仕事が終わる頃には、湊の意識はどこか朦朧としていた。パソコンのモニターを眺めながら、指だけが惰性でキーボードを叩いている。
ふと、スマホの画面がちらりと光った気がした。反射的に手を伸ばすが、何も通知はなかった。
紬からの連絡がないわけではない。けれど、あの夜以降、自分の中で何かが微妙にズレていた。
彼女の指が触れたときの感覚、声の温度、息づかい。思い出すたびに、胸の奥がざらりと泡立つ。
「先輩」
肩にそっとかかる声に、湊は反射的に身を引いた。
見上げると、後輩の早川が申し訳なさそうに笑っていた。
「ごめんなさい。驚かせました?」
「いや、大丈夫。何か用か?」
「なんとなく、最近疲れてるなあって。よかったら、飲みに行きませんか?気分転換に」
彼女は真面目で、誰に対しても気遣いができるタイプだ。
湊は一瞬迷ったが、誰かと話すのも悪くないと思い直し、頷いた。
居酒屋のカウンター席で、ふたりは簡単なつまみとビールを前に、他愛もない会話を交わしていた。
佐伯の話題は気さくで、笑い声も柔らかい。湊も自然と笑顔を見せることができた。
だがふとした瞬間、紬の表情が頭に浮かぶ。
唇を寄せる寸前の、あの意地悪そうな微笑み。自分の反応を楽しんでいるような、支配するような視線。
早川が軽く湯飲みに口をつけたとき、その顔がほんのわずかに紬と重なって見えた。
湊は思わずグラスを置き、咳払いでごまかす。
「大丈夫ですか?」
「……ああ、ちょっと熱がこもったみたいだ」
「じゃあ、そろそろ出ましょうか」
会計を終え、二人は店の前へと出た。夜風が火照った頬を冷ます。
「……このまま、帰るのってちょっと寂しいですね」
早川がぽつりとこぼす。
湊は一瞬、言葉の意味を測りかねた。視線を向けると、彼女は慌てて手を振った。
「あっ、変な意味じゃないですよ? ただ……こういう時間って、なんか惜しいなって思って」
彼女の言葉に下心はないと分かっていても、心が波立った。
たとえそれが善意でも、自分のなかに何かを揺さぶる。
そのときだった。
向こう側の歩道、少し離れた暗がりのなかに、人影が立っていた。
見覚えのある長い髪、白いワンピース。
まるで空気に溶けるように、しかし確かにそこに存在する――紬だった。
「……っ」
呼吸が一瞬止まる。
紬は動かない。ただ、その目がこちらをじっと見据えていた。
表情は静かだった。けれど、そこには明確な熱があった。冷えた嫉妬ではない。
もっと生々しく、もっと底の深いもの――所有欲。
その視線が湊の胸を突き刺す。
「先輩? どうかしましたか?」
早川の声に振り向いたときには、紬の姿はもうなかった。
幻覚だったのかと思いかけたが、視線の痕だけが焼きついて離れない。
帰路の足取りは重かった。
紬があの場にいた。なぜ、と考えるまでもなく答えは見えている。
部屋に来て、湊が不在で、偶然通りを歩いていた――そういうことだ。
自宅の前でポケットの鍵を探しながら顔を上げると、誰かが壁に寄りかかっていた。
紬だった。
腕を組んで、じっと湊を見ていた。
「――遅かったね」
その声は、怒ってはいなかった。ただ、妙に静かで、それが逆に恐ろしかった。
「今日……家、来てたのか?」
「うん。でもいなかったから、歩いてたら……偶然、見かけた」
「そうか……あの子は、会社の後輩で――」
「説明、いらないよ」
紬はそう言って、湊に近づいた。
夜の街灯の下で、彼女の目が不気味なほどに澄んでいた。
「……私以外に、触れさせる気なの?」
言葉は甘いささやきに似ていたが、背筋に冷たいものが走る。
それは尋ねる口調ではなく、確認するような響きだった。
言い訳も、弁解も、湊の口からは出なかった。
そのまま、紬がそっと指先を湊の胸元に触れる。
その一瞬の触れ方だけで、全身が震えるほどの緊張に包まれた。
「ねえ、湊くん」
彼女の声は、甘く、低く、首筋に滴る蜜のようだった。
「もっと、私のものになってよ――全部」
湊は、なにも答えられなかった。
夜は静かに、しかし確実に深まっていく。
湊の生活はまだ「日常」の顔をしていたけれど、その内側では確実に――
もう、元には戻れない歪みが育ち始めていた。
これでいい?
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いいよ。もう十分だよ
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