授業が終わったあとの教室は、いつもより早く空っぽになった。
放課後のざわめきの余韻を残したまま、紬は鞄を抱えて廊下を歩いていた。夏の終わり、吹き抜ける風に少しだけ秋の匂いが混ざっている。
スマートフォンが震えた。通知に表示された名前を見て、足が止まる。
「今日、早く終わる。よかったら、またうち来る?」
シンプルな誘いだった。
でも、その言葉が胸の奥をやわらかく叩いた。
返信しようとして、親指が画面の上で止まる。
(行っていいのかな)
(ううん……行きたいって、思ってる時点で、もう……)
ほんの短い逡巡のあと、送信ボタンを押す。
「行ってもいい?」
返信はすぐに届いた。
「もちろん。鍋でもする?」
クスッと笑ってしまう。
そういうところがずるいなって、思う。気負わせないようにしてくれる優しさが、ただの優しさじゃないって、最近になってようやく気づいた。
夕暮れの校門を抜けながら、紬はふと思った。
(こうやって誰かに迎えられる場所って、昔から欲しかった気がする)
足取りが、自然と早くなる。
ほんの少しだけ、何かが変わり始めていた。
◇◇◇
スーパーの中は、夕方の買い物客でやや混雑していた。
紬は小さなかごを抱えて、冷蔵コーナーの前で立ち止まる。
「これ……入れたら変?」
取り出したのは、ウインナーともち巾着。
湊はそのラインナップに思わず笑ってしまった。
「いや、全然。俺もウインナー好きだし」
「ほんと?」
「うん、むしろ入れてほしいレベル」
安心したように紬は小さくうなずく。その顔が、少し子供っぽく見えた。
結局、野菜と豆腐と肉と、あとは紬のリクエストでうどんも買い足した。
買い物袋を持って店を出ると、空はすっかり朱に染まっていた。
「なんか……ふしぎ」
信号待ちのあいだ、紬がぽつりと呟く。
湊は横顔を見つめながら問い返す。
「何が?」
「前だったら、人と一緒に買い物するだけで、すごく緊張してたのに」
「今は?」
紬は少し考えてから、笑う。
「……たのしい。たのしくて、ちょっと怖い」
「怖い?」
「こういうのに慣れちゃったら、戻れなくなりそうで」
湊は何も言わずに、信号が青に変わるのを待った。
でも、その手が自然に紬の背中へ添えられる。
「来たいときに来ればいい。無理して我慢する必要なんてないんだから」
紬はその言葉に笑ってうなずいた。けれど、その目にはどこかで自分を抑えているような、遠慮が混ざっていた。
(もしかしたら彼女は、自分が“ここにいていい存在かどうか”を、ずっと探してるのかもしれない)
そう思ったとき、背中のぬくもりが、少しだけ強くなった気がした。
◇◇◇
食卓に湯気が立つ。
鍋の中でくつくつと煮える野菜や豆腐、その隣でぷっくりと膨らんだもち巾着が、どこか滑稽で、やさしい。
「……あつっ」
紬が口を押さえて目を細める。
ウインナーを慌てて箸で持ち直し、ふうふうと冷ましながら笑う。
「おいしい?」
「うん、めっちゃおいしい」
「よかった。俺、鍋の味つけはちょっと自信あるんだ」
「お店みたい」
そう言って、もう一つウインナーを取る。子どものような顔だった。
ふと、紬が箸を置いた。湯気の向こうで、その表情が少しだけ陰る。
「……鍋って、誰かと食べるものなんだね」
ぽつりと、そんな言葉が落ちる。
「一人で食べると、あったかいのに、どこか寒いの。……なんでだろうね」
答えは湊にもわからなかった。
ただ、自分も一人暮らしを始めたばかりのころ、同じような感覚を抱いたことがある。
「俺も、一人のときはあんまり鍋しないよ」
紬はうっすらと笑ってから、湯飲みに手を伸ばす。
その手が、少しだけ震えていた。
「……うちって、あんまり家族で食卓囲む習慣なかったの」
初めて聞く話だった。
それがどれだけ彼女にとって当たり前で、どれだけ寂しかったのか、想像することしかできない。
「学校でも……居場所あるようで、ない感じで。友達って呼べる子もいたけど、私が本当のこと話すと、いつのまにか離れてったりして」
「本当のこと?」
湊が訊くと、紬は少しだけ笑って、目を伏せる。
「家庭のこととか……お姉ちゃんのこととか」
その名前に、湊の中で何かが揺れた。
「お姉ちゃん?」
「うん。……すごくきれいで、頭も良くて、いつも人に好かれる子だった」
語る紬の声には、羨望と、そしてわずかな影が混ざっていた。
「私ね、お姉ちゃんのこと、ずっと好きだった。けど、同時に……勝てないって、思ってた」
紬は言葉を選ぶようにしながら続けた。
「……高校生の頃、お姉ちゃんが誰かと付き合ってた時期があって。毎日が楽しそうで、私、ちょっとだけ羨ましかったんだ」
湊の手が、箸を持ったまま止まる。
「名前、たしか“湊”って言ってたかも」
その瞬間、時間がほんの少しだけ、止まったような気がした。
◇◇◇
紬がシャワーを終えて戻ってくる。湊は既にベッドに入り、ベッドサイドの明かりだけが淡く部屋を照らしている。紬は少し迷った様子を見せながらも、湊の隣に入る。二人で一つの布団に収まる形になり、距離は自然と近くなる。
布団の中、互いの温度を感じるほど近くにいるが、すぐには何も起きない。緊張と安堵が交じる沈黙の時間。やがて紬がぽつりと呟く。
「……今日は、キスだけにしとく?」
その言葉に湊は軽く笑って、「うん、いいよ」と応える。唇を重ねるキスは短くも優しく、深い感情が込められている。キスのあと、紬はそっと湊の胸に顔を埋め、湊は自然に彼女の頭を撫でる。言葉のないまま、二人はその体温に安らぎを感じていた。
照明が落とされ、暗がりの中で微かに聞こえる呼吸が重なる。夜は静かに更けていく。すぐに眠りにつくわけではないが、どちらからともなく瞼を閉じ、そっと寄り添うように眠りへと沈んでいく。