が笑ってるところが好きなんだ。無理に笑ってるんじゃなくて、ちゃんと、自分で笑えてる紬が」

 

 言葉を選びながら、それでもまっすぐに伝える。

 

 紬はしばらく黙っていた。

 けれど、やがて彼の胸に顔を戻し、ぎゅっと服をつかんだ。

 

「……ほんとに、バカみたいだよね。私」

 

「そんなことないよ」

 

「だって、わかってるのに、こうして誰かのぬくもりに縋ろうとしちゃって。……どうしようもないのに」

 

「……じゃあ、俺が代わりにぎゅってしてる。ぬくもりが欲しいなら、それでいいだろ?」

 

 冗談めかしたような言い方。

 でもその腕は、確かに優しく彼女を包んでいた。

 

「……うん」

 

 紬はようやく、静かに頷いた。

 そのまま、彼の胸元で目を閉じる。

 

 重なり合ったのは、肌じゃない。

 心のどこかにある、深い場所のあたたかさだった。

 

 湊もまた、彼女の背を撫でながら、ゆるやかな呼吸のリズムに身を委ねていく。

 

 ただ、それだけでよかった。

 いまはそれ以上、求め合わなくてもいいと思えた。

 

◇◇◇

 

カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。

 

 湊が目を覚ましたとき、紬はすでに起きていた。

 キッチンの方で、小さな音を立てて何かしている。

 味噌汁の香りと、トーストが焼ける匂いが、ゆっくりと部屋に満ちていた。

 

 ——まるで、昔からこうしていたみたいな、自然な朝だった。

 

 けれど、ふたりの間には、ほんのわずかに昨日の夜の余韻が残っていた。

 

 湊がリビングに入ると、紬はちょうどカップにコーヒーを注いでいるところだった。

 彼に気づいて、ちらりと視線を上げる。

 

「……おはよう」

 

「おはよう」

 

 返事はあったけれど、どこか声がよそよそしい。

 湊はテーブルにつきながら、その雰囲気を感じ取っていた。

 

 コップが置かれる音。

 味噌汁の湯気が、ふわりと湯気の輪を描く。

 

「勝手に作っちゃった。余ってた野菜、味噌汁にしただけだけど」

 

「ああ……ありがとう。助かる」

 

 言葉を交わしても、どこかよそよそしい温度。

 昨夜の、あの距離感のまま、どちらもまだ立ち止まっている。

 

 しばらく、黙って食事が続いた。

 スプーンの音、箸の音、咀嚼する音だけが、静かに空気を満たす。

 

 そんな沈黙を破ったのは、紬だった。

 

「……ごめんね、昨日。変なことして」

 

 そう言って、コーヒーカップを両手で包むように持ちながら、視線はカップの中に落としたまま。

 

 湊は、少し考えてから、穏やかな声で応えた。

 

「……別に、変なことなんかじゃないよ。紬の気持ち、ちゃんと受け取ったつもり」

 

「でも……」

 

「俺の方こそ、ごめん。拒むみたいな形になって」

 

「……ううん、わかってた。ああいうのって、どっちかが無理してても意味ないって、ちゃんと知ってる。でも……やっぱりちょっと、恥ずかしいな」

 

 苦笑のような微笑みを浮かべる紬。

 それは、昨夜の真剣さとはまた違う、日常に戻ろうとする彼女の表情だった。

 

 湊は、それを見てようやく息を吐く。

 重苦しかった空気が、すこしずつほどけていくのを感じながら。

 

「今日、仕事?」

 

「ううん、休み。昼からバイトの面接あるけど、それまで暇」

 

「そっか……じゃあ、せっかくだし、散歩でもする?」

 

「え?」

 

「駅の近くに、新しいパン屋できてたよ。こないだ、ちょっと並んでた」

 

 紬は、ほんの一瞬目を丸くしたあと、ふわりと笑った。

 

「……うん。じゃあ、それまで少しだけ付き合ってよ」

 

 まだ少し、照れくささが混じるけれど——

 それでも、ふたりの距離は少しだけ、夜より近づいた気がした。

 

駅の改札前。

 紬は立ち止まり、ちらりと湊を見上げた。

 

「……昨日はありがと。迷惑かけたよね」

 

「いや。俺のほうこそ、ごめん。ちゃんと聞いてやれなくて」

 

「ううん、聞いてくれてたよ」

 

 そう言って、紬は小さく笑う。けれどその目元には、どこか迷いのような影があった。

 

「……また、どこかで話せる?」

 

 少しの間、湊は黙って頷いた。

 

「うん。気が向いたら、連絡して」

 

 それだけを言って、彼は改札の向こうへと消えていった。

 

 紬はその背中を見送りながら、胸の奥がふわりと揺れるのを感じていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。