※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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true 4話

ざあ、と頭上から冷たい水が落ちてくる。

 

 夜の街、駅の外。傘を持たずにただ立ち尽くす紬の肩が、じわじわと濡れていく。

 

 吐く息が白くにじんで、頬を伝う雨粒のどれが涙なのか、もう自分でも分からない。

 

 行き交う人々は、誰も彼女を気にとめない。肩がぶつかっても、冷たい視線を向けられても、痛くもかゆくもなかった。ただ――寂しかった。

 

 そのとき。

 

「……大丈夫?……でもないか」

 

 背後から、聞き慣れた声がした。

 

 はっとして振り返ると、そこにいたのは湊だった。傘をさしながらも、自分の肩は濡れていて――急いで走ってきたのだろう。髪も少しだけ乱れている。

 

 紬は言葉を返せなかった。ただ、唇をかすかに震わせたまま、見上げる。

 

 彼の表情は、やわらかく、でもどこか困っているようで――そのどちらも、見覚えのある顔だった。

 

「なんで、ここに……」

 

 か細く絞り出した紬の声は、雨音に紛れてしまいそうなくらい弱々しかった。

 

「家、帰ったんじゃなかったの?」

 

「……歩いてたら、ここに着いてた。なんでだろうね、自分でもわかんない」

 

 そう言って、紬は少しだけ笑った。けれどその笑みは、どこまでも寂しげだった。

 

 湊はそっと傘を差し出して、紬の濡れた頭に被せる。彼女の肩が小さく震えたのを感じ取って、黙ったまま、傘の柄を持つ手に力を込めた。

 

「……とりあえず、うち来る?」

 

 しばらく間を置いて、湊が言う。

 

「風邪引くよ、そんなに濡れてたら」

 

 紬は一瞬だけ、湊の目を見つめる。

 

 そこに、責めるような色はなかった。ただ、あたたかくて――それが余計に、胸を締めつけた。

 

 ふいに、視界が滲んだ。けれどそれを見せないように、紬は小さく頷いた。

 

「……うん」

 

◇◇◇

 

湊の部屋に戻るころには、紬の身体はすっかり冷え切っていた。

 

 鍵を開けて明かりをつけると、薄暗い部屋にふわりとした灯りが広がる。湊はタオルと着替えを探しに、押し入れの奥を探っていた。

 

「これ……良かったら使って」

 

 差し出されたのは、シンプルな白いシャツと、ふわふわのタオル。

 

「ありがとう。……シャワー、借りていい?」

 

「もちろん」

 

 紬は軽く頷くと、バスルームへと向かった。

 

 熱いシャワーの音がしばらく続く。

 

 湊はリビングで待ちながら、まだ濡れている自分の髪をタオルで拭き、無言のまま窓の外を見ていた。雨はまだ止まない。けれど、あの時のような沈黙は、今は少し違う温度を持っていた。

 

 やがてシャワーの音が止まり、ドアが静かに開いた。

 

 湊が振り返ると、そこには――彼のシャツを着た紬が立っていた。細身の身体には少し大きくて、袖が余っている。ボタンはきちんと留められているが、襟元から鎖骨が少し覗く。

 

 濡れた髪をバスタオルで拭きながら、紬は湊の視線に気づいて、立ち止まった。

 

「……変かな」

 

 そうつぶやく声は、少しだけ掠れていた。

 

「ううん。似合ってる」

 

 湊は自然にそう言っていた。嘘じゃなかった。シャツがどうというより、その表情――少しだけ安心したような、その顔が。

 

 紬は何も言わず、湊の隣に腰を下ろす。

 

 二人の間には、言葉よりも長い静けさが流れた。雨の音だけが部屋に響いている。

 

 しばらくして、ぽつりと紬が言った。

 

「……ねえ」

 

「ん?」

 

「……抱きしめて」

 

 湊は、ゆっくりと彼女の方を向いた。

 

 そこにいたのは、弱さを隠そうともしない紬だった。虚勢も、意地もない。ただ、誰かに求められたいと願う、一人の女の子。

 

 彼は何も言わずに、そっと腕を伸ばした。

 

 紬はその腕の中に、ためらいながらも身体を滑り込ませる。濡れた髪からふわりと石鹸の香りがした。肩に、頬に、彼女の体温がじわじわと移ってくる。

 

「……まだ、ちょっと怖いの」

 

 紬の声が、胸元で震えていた。

 

「いろいろ、上手くいかなくて。どうしてこんなに……って、自分でも思うんだけど」

 

 湊は彼女の背をそっと撫でながら、耳元で静かに言った。

 

「いいよ、そう思ってても。今はそれで」

 

 それだけで、紬はまた一度、目を閉じた。

 

◇◇◇

 

リビングの明かりを消し、薄暗い照明だけが部屋を照らす。

 

 湊の腕の中で、紬の呼吸が少しずつ落ち着いていく。

 

 ベッドに誘われ、そっと腰を下ろした紬は、湊の胸に顔を埋める。

 

「……ねえ」

 

 囁くような声。

 

「キスしてもいい?」

 

 湊はその言葉に、一瞬だけ迷った。

 

 胸の奥で、ざわつく感情。

 

 過去の自分と今の自分が交差し、何かを押し留めようとする。

 

 だが、紬の瞳は真剣だった。

 

 湊はゆっくりと唇を近づける。

 

 しかし、寸前で彼の手が止まる。

 

「……ごめん」

 

 その一言に、紬は肩を震わせた。

 

「どうして?」

 

「今はまだ……俺は、そういう気持ちじゃないんだ」

 

 湊の目が真っ直ぐに紬を見つめる。

 

「でも、君のことは大事……だと思ってる」

 

 紬は涙をこらえながら、ただ頷く。

 

◇◇◇

 

部屋の中は静寂に包まれていた。

窓の外から聞こえる雨音も、いつの間にかやんでいる。

 

湊の寝息が穏やかに響く中、紬はそっと目を覚ました。

彼が深い眠りに落ちていることを確かめると、息を殺して身を起こす。

 

優しく伸ばした指先が、眠る彼の顔へと触れる。

そして唇が、彼の唇に静かに触れた。

 

軽く、しかし確かな温もりを残して離れたそのあと、紬は首筋へと手を這わせる。

髪の生え際に近い、見えにくい場所に、そっと小さな跡をつけた。

 

その痕跡は、言葉にならない想いの証。

誰にも気づかれない、小さな二人だけの秘密だった。

 

紬は静かに微笑み、またそっと布団の中へと戻る。

彼のぬくもりを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。

 

◇◇◇

 

朝の光がカーテンの隙間から静かに差し込む。

 紬はすでに起きて、キッチンでトーストを焼きながらコーヒーを淹れていた。

 

 湊はまだ眠そうに目をこすりつつリビングに現れる。

 二人の間に言葉少なげな空気が漂うが、どこか柔らかい温もりも感じられた。

 

「おはよう」

 

 紬の声は、いつもより少しだけ落ち着いていて、優しさが滲んでいる。

 

「おはよう。よく眠れたか?」

 

 湊が尋ねる。

 

「うん、まあね。湊さんは?」

 

「俺も。君が隣にいてくれたから、落ち着いて眠れた気がする」

 

 紬は少し恥ずかしそうに目を伏せる。

 

「……昨日はありがとう。変に気を遣わせたかもって思ってて……」

 

「気遣いなんてしてないよ。むしろ俺の方が、君に助けられた」

 

 湊の言葉に紬の顔が少しだけ緩む。

 

「でも、あの時、無理してない?」

 

「大丈夫。ああいう時は、誰かのぬくもりがあれば、少し楽になるから」

 

 少し間を置いて、紬が続ける。

 

「……私、まだちゃんと自分のこと話せないけど、湊さんがいてくれて嬉しい」

 

「ゆっくりでいいよ。急がなくていい」

 

 湊は穏やかな口調で答えた。

 

「ねえ、湊さんはどうしてそんなに優しいの?」

 

 紬がふと尋ねる。

 

「そりゃ、君みたいな子を放っておけないからさ」

 

 湊は少し照れくさそうに笑う。

 

「……ありがとう。私、少しずつだけど、前より心が軽くなってる気がする」

 

「それはよかった。俺も、そう感じてる」

 

 しばらく二人は穏やかな時間を共有し、朝の静かな食卓が続いた。

 

食事を終え、ゆっくりと時間が流れていく中で、紬は立ち上がり、窓辺で制服のリボンを結び直した。

 まだ少し震える指先が、その細やかな動きに現れている。

 

「そろそろ行くね」

 

 紬が声をかける。湊は無言で頷き、軽く笑みを浮かべる。

 

 それぞれが身支度を整え、紬は背負っていたリュックを肩にかけた。

 湊はコートを手に取り、外の天気を確認する。

 

「今日は雨、降ってないみたいだな」

 

「うん。よかった」

 

 二人は玄関先で軽く目を合わせ、ぎこちないけれど温かい空気が漂う。

 

「気をつけてね」

 

「ありがとう。湊さんも」

 

 静かな言葉を交わし合いながら、紬はドアを開けて外へと踏み出した。

 

 湊はその背中を見送り、扉を閉めてからゆっくりと息を吐いた。

 

 短い時間だけれど、確かな距離が縮まった朝だった。

 

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