湿った空気が駅のホームに残る。雨上がりの冷たい風が頬を撫でていく。
紬はそっと傘を閉じ、遠くから響く電車の音に耳を澄ませた。水たまりに映る自分の姿が、どこかぼんやりしている。
隣のホームに湊が立っているのが見えた。スーツ姿の彼がふとこちらを見る。視線が合った。
小さく会釈を交わす。言葉はない。けれど、確かな何かが通じ合ったようで、紬の胸はざわついた。
(なんで、こんなに緊張するんだろう。顔、赤くなってる?見られてるのに気づいてるのに、目を逸らせない。…それに、どうして少しだけ嬉しいんだろう。)
湊もまた、心の内でつぶやく。
(照れてる。明らかに照れている。でも、本人は気づいていないみたいだ。…それに、どうして自分の心がこんなにざわつくんだろう。)
電車の接近音がホームに響く。二人は別の車両に乗り込み、すぐに見えなくなった。
雨の匂いと冷たい風だけが、そこに残っていた。
◇◇◇
教室の窓から差し込む朝の光は、まだ夏の名残を感じさせるほど柔らかかった。
紬は机に向かいながらも、教科書の文字がぼやけて見えた。頭の中には、今朝の駅での湊さんの姿が何度も浮かんでは消えていく。
「最近、なんか変だよね?」
隣の席のクラスメイトが、からかうように声をかけてきた。
紬は思わず顔を上げ、微かに笑みを浮かべたものの、すぐに視線を伏せる。
「別に、そんなことないよ……」
心の中では動揺が渦巻いていた。
(湊さんのことを考えるだけで、気持ちがぐちゃぐちゃになる。どうしてこんなに揺れてしまうんだろう。)
授業の声が遠く感じられ、紬は深く息を吐いた。
「集中しなきゃ……」
けれど、心の奥で芽生えた感情は簡単には消えそうになかった。
◇◇◇
オフィスの窓から差し込む朝の光が、机の上に散らばった書類を淡く照らしていた。
湊はパソコンの画面に向かっていたが、視線は時折窓の外の街並みに逸れていく。朝の忙しさが始まる前の静けさが、不思議と落ち着かなさを掻き立てた。
「朝倉さん、今日のプレゼン準備は進んでる?」
背後からかけられた同僚の声が遠くから響くように感じられた。
湊は肩を少し動かし、わずかに顔を上げて応えた。
「はい、大丈夫です」
しかし、その声にはいつもの力強さはなく、どこか浮ついた響きがあった。
ポケットのスマートフォンが震え、ディスプレイに紬さんの名前が浮かぶ。湊は無意識に画面を手に取り、彼女の近況を確認する。写真や短い投稿が並び、胸が温かくなるのを感じた。
(最近どうしてるんだろう。あの子は、今、何を思ってるんだろう。)
湊は深く息を吸い込み、わずかに肩を回す。気持ちを整え、再び画面から目を離して書類に視線を戻した。
だが、湊の心はまだ紬に向かっていた。
◇◇◇
夕暮れが近づき、柔らかな橙色の光が公園の木々を染めていた。
紬は一人、ベンチに腰を下ろし、手の中で小さく握ったスマホの画面をぼんやりと見つめていた。今日一日の疲れが体中にじわりと広がっている。
遠くから歩く足音が近づき、顔を上げると、そこに湊が立っていた。スーツの上着を手に持ち、少し疲れた様子だが、どこか優しさを含んだ表情だった。
「こんなところで、一人?」
湊の声に紬は驚きつつも、少しだけ安心したように笑う。
「うん……ちょっと考え事してて」
紬は視線を伏せながら答えた。
「話したいことでもある?」
湊はベンチに腰を下ろし、軽く肩をすくめる。
紬は少しだけ迷ったあと、ゆっくり口を開く。
「家のことで、ちょっと…」
「そうか」
湊は言葉を選びながら続ける。
「無理に話さなくてもいいけど、もし話したくなったら、いつでも聞くよ」
紬は彼の手をそっと握り返し、かすかに頷いた。
二人の間に沈黙が流れたが、その静けさはどこか穏やかだった。
◇◇◇
夕暮れの公園は、すっかり薄暗くなりかけていた。
紬と湊はベンチに並んで座り、しばらく静かな時間を共有していた。
風がそっと二人の間を通り抜け、落ち葉がかすかに舞い上がる。
紬がそっと口を開く。
「また、明日も話せたらいいな」
湊は少し驚いたように顔を上げ、やわらかく笑った。
「そうだな、話せるなら嬉しいよ」
紬は顔を少し赤らめながら、うなずいた。
「うん、ありがとう」
湊は上着を肩にかけ直しながら立ち上がる。
「じゃあ、また明日な」
紬も立ち上がり、手を振る。
「うん、また明日」
二人の影が夕暮れの公園の地面に長く伸び、ゆっくりと離れていった。
冷たい空気の中にも、どこか温かさが残っているように感じられた。