※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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true 8話

 授業が終わったあとの教室は、いつもより早く空っぽになった。

 放課後のざわめきの余韻を残したまま、紬は鞄を抱えて廊下を歩いていた。夏の終わり、吹き抜ける風に少しだけ秋の匂いが混ざっている。

 

 スマートフォンが震えた。通知に表示された名前を見て、足が止まる。

 

「今日、早く終わる。よかったら、またうち来る?」

 シンプルな誘いだった。

 でも、その言葉が胸の奥をやわらかく叩いた。

 返信しようとして、親指が画面の上で止まる。

 

(行っていいのかな)

(ううん……行きたいって、思ってる時点で、もう……)

 

 ほんの短い逡巡のあと、送信ボタンを押す。

 

「行ってもいい?」

 返信はすぐに届いた。

 

「もちろん。鍋でもする?」

 クスッと笑ってしまう。

 そういうところがずるいなって、思う。気負わせないようにしてくれる優しさが、ただの優しさじゃないって、最近になってようやく気づいた。

 

 夕暮れの校門を抜けながら、紬はふと思った。

 

(こうやって誰かに迎えられる場所って、昔から欲しかった気がする)

 

 足取りが、自然と早くなる。

 ほんの少しだけ、何かが変わり始めていた。

 

 ◇◇◇

 

 スーパーの中は、夕方の買い物客でやや混雑していた。

 紬は小さなかごを抱えて、冷蔵コーナーの前で立ち止まる。

 

「これ……入れたら変?」

 

 取り出したのは、ウインナーともち巾着。

 湊はそのラインナップに思わず笑ってしまった。

 

「いや、全然。俺もウインナー好きだし」

「ほんと?」

「うん、むしろ入れてほしいレベル」

 

 安心したように紬は小さくうなずく。その顔が、少し子供っぽく見えた。

 

 結局、野菜と豆腐と肉と、あとは紬のリクエストでうどんも買い足した。

 買い物袋を持って店を出ると、空はすっかり朱に染まっていた。

 

「なんか……ふしぎ」

 

 信号待ちのあいだ、紬がぽつりと呟く。

 湊は横顔を見つめながら問い返す。

 

「何が?」

 

「前だったら、人と一緒に買い物するだけで、すごく緊張してたのに」

「今は?」

 

 紬は少し考えてから、笑う。

 

「……たのしい。たのしくて、ちょっと怖い」

 

「怖い?」

 

「こういうのに慣れちゃったら、戻れなくなりそうで」

 

 湊は何も言わずに、信号が青に変わるのを待った。

 でも、その手が自然に紬の背中へ添えられる。

 

「来たいときに来ればいい。無理して我慢する必要なんてないんだから」

 

 紬はその言葉に笑ってうなずいた。けれど、その目にはどこかで自分を抑えているような、遠慮が混ざっていた。

 

(もしかしたら彼女は、自分が“ここにいていい存在かどうか”を、ずっと探してるのかもしれない)

 

 そう思ったとき、背中のぬくもりが、少しだけ強くなった気がした。

 

 ◇◇◇

 

 食卓に湯気が立つ。

 鍋の中でくつくつと煮える野菜や豆腐、その隣でぷっくりと膨らんだもち巾着が、どこか滑稽で、やさしい。

 

「……あつっ」

 

 紬が口を押さえて目を細める。

 ウインナーを慌てて箸で持ち直し、ふうふうと冷ましながら笑う。

 

「おいしい?」

 

「うん、めっちゃおいしい」

「よかった。俺、鍋の味つけはちょっと自信あるんだ」

 

「お店みたい」

 

 そう言って、もう一つウインナーを取る。子どものような顔だった。

 

 ふと、紬が箸を置いた。湯気の向こうで、その表情が少しだけ陰る。

 

「……鍋って、誰かと食べるものなんだね」

 

 ぽつりと、そんな言葉が落ちる。

 

「一人で食べると、あったかいのに、どこか寒いの。……なんでだろうね」

 

 答えは湊にもわからなかった。

 ただ、自分も一人暮らしを始めたばかりのころ、同じような感覚を抱いたことがある。

 

「俺も、一人のときはあんまり鍋しないよ」

 

 紬はうっすらと笑ってから、湯飲みに手を伸ばす。

 その手が、少しだけ震えていた。

 

「……うちって、あんまり家族で食卓囲む習慣なかったの」

 

 初めて聞く話だった。

 それがどれだけ彼女にとって当たり前で、どれだけ寂しかったのか、想像することしかできない。

 

「学校でも……居場所あるようで、ない感じで。友達って呼べる子もいたけど、私が本当のこと話すと、いつのまにか離れてったりして」

 

「本当のこと?」

 

 湊が訊くと、紬は少しだけ笑って、目を伏せる。

 

「家庭のこととか……お姉ちゃんのこととか」

 

 その名前に、湊の中で何かが揺れた。

 

「お姉ちゃん?」

 

「うん。……すごくきれいで、頭も良くて、いつも人に好かれる子だった」

 

 語る紬の声には、羨望と、そしてわずかな影が混ざっていた。

 

「私ね、お姉ちゃんのこと、ずっと好きだった。けど、同時に……勝てないって、思ってた」

 

 紬は言葉を選ぶようにしながら続けた。

 

「……高校生の頃、お姉ちゃんが誰かと付き合ってた時期があって。毎日が楽しそうで、私、ちょっとだけ羨ましかったんだ」

 

 湊の手が、箸を持ったまま止まる。

 

「名前、たしか“湊”って言ってたかも」

 

 その瞬間、時間がほんの少しだけ、止まったような気がした。

 

 ◇◇◇

 

 紬がシャワーを終えて戻ってくる。湊は既にベッドに入り、ベッドサイドの明かりだけが淡く部屋を照らしている。紬は少し迷った様子を見せながらも、湊の隣に入る。二人で一つの布団に収まる形になり、距離は自然と近くなる。

 

 布団の中、互いの温度を感じるほど近くにいるが、すぐには何も起きない。緊張と安堵が交じる沈黙の時間。やがて紬がぽつりと呟く。

 

「……今日は、キスだけにしとく?」

 

 その言葉に湊は軽く笑って、「うん、いいよ」と応える。唇を重ねるキスは短くも優しく、深い感情が込められている。キスのあと、紬はそっと湊の胸に顔を埋め、湊は自然に彼女の頭を撫でる。言葉のないまま、二人はその体温に安らぎを感じていた。

 

 照明が落とされ、暗がりの中で微かに聞こえる呼吸が重なる。夜は静かに更けていく。すぐに眠りにつくわけではないが、どちらからともなく瞼を閉じ、そっと寄り添うように眠りへと沈んでいく。

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