ざあ、と頭上から冷たい水が落ちてくる。
夜の街、駅の外。傘を持たずにただ立ち尽くす紬の肩が、じわじわと濡れていく。
吐く息が白くにじんで、頬を伝う雨粒のどれが涙なのか、もう自分でも分からない。
行き交う人々は、誰も彼女を気にとめない。肩がぶつかっても、冷たい視線を向けられても、痛くもかゆくもなかった。ただ――寂しかった。
そのとき。
「……大丈夫?……でもないか」
背後から、聞き慣れた声がした。
はっとして振り返ると、そこにいたのは湊だった。傘をさしながらも、自分の肩は濡れていて――急いで走ってきたのだろう。髪も少しだけ乱れている。
紬は言葉を返せなかった。ただ、唇をかすかに震わせたまま、見上げる。
彼の表情は、やわらかく、でもどこか困っているようで――そのどちらも、見覚えのある顔だった。
「なんで、ここに……」
か細く絞り出した紬の声は、雨音に紛れてしまいそうなくらい弱々しかった。
「家、帰ったんじゃなかったの?」
「……歩いてたら、ここに着いてた。なんでだろうね、自分でもわかんない」
そう言って、紬は少しだけ笑った。けれどその笑みは、どこまでも寂しげだった。
湊はそっと傘を差し出して、紬の濡れた頭に被せる。彼女の肩が小さく震えたのを感じ取って、黙ったまま、傘の柄を持つ手に力を込めた。
「……とりあえず、うち来る?」
しばらく間を置いて、湊が言う。
「風邪引くよ、そんなに濡れてたら」
紬は一瞬だけ、湊の目を見つめる。
そこに、責めるような色はなかった。ただ、あたたかくて――それが余計に、胸を締めつけた。
ふいに、視界が滲んだ。けれどそれを見せないように、紬は小さく頷いた。
「……うん」
◇◇◇
湊の部屋に戻るころには、紬の身体はすっかり冷え切っていた。
鍵を開けて明かりをつけると、薄暗い部屋にふわりとした灯りが広がる。湊はタオルと着替えを探しに、押し入れの奥を探っていた。
「これ……良かったら使って」
差し出されたのは、シンプルな白いシャツと、ふわふわのタオル。
「ありがとう。……シャワー、借りていい?」
「もちろん」
紬は軽く頷くと、バスルームへと向かった。
熱いシャワーの音がしばらく続く。
湊はリビングで待ちながら、まだ濡れている自分の髪をタオルで拭き、無言のまま窓の外を見ていた。雨はまだ止まない。けれど、あの時のような沈黙は、今は少し違う温度を持っていた。
やがてシャワーの音が止まり、ドアが静かに開いた。
湊が振り返ると、そこには――彼のシャツを着た紬が立っていた。細身の身体には少し大きくて、袖が余っている。ボタンはきちんと留められているが、襟元から鎖骨が少し覗く。
濡れた髪をバスタオルで拭きながら、紬は湊の視線に気づいて、立ち止まった。
「……変かな」
そうつぶやく声は、少しだけ掠れていた。
「ううん。似合ってる」
湊は自然にそう言っていた。嘘じゃなかった。シャツがどうというより、その表情――少しだけ安心したような、その顔が。
紬は何も言わず、湊の隣に腰を下ろす。
二人の間には、言葉よりも長い静けさが流れた。雨の音だけが部屋に響いている。
しばらくして、ぽつりと紬が言った。
「……ねえ」
「ん?」
「……抱きしめて」
湊は、ゆっくりと彼女の方を向いた。
そこにいたのは、弱さを隠そうともしない紬だった。虚勢も、意地もない。ただ、誰かに求められたいと願う、一人の女の子。
彼は何も言わずに、そっと腕を伸ばした。
紬はその腕の中に、ためらいながらも身体を滑り込ませる。濡れた髪からふわりと石鹸の香りがした。肩に、頬に、彼女の体温がじわじわと移ってくる。
「……まだ、ちょっと怖いの」
紬の声が、胸元で震えていた。
「いろいろ、上手くいかなくて。どうしてこんなに……って、自分でも思うんだけど」
湊は彼女の背をそっと撫でながら、耳元で静かに言った。
「いいよ、そう思ってても。今はそれで」
それだけで、紬はまた一度、目を閉じた。
◇◇◇
リビングの明かりを消し、薄暗い照明だけが部屋を照らす。
湊の腕の中で、紬の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
ベッドに誘われ、そっと腰を下ろした紬は、湊の胸に顔を埋める。
「……ねえ」
囁くような声。
「キスしてもいい?」
湊はその言葉に、一瞬だけ迷った。
胸の奥で、ざわつく感情。
過去の自分と今の自分が交差し、何かを押し留めようとする。
だが、紬の瞳は真剣だった。
湊はゆっくりと唇を近づける。
しかし、寸前で彼の手が止まる。
「……ごめん」
その一言に、紬は肩を震わせた。
「どうして?」
「今はまだ……俺は、そういう気持ちじゃないんだ」
湊の目が真っ直ぐに紬を見つめる。
「でも、君のことは大事……だと思ってる」
紬は涙をこらえながら、ただ頷く。
◇◇◇
部屋の中は静寂に包まれていた。
窓の外から聞こえる雨音も、いつの間にかやんでいる。
湊の寝息が穏やかに響く中、紬はそっと目を覚ました。
彼が深い眠りに落ちていることを確かめると、息を殺して身を起こす。
優しく伸ばした指先が、眠る彼の顔へと触れる。
そして唇が、彼の唇に静かに触れた。
軽く、しかし確かな温もりを残して離れたそのあと、紬は首筋へと手を這わせる。
髪の生え際に近い、見えにくい場所に、そっと小さな跡をつけた。
その痕跡は、言葉にならない想いの証。
誰にも気づかれない、小さな二人だけの秘密だった。
紬は静かに微笑み、またそっと布団の中へと戻る。
彼のぬくもりを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
◇◇◇
朝の光がカーテンの隙間から静かに差し込む。
紬はすでに起きて、キッチンでトーストを焼きながらコーヒーを淹れていた。
湊はまだ眠そうに目をこすりつつリビングに現れる。
二人の間に言葉少なげな空気が漂うが、どこか柔らかい温もりも感じられた。
「おはよう」
紬の声は、いつもより少しだけ落ち着いていて、優しさが滲んでいる。
「おはよう。よく眠れたか?」
湊が尋ねる。
「うん、まあね。湊さんは?」
「俺も。君が隣にいてくれたから、落ち着いて眠れた気がする」
紬は少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「……昨日はありがとう。変に気を遣わせたかもって思ってて……」
「気遣いなんてしてないよ。むしろ俺の方が、君に助けられた」
湊の言葉に紬の顔が少しだけ緩む。
「でも、あの時、無理してない?」
「大丈夫。ああいう時は、誰かのぬくもりがあれば、少し楽になるから」
少し間を置いて、紬が続ける。
「……私、まだちゃんと自分のこと話せないけど、湊さんがいてくれて嬉しい」
「ゆっくりでいいよ。急がなくていい」
湊は穏やかな口調で答えた。
「ねえ、湊さんはどうしてそんなに優しいの?」
紬がふと尋ねる。
「そりゃ、君みたいな子を放っておけないからさ」
湊は少し照れくさそうに笑う。
「……ありがとう。私、少しずつだけど、前より心が軽くなってる気がする」
「それはよかった。俺も、そう感じてる」
しばらく二人は穏やかな時間を共有し、朝の静かな食卓が続いた。
食事を終え、ゆっくりと時間が流れていく中で、紬は立ち上がり、窓辺で制服のリボンを結び直した。
まだ少し震える指先が、その細やかな動きに現れている。
「そろそろ行くね」
紬が声をかける。湊は無言で頷き、軽く笑みを浮かべる。
それぞれが身支度を整え、紬は背負っていたリュックを肩にかけた。
湊はコートを手に取り、外の天気を確認する。
「今日は雨、降ってないみたいだな」
「うん。よかった」
二人は玄関先で軽く目を合わせ、ぎこちないけれど温かい空気が漂う。
「気をつけてね」
「ありがとう。湊さんも」
静かな言葉を交わし合いながら、紬はドアを開けて外へと踏み出した。
湊はその背中を見送り、扉を閉めてからゆっくりと息を吐いた。
短い時間だけれど、確かな距離が縮まった朝だった。